「・・・・・ぃ・・・!・・・・・・・おい!名字!!」

「・・・・っ」


思いっきり肩を捕まれた感触と、呼びかけてくる誰かの声。
赤い地面に縫い付けられたように固まっていた視界が、何かに遮られた。



「名字!!」


視界に、知った顔が映り込んだ。これは・・・・・・・・・松田くん、だ。


両頬を掴まれて、無理矢理上を向かせられていることに気がつく。だけど、皮膚に伝わる感覚はどこか鈍感で、温度も感じられない。これは、現実のことなのだろうか・・・?
この松田くんは、まだ生きてる?


「大丈夫か」

「・・・・・・・・・・・なにが」

「・・・近くの交番から警官が来てる。あとは任せて俺らは行くぞ」

「・・・・・・うん・・・」

「・・・・・・」


右手首を掴まれて、歩き出した松田くんに連れられるがままついて行く。
足下でぱしゃぱしゃと水をはじく音がぼんやりと聞こえて、ふと上を見ると、黒い傘がさされていた。そういえば、いつからわたしは傘をさしていないんだろう。
杯戸ショッピングモールで買った水色の傘が、松田くんの腕でゆらゆらと揺れているのが見えた。




「いらっしゃいませ〜」

「奥行くぞ」

店員に言ったのか、わたしに言ったのか、角のテーブル席まで進むと、ソファへと座らされた。向かいにも席があるのに、松田くんはわたしの隣に座る。
おしぼりと水を持ってきた店員に手早くコーヒーとホットミルクティーを注文する声を聞きながら、いつのまにかファミレスに来ていたことを認識した。


「っくし」

「ジャケット脱げ。風邪引くぞ」

びしょ濡れで、紺なのか黒なのか分からなくなったスーツをもぞもぞと脱いでいると、途中で腕を引っこ抜かれた。代わりに黒のブルゾンを手渡される。
松田くんの。さっきまで着ていたのを貸してくれるようで、サイズは大分ぶかぶかだけど、羽織っているだけでも肌寒さが軽減されるような気がする。


「・・・・・・ちゃんと着ろ」

「着たよ」

「違う。前」

「え?」


「・・・・・はあ」


松田くんの手が伸ばされて、ブルゾンのチャックを合わせ始める。その手元を追って視線を下げ、濡れたブラウスから下着の色が透けているのが見えた瞬間、チャックが1番上まで勢いよく引き上げられた。そういうことか。

「ありがとう」

「・・・・・」

気を遣ってくれたことに、笑顔を見せてお礼をする。隣に座っているのも、びしょ濡れのわたしを通路側の視線から隠すためなのかもしれない。


「いろいろありがとう」

「・・・・・笑えてねぇから、笑わなくていい」

「・・・・・・・・・・ごめん」

「謝らなくていい。それ飲め」


視線で示された運ばれてきたミルクティーに手をかけて、ゆっくりと喉に流し入れる。甘くて、温かい。同じようにコーヒーカップに口をつけた松田くんはそれ以上何も言わず、ただじっと隣に座っていた。



奥まった場所に位置するこの座席は、時たま来店者を告げるベルの音や、どこか遠くの席から聞こえてくる笑い声以外は至って静かなもので、ここだけ時間がゆっくり進んでいるような気さえする。
松田くんも、今日は外出届を出して出かけていたのだろうか。そういえばなぜ松田くんはスーツじゃないのか。隣から漂うコーヒーの香りとは別に、ふんわりと鼻を掠めた匂いを辿って、ブルゾンの首元を引き上げて鼻先を埋めた。




「・・・・・・・・・松田くんの匂い、安心する」


香水なのか、松田くんの匂いなのか、上着からいい匂いがする。しばらく2人の間は無言だったため、ほとんど独り言のつもりだった。




「もうちょっとこっち寄るか?」


埋めていた顔を上げて、こちらを見下ろす松田くんを見上げる。それから、シートに視線を下ろして、2人の間にある足1本分程の隙間を眺めていると、何かを言う前に松田くんの体が動いて、その隙間がなくなった。そして、そのまま松田くんの腕が頬へと伸ばされる。

「・・・・ちょっとは暖まったか」

そう言って頬を撫でた松田くんの表情は、今までに見たことのない優しい顔で、でも、どこかで見たことのあるような、・・・・・・そう、あの死の間際、観覧車の中で。彼の最後の顔はこんな表情ではなかったか。


「・・・・・・怖かったか?」

「・・・え?」

松田くんの眉がほんの少し下がる。親指が目尻を撫でたのを感じて、やっと自分が泣いていることに気がついた。


「嫌だったら離れたらいいから」


その言葉を言い終わるや否や、頬から離れた手が後頭部に回り、そのまま松田くんの胸元へと引き寄せられた。


血の通った温かい体温と松田くんの匂いに包まれる。途端に、この人は今、確かにここで生きているのだと痛切に実感した。

急激に熱くなった目から涙が止めどなく溢れ、目の前のシャツをじわりと濡らしていく。力強い腕に抱きしめられながら、とくん、とくんと規則正しく脈打つ心臓の音に耳を寄せ、悴んだ手で胸元のシャツを掴めば、わたしに回った松田くんの手が優しく背中を撫でた。





怖い。この人を失うことが。
自分では救えないんじゃないかと考えることが怖い。

一見ぶっきらぼうで愛想がなくて、冷たい態度に映ることが多いけど、本当はすごく友人思いで情に厚く、使命感に溢れていて、必要とあらば自分の命を賭してまで他人を救ってしまう正義感溢れるこの人を、わたしは・・・。


「・・・・・・・・な・・・ぃで」

「ん?」

「・・・・・・っ・・・死んじゃ、いやだ・・・っ」

「・・・・俺はそんな簡単に死なねぇよ」



本当に? ああ。


本当の本当に? 本当だよ。





意味のない問いを何度も繰り返し、その度になんの根拠もない答えを返し続けてくれる彼のことが。
何も聞かずに頭を撫で続けてくれるこの優しい人が、わたしは、苦しいほどに・・・・・・・。



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