「アニル!ふくろう便だよ!」

フラットを管理するおばさんから
辞書ほど厚い手紙の束が渡された
見ずとも中身は知っている

家族からは「帰るな」
匿名の同胞からは「非国民よ、早く帰りてともに戦え」

故郷の争いがいちじるしく激化していることを
表す文字を眺めては暖炉に投げ入れていく

インドはあまりに遠い



大学に向かう途中、彼女の店が目に止まり
あの男のことを思い出した

見慣れた人種差別主義者の目ではない
より多くの物静かな狂気を含んだ目で
自分を品定めしたあの男
マグルに近しいのかと問う声は弾劾の域をこえ、
脅迫的ですらあった

イギリスに来て初めて差別とは何かを知った
インドにいた頃の自分のカーストは
そこに暮らす大多数の人より高いものだった
相手を低く扱うことに
違和感を感じたことはなかったし、
身分相応の対応をすることに
なんの疑問もなく生きていた

ここに来て、自分も周囲が変わってしまえば
被差別者となることに気付かされた
肌の色、瞳の色、言葉、文化、風習、
何もかも違うこの国で僕は独りだ

あれほど憧れ続けてきた父の国が
牙を隠し持っていた事に嘆く暇もなく
大学の手続きをすませ
4件回ってやっと入れてくれるパブを見つけた

エールをちびちびと飲んでいれば、
近くのテーブルを囲んでいた1人が話しかけてきた

「なぁ、キミって絵、描くひと?」

「なんで、分かるんですか?」

「指に絵の具が付いてるし、筆のあたる位置にタコがあるから。ワタシも絵描くの趣味みたいなもんだからさ、ちょっと気になったんだ」

「どんな絵描くんですか?」

「油彩、水彩、ドローイング、ペン画、日本画どんな技法でも描くけど、最近ハマってんのは人物画かな。スゴイよ。赤ちゃんの耳って。正確に描くのがむっちゃ難しい」

「面白そうです。ボクはインドで細密画を描いてたんですけど、西洋絵画におうてこっちの大学でいろいろ学ぼうとしてるとこです」

「インドから?そりゃ遠いね。住むとこは決まったのかい?」

「いや、実はまだ…」

「そうか」

少し考える素振りを見せたあと、その人はボクに言った

「おせっかいかもしれないが、
向こうのテーブルに
この街の建物はどこでも知ってる不動産屋がいる。
もし、彼に聞いて見つからなければ、
ワタシの家に間借りしてもいい。
とにかく紹介するから、来なよ」

「それは助かりますけど、ほんなにお世話になっていいんですか?」

「いいよ、もちろん。キミが嫌じゃなければね」

「ほな、よろしくお願いします」

それが彼女との出会いだった
あの頃のボクに1つだけ感謝してることがあるとすれば、彼女を信じたことだ
今のボクなら、見ず知らずの他人のご厚意は丁重にお断りするだろうから

ただ、その時、ある一点においてボクと彼女は意思疎通できていなかった



不動産屋に聞いてはみたものの、
残念ながらこの時期は学生があちこちからやって来て、手頃な物件は出払っているということだった

「まぁ、仕方ないね。
家たくさん部屋あるからさ、
全然来てくれて大丈夫ってか、 
むしろ一人だと寂しいんだよね」

二人共ほろ酔い気分で帰る途中、彼女はそう話しかけてきた

「すんません、ホンマ。何から何まで…」

「ううん、やっぱさ、
外国に1人で来るって寂しいもんね。
ワタシも昔こうやって助けてもらったから、
誰かが困ってたら真似できたらな、と」

彼女は自分の営む店の2階を住居にしているらしい
階段を登り、軽く部屋の説明をしてもらってから、
バスルームの使い方まで教えてくれた
行き届いた世話ぶりに素直に感謝して
つい言ってしまう

「おおきに。ありがとさんです。
もし、彼女さんとか来て、
邪魔な時は何時でも言うて下さい。
すぐ出ていきまっさかい」

「…彼女さん?」

「ええ、彼女さん…あっ、もしかして男の人が?」

「いやいやいや、ちょっと待って!
ワタシこれでも女!
花の乙女!
ごめんね、紛らわしくて!」

「???冗談言わんといて下さい。膨らみがありまへん」

「いや、本気の本気でワタシ、女だよ!
胸は確かに有るか無きかの控えめサイズだけど、
女は女だってば」

「…ホンマに?」

「ホンマに!」

「…えらいすみませんでした」

「いや、出て行かなくていいから!
別にワタシ女だからってだけで
どうこうされるほど弱くないよ。
キミも何かする気なんてないでしょ?
ならイイじゃん。住もうよ。むしろ住んでよ。で、家事半分手伝って!」

「本音がでましたな」

「うん、出した。だからさ、ここにいてよ」

必死で頼むその顔は、思わず息を呑むほど女で
出会ってから初めて、確かに可愛ええなと思った


3日たたないうちにお約束通り、
ボクは彼女と恋人同士になった

1年たったところで、
フラットを見つけて住むようになり
中途半端な同棲は終わりを告げ
ボクがちょくちょく彼女の家に寄るようになった

その時点で彼女との関係を終わらせなかったことを
ボクは最大級に後悔している

彼女がボクから離れる前に
ボクが彼女を捨てるたった一度のチャンスを
逃したのだから



The first to help you up are the ones who know how it feels to fall down.
(倒れた時、最初に起き上がらせてくれるのはその時の痛みがわかる人)





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