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イヌイ室長に頂いた目薬をまじまじと見て、蓋を開けて使ってみる。きん、と控えめに目が冷えて、目に感じていたのは渇きだったのだと理解する。ぱちぱちと瞬きを繰り返すと目に馴染んで、少しだけ楽になった気がした。気持ちが軽くなってぐ、と背筋を伸ばすと、どこからかぱき、と決して心地よくはない音がした。人間ってもっと屈強であってもいいと思うんだけど。
どうしてイヌイ室長は、わたしを知っていたのだろう?目薬をいじりながら考えてみても、あの方とどこかでお会いした覚えはない。この目薬だって、多分、そんなに安いものじゃあないだろうし。買って返したほうがいいかなと思いかけて、イヌイ室長の言葉を思い出す。
『ヒノトにはもう手、出された?』
むっかあ。
仕事中に至るべきではない感情が沸き立ってくる。ぶつかったのはわたしが悪かったけど、知らない上司にそんなことを聞かれる言われはない。完全なるセクハラである。イヌイ室長のせいでわたしの中のヒノト室長にまで風評被害が及んでいる。努力して忘れようとしている初日の記憶がぶり返してきている。だいたいそういうこと言われるようなことするヒノト室長の素行が悪い。いや、どっちも悪い。二人の室長の好感度がガタ落ちしていく。ハナレ室長かイナミ室長のところに異動届でも出してやろうか。まだ異動して一カ月だぞ。
「コトカちゃん、目が痛いの?大丈夫?」
後ろから声を掛けられて、情けない声が出ないようになんとか踏ん張ったわたしを賞賛して欲しい。肩越しにわたしに話しかけてきた室長と目を合わせるために慌てて振り返る。
「だ、大丈夫です!」
「本当に?でも今まで、目薬使ってるところなんて見たことなかったけど…」
「(鋭い……)」
ずい、と顔を覗き込んでくるヒノト室長が近い。イヌイ室長に掛けられた言葉のせいでいつもより二割増し近いように感じる。大丈夫ですの一点張りでいれば、ヒノト室長は「ふうん、」と納得いかないような声で呟いた。顔の距離はキープされたままでわたしの困惑は続く。ヒノト室長はいつもいい香りがするなあ。現実逃避をしてみても綺麗な顔は目の前にあるままだ。
「……ねえ、途中、誰かに会った?」
すう、とヒノト室長の瞳が細めるしぐさに、微かに鳥肌のような何かが背筋を駆け抜けた。
「い、いえ」
「……そう」
咄嗟にかぶりを振ると、静かに返事を返したあと、ヒノト室長はそっとわたしの頭を撫でた。「今日は必ず定時で帰ること。いいね?」そう言って笑うヒノト室長はいつも通りで、とくとくと名残で早い鼓動を刻む心臓が、場違いみたいにわたしの左側におきざりにされていた。
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