今日の授業では、実際に現場で起こった事例を交えて、その対処法や書類作成の手法を勉強する。対処法の講義では当時実際に担当されていた方が来てくださり、経験談も交えた臨場感溢れるお話はとても興味深く、わたしたちはみな集中して耳を傾けていた。
1時間にも及ぶ講義は大盛況で幕を閉じ、次はペアを組んでの書類作成に移る。地味な作業だが、情報は命。現場から、本部へ末端へと引き継がれていく報告書類を疎かにしてはならない。
「様式2は終わったよ」
「ありがとう〜。これ見てくれる?降谷くん。見本とちょっと違ってて」
「どれ?」
今日のペアの相手は降谷くんだ。鬼塚教場一、いや、警察学校始まって以来の秀才と言っても過言ではない降谷くんがいれば、何をするにしても百人力なので心強い。まさに、一を聞いて十を知るを体現しているような人だ。
「これが参考になりそうだよ」
「んー・・・・あ、なるほど」
「できそう?」
「やってみる」
だからと言ってそれを鼻にかけることもなく、人を侮蔑することもなく、本当によくできた人だと思う。29歳で独身彼女なしとか、恋人が国だなんて、全く人生とはどうなるか分からない。
「降谷くんはさ、どんな警察官になりたいの?」
「え?・・・唐突だな」
「この間希望部署がまだ決まってないって言ってたでしょ?降谷くんほどの人なら、どこにいっても大業を成し遂げそうだなと思って」
「過大評価しすぎだよ」
「いやいや」
降谷零を評価せずして、何を評価するというのだ。
「名字はどうなんだ?」
「どんな警察官になりたいかって?」
「そう」
「わたしは・・・・・・世界中の人を救える警察官、かな」
「世界中の?」
「ふふ。それはさすがにできないって分かってるから、だから、わたしに手の届く命は全力で守れるようになりたいと思うよ」
「・・・そうか」
ここにも、まだわたしの両腕の中に届く命がある。
必ず全員を守り切る。そして、あちらの世界で見たような、こっちが泣きたくなるようなあんな顔、絶対降谷くんにさせないからね。
「降谷くんは、正義を貫ける人だと思うな」
「なんだよ、突然」
「突然だよね」
訝しむ降谷くんを見て、つい笑ってしまう。
「でも覚えててほしいな。これから先、きっと簡単な一本道ばかりではなくて、暗くて前の見えない道もあるし、這いつくばって汚れたり、誰かを踏み台にしてでも進まなきゃいけない道もある。でも、どんな場所でも、必ず降谷くんは正義を貫ける人だよ」
やっぱり降谷くんは、公安に配属されるのかもしれない。これだけ優秀なら、既に上層部が目をつけているだろう。そうなれば、きっと降谷くんと連絡をとることは困難になる。恐ろしく、醜穢で、命の危険と隣り合わせの騙し騙され裏切りと腹の探り合いのような世界に放り込まれていくんだろう。
そんなときに、少しでも降谷くんが力強く足を踏み出せるように。
大義のために為す自身の行いに、後ろめたさや罪悪感を抱かずにすみますように。
「イメージとかじゃない。降谷くんはそういう素敵な人だよ」
「・・・・・・・・・名字?」
「できた!」
「え?」
「書類完成〜。ありがとう降谷くん、助かった!」
「あ、ああ」
「提出してお昼ご飯食べに行こ!」
「ひゃ〜混んでるねぇ」
「外の訓練組も戻ってきたみたいだな」
今日の外トレは延々とランニングをし続けるという体力強化主体のメニューで、この猛暑の中では超過酷なハードトレーニングだ。
皆一様に首筋や腕から汗をだくだくと流し、あっちー!と手で仰ぎながら、水をものすごいハイペースで飲み干している。
「お、降谷ちゃんに名字ちゃんじゃん」
「萩原くん!」
「今から飯?」
「うんそう。萩原くんは?」
「俺と陣平ちゃんはあっちで席取ってるから、2人もご飯受け取ったらこっちおいでよ。あと2つ取っとくから」
