「ほ、本日より未事業室に異動になりました。元亥事業室、コトカと申します!」

カノエ室長の視線に弾かれるように立ち上がり、深々と頭を下げる。冷や汗で心臓が冷えきっていてもきれいなお辞儀が出来たのは偏にハナレ室長のおかげで、こんな状況の中ハナレ室長に感謝した。「ああ、いい、頭を上げてくれ」お言葉に甘えてゆっくりと顔を上げると、目が合ったカノエ室長は少し口元を緩めてくれた。

「お前、半年前に俺の営業研修を受けてくれたな」
「……!は、はい、覚えて頂いて恐縮です」

半年前、ハナレ室長に何事も経験だと、社内の営業研修に参加させてもらったことがあった。

営業部。この会社の利益の要であり、実力派揃いと言われているその部署。その統括であるカノエ室長は、勿論素晴らしい実力者である。研修も分かり易くてとても勉強になったし、挙動もキビキビと無駄がなくてかっこよかった。よく通る声に、熱い指導。この人の下で働いてみたいな、なんてちょっと思ったのを覚えている。研修の時、「コトカか。筋がいいな」なんていう言葉をかけてもらって浮足立ってしまったのもしっかり覚えているけれど、まさか、記憶に留めておいていただいていたなんて。あの時の浮つきが返ってきてしまうようで、ざわめく心臓を止められない。

「あの時、素質があると思っていてな。営業部に異動希望を出しておけばよかった」
「……っ!」

わたしには余りある褒め言葉。お世辞だって言い聞かせてみても、涙が出そうになる。ぐ、と唇を噛みしめていると、「ちょっとカノエ、人のこと注意しといてたぶらかすのやめてよね」とヒノト室長がいかにも不服そうな顔でわたしとカノエ室長の間に割り込んだ。

「悪い、ヒノトは手癖が悪くてな」
「カノエうるさい。営業部にはやらないよ」

手癖が悪い。カノエ室長の言葉が胸に引っかかる。手癖が悪い。つまり、女癖が悪い。わたしの手を簡単に取ったのも、あんなに近くでわたしに言葉を紡いだのも、簡単に、唇で触れるのだって。カノエ室長の言葉があれば理解するに易いし、納得もいく。つまりヒノト室長はフェミニストで、女性がすきで。上司のお二人の言い合いは耳に入らず、ぐるぐると思考が深くなっていく。

わたしの努力を認めてくれて、呼んでくれたのだと思った。それならその期待に応えたいと、そう、思ったのに。
うちの会社は女性が少ない。もし、女性がほしい、なんてそんな理由で、異動を命じられたんだとしたら。

「(……悔しい、)」

それなら、男に生まれたかった 。そうすれば、自分の実力だけ見てもらえたはずだ。そうして営業部でもどこでも行って、わたしの努力の成果を試せばいい。ヒノト室長に手渡されたプリントがくしゃり、と音を立てて、慌てて手の力を抜いた。

「……室長、デスクの場所を教えて頂けますか?確認事項にも目を通したいので」
「あ、うん、ごめんね。カノエのせいで」
「俺のせいか」

カノエ室長が帰られたあとも、プリントに目を通していても、お腹の奥が煮えたぎっているように熱くて、どうしようもない苛立ちを持て余したまま、ぐっと手を握りこんだ。



終業してもずっとムシャクシャした気持ちが後を引いて、家に帰ってすぐに大きく大きくため息をついた。感情が一人歩きして勝手に大きくなって、よくない傾向だ。大きく息を吸って、吐く。今日は早く寝て、朝早く起きて、久しぶりにランニングに出よう。このままの気持ちをズルズル引きずっていたら仕事にも支障が出てしまう。さっさと切り替えて、わたしはわたしに課された仕事をするだけだ。たとえそこが何処であろうとも。



あんなことがあった手前、ハナレさんに頂いたシャンプーを使おうか使うまいか一瞬、本当に一瞬迷ったけれど、迷いなくジャンプ―のポンプを押す。何かあればいつでも連絡してこい、と言ってくれたハナレ室長の顔が過るけれど、初日から何かあったなんて言いたくないし、心配してくれるであろう優しいハナレ室長に迷惑をかけたくない。
ヒノト室長のことなんて、知るものか。カノエ室長のお褒めの言葉を思い出して、ヒノト室長を頭から消し去った。


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