※ 人の死に関する記述があります。苦手な方はご注意ください。






「名前ー、はやく行こうよ〜」

「うーん、あとこれだけ!」

「えー?もうみんな行っちゃうよ?」

「先行ってていいよ。いつものカラオケだよね?後から追いつくから」

「早くしなよー?みんなには居残りしてるって言っとくから」



数学のプリントの最後の問題を睨みながら、後ろ手に友人に手を振る。これを今日中に提出して帰らないといけないのだ。生徒指導も担当している数学科の万場先生は怒ると超怖い。


何度計算しても答えが合わず、考え方は間違っていないはずなのになあと、もう一度シャーペンを手に取り、余白に計算式を立てていく。カリカリと自分のシャーペンが立てる音と、教室前方に取り付けられた時計の針の音だけが静かに時の流れを教える。

遠くの方から野球部のかけ声が聞こえてきて、やっぱりマイナスになってしまった答えにとうとうシャーペンを放り出した。


「っあー、もう!これ問題が間違ってるでしょ!そうとしか思えない!」



なんだか憎らしくなってきた問8から視線をはずすと、机上のスマホが白く光り、ロック画面に友人からの催促ラインが表示された。

「はぁ・・・」


文句を言っても終わらない。椅子の下に転がったシャーペンを拾おうと体をひねったとき、ペラリと紙をめくる音と同時に、教室の1番後ろのグラウンド側の席―いわゆる特等席―で本を読む女の子が視界に入った。


「ひぇっ・・・・・って、留木さんか!びっくりした!・・・ごめん、騒がしくして」

「別に・・・大丈夫」

「あれ、留木さんって図書委員じゃなかったっけ?行かなくていいの?」


留木さんと言えば、いつも角っこの席で一人本を読んでいる大人しい女子だ。話したことはほとんどない。というか、クラスの誰かと話しているところを見たことがない。休み時間は本を読んでいて、放課後にはいつも図書館で委員の仕事をしていると、誰かが言っていた気がする。


「日直だから・・・」

「え?・・・・・・あ!え!うそごめん!このプリント出すために!?」

「大丈夫」

「いや、いいよ!わたしがまとめて出すから、留木さんは図書館行かないとじゃないの?」

「毎日委員の仕事をしてるわけじゃないの。ここで本読んでても同じだから、気にしないで」

「ほ、ほんとに?迷惑かけてない?」

「ふふ、・・・大丈夫だよ」


留木さんが笑うの初めて見た。




留木さんって意外としゃべるんだ。留木さんって毎日係で図書館にいるわけじゃないんだ。留木さんって―・・・。


「ねえ、もしかして悩んでるのって、問8?」


「え?・・・・・うん、そう。全然答え合わなくて・・・」

「その問題、先生が授業中に数字が間違ってたって訂正してたけど、それは?」

「・・・・・何それ?」

「θの値が120じゃなくて45だったって言ってたよ」


初耳だ、と思ったのと同時に、万場先生の低い声が思い出される。すまんすまん、問8の数字設定がだな――・・・。あのときわたしは何を聞いていたんだろう。計算してみると、あっさりと答えが出た。


「どう?」

「できました・・・・」

「よかったね」



完成したプリントを手渡して、帰り支度をする。留木さんもプリントをクリップでまとめて、本を鞄にしまっている。
こんなに留木さんと話したのは初めてだ。もう少し話して帰りたい気もする。いつも一人でいる留木さんが、本当は今までずっと気になっていた。

本は何が好き?カラオケは嫌い?お弁当ひとりでさみしくない?委員の仕事じゃないのに、どうしていつも学校に残ってるの?なんでいつも絆創膏貼ってるの?
・・・・・・右腕のあざ、昨日はなかったよね?


結局、どの質問も口から出て言葉になるほどではなかった。突然いろいろ聞いても困るだろうしとも思った。もし悩んでいるなら、辛いなら、自分から誰かに話すだろう、泣くだろう、学校を休んだりするだろう。だから、こうやって今日笑って話している留木さんは大丈夫だと。

また、明日がある。




スマホのバイブレーションが震えて、着信を知らせる。

『名前あんたいつまでかかってんのよ!』

「ごめんごめん今終わったから!」

『名前の好きなあの曲、先に入れて歌っといてあげるわ』

「やー!すぐ行くからそれは待っててー!」

『15分だけよー。急げ急げ』

騒がしい音楽を背景に一方的に切られたスマホをポケットにしまい、時計を見上げる。ギリ間に合うか。


「留木さん、今日は本当いろいろありがと!また明日ね!」



「うん」





どうしてあのとき声をかけなかったのか。確かに異常は感じ取っていたというのに。わたしは、彼女を引き留めるチャンスを確実に握っていたのに。



雨の降りしきる憂鬱な金曜日。生徒が登校する8時15分のいつもの朝。

ばたばたと傘を打つ雨音がうるさくて、ただ何気なく空を見上げただけだった。フェンスの外側でぐっしょりと濡れた彼女が、泣いていたかどうかは分からない。
右手から傘が転がり落ちる。雨音が近くなって、あっという間に制服を濡らした雨水が背中や腕を流れ落ちていく。走れば間に合うのだろうか。叫べば聞こえるだろうか。静かに地上を見下ろして一人で屋上に立つ彼女は、もうわたしには手の届かない場所にいる。降りしきる雨で視界は悪いのに、なぜだか彼女が微笑むのが見えた気がした。


くるり、くるり。

ゆっくりと、スローモーションのように落ちていく小さな体を、彼女が生きていた最後の瞬間を見ていたのは、わたしだけだった。









「あ!また流れ星!」


誰かの嬉しそうな声で、過去の記憶のしじまからひっそりと目を開ける。藍色の夜空に、細く長く、いくつかの光の筋が流れ落ちていった。

まるで、あの日の雨のようだ。


「名字ちゃんは、流れ星になんて願ったの?」




「・・・―― “この手の届く命は、二度と手放さない” だよ」



「・・・・・なんか、かっこいいお願い事だね?」

「願い事っていうか、これはわたし自身の誓いなんだ」

「誓い?」



「うん。必ず、守ってみせるよ。全力で」




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