「ありがとう!」
「悪いな」
「伊達班長と諸伏ちゃんは?」
「教官のお手伝いだって。時間ずらして後で食べるって言ってたよ」
「りょーかい」
今日のお昼はさっぱり冷しゃぶだ。午後からはわたしたちもランニングメニューが組まれているので、しっかりエネルギー補給はしておこうと、ご飯は少し多めに盛っておいた。
「こっちこっち」
窓際で、既に松田くんと向かい合って座っていた萩原くんが手を振って呼んでくれる。コップやらタオルやらを置いて、それぞれ隣を1つずつ確保してくれていたみたいだ。降谷くんと寄っていくと、わたしを見た萩原くんがあれ?と首を傾げた。
「髪に何かついてるよ」
「え?なにが?」
「なんか赤いの。ゴミ?」
ふるふると軽く首を振ってみたけど落ちていないみたいで、両手に持ったトレイを一端テーブルに置こうとしたら、松田くんがちょいちょいと手でジェスチャーをした。
「かがめ」
言われた通り、少し頭を差し出すように身をかがめる。ほんの少し髪の毛が引っ張られるような感触がして、目の前に、人差し指の先に張り付く小さな赤いテープがひらひらと差し出された。
「ありがとう」
トレイを置いて、それを受け取りながらそのまま松田くんの隣に座る。どこでついたんだろう、と自分の行動を振り返ってみて、あれかと納得した。
「さっきドレッシングの新品を開封したときのやつだ」
「なんでんなもんが頭につくんだよ」
「さぁ・・・」
「俺水とってくるから、ついでに捨てとくわ」
わたしの指からテープを剥がし取って席を立った背中にお礼の言葉をかけ、冷しゃぶを食べようとお箸をとったところで、前方からうーんと唸るような声が聞こえた。
「・・・・・・どうかした?」
「いやぁ・・・・・・・・・・うーん。なんかな・・・、降谷ちゃんも思うだろ?」
「まぁな」
「え?なに?2人とも」
「うーん・・・・・・」
うんうん唸る萩原くんと、まぁなとは言いつつどうでもよさそうにお箸を進める降谷くん。萩原くん一本に視線を固定すれば、ようやく何か言う気になったのか、すこし顔を近づけて内緒話のように口元に手をあてた。
「陣平ちゃんと何かあった?」
「・・・え?」
「陣平ちゃんがいつもと違う」
「そうかな。・・・どこらへんが?」
「どこらへんって言われると難しいんだけど・・・・・・、例えば、さっきの名字ちゃんの髪触るのとか、そこらへんの女子にはしないよ絶対」
確かに、松田くんが女子の髪の毛についたゴミをとってあげる図は想像し難い。
「・・・・・・わたしの手がふさがってたからじゃない?」
「トレイ置けばいいだけじゃん」
「・・・まぁ。・・・・・・後は?」
「後は・・・・・・・・・・雰囲気?」
「雰囲気って」
「いや、言葉にし辛いんだけど・・・・・・・ちょっと、彼女といるときの陣平ちゃんに似てるっていうか」
「へ・・・?」
彼女?松田くんの彼女って・・・・・・・。
この間、友人特別サービスでまた胸を貸してやるとか言って頭を撫でられたことと、合コンで出会ったらしい可愛い女の子と手をつないで街を歩く松田くんとが続けざまに脳裏に浮かぶ。見てもいないはずなのに、やけにリアルにイメージしてしまいお箸を持つ手にぎゅっと力が入ったのを感じたとき、萩原くんが軽い口調で言った。
「まぁ陣平ちゃんに女友達なんていたことなかったから、差なんて分からないんだけどね」
なんじゃそりゃ。
一気に体中の力が抜けたような心地になって、前のめりになっていた姿勢を戻そうとした瞬間。
「何してんだ、お前ら」
背後から急に聞こえた渦中の人物の声に、2人して大げさに肩を震わせた。
お箸を握ったままご飯も食べず、顔を寄せ合ってこそこそ話す姿は変に映ったことだろう。彼女どころか、友人に対して向ける顔とも思えない、心底馬鹿にしたような目で見下ろされた。