平和に行きましょう。
あぜがみ
正面から浴びた返り血を洗おうと沢に顔を近付けると、水面に揺れる歪な女の顔が映った。左目を潰す縫合痕さえなければ、彼女の母親とよく似た面差しは柔らかげで繊細な作りをしていた。昔対面した母親は美しく洗練されていて、浅草の路地裏で物乞いをしていた暦には母親が天女のように見えた。けれど暦が家に戻された頃にはすっかり正気ではなかったし、最後に見た時には鬼に腸を食われて見れたものではなかった。
暦も母親もおかしいが、違いがあるとすれば自覚の有無だろう。
己が「おかしい」と気付くのと物心がついたのが、どちらが先かは思い出せない。自我らしい自我を得た頃には、白痴の穀潰しとして物乞いをしていた。だが、暦は己を白痴だとは思わない。他の人間よりは、余程物を考えられる。だが、それを人に伝えようとすると上手く口が動かない。見えないものは、無いのと一緒だ。だから、暦は白痴と嘲笑われる。
そこまで思考してから、ややあって水を掬い上げて、顔を洗う。赤茶けて濁っていく沢から何度かそうして、幾分かマシになった顔を袖で拭ってから立ち上がった。
人であった肉を切り裂く行為は、決して気持ちの良いものではない。だが、そうしなければ切り裂かれるのは己であるから、暦は仕方なく今日も斧を振るう。
今日の鬼は、いつもよりすばしっこい鬼だった。
初めは威勢よく飛び込んできたものの、幾度か斬り込むと逃げの一手に徹され始め、面倒になってきた為後ろから首めがけて斧を思い切り振りかぶる。すり抜けるように手から離れた刃が月に反射しながら放物線を描くと、暫くしてから「ギャッ」という鬼の悲鳴が聞こえた。少し走って見に行くと、脳天が叩き割れて上手く再生出来ないまま倒れ込む鬼がいたので、そのまま頸を斬って殺す。
「はい、どこにも怪我はありませんでした。上手でしたね、えらいですよ」
隊服のボタンを留めようと四苦八苦する暦の頭を撫でると、「うう」と避けるように頭が振られる。それでも柔らかな髪を梳くように指を絡めると、照れ隠しのような顔で不満げに見詰められる。自分と1つ違いでしかない少女だが、しのぶにとってはすみ達よりも幼い子に見えるから、ついついそうした態度を取ってしまう。
だって、と言い訳のように思う。暦は、どうしたってまともとは言えない。口を開いても呻き声ばかりで、左目の惨い傷跡だって可哀想だ。育手からも見捨てられて、悲鳴嶼が拾うまでは力任せに刀を振るう有様だった。痛覚は極端に鈍く、毎回任務の後に診てもらわなければ命に関わる傷だって気付かないまま死んでしまうだろう。だから、この生きるのにとことん向いていない生き物について、しのぶはうんと小さな子どもにするように扱っていた。初めて出会った時など、珍しく焦った顔の悲鳴嶼が左腕の骨をぐちゃぐちゃにして尚呆けた顔の暦を抱えてきたのだから、致し方ないだろう。
ザクザクと、良く言えば大振りに、悪く言えばかなり雑に野菜が切り分けられていく。昆布で出汁を取った鍋に、醤油と味醂、それから酒を目分量でざっと入れる。手付きそのものは手馴れているのだが、不安の拭えない玄弥は、暦が本当に味を分かって作っているのか窺っていた。
悲鳴嶼の一番弟子だという女が白痴であると知った時、玄弥は初め憤った。白痴の女ですら呼吸を扱えるというのに、自分は日輪刀の色も変わらなかった。儘ならぬ現実に行き場のない憤怒が沸いて、癇癪を起こし、勢いのまま暦へ殴りかかった。
そして衣擦れの音がしたと思った瞬間、玄弥の体は滝のある川へと放り投げられていた。
あの時の俺バカだよなぁ、と回顧する。呼吸が使える人間と使えない人間との差がすっかり頭から抜け落ちていたし、冷静に考えて岩柱の継子をしている先輩隊士に新人が敵う道理はないのだ。あの当時放り投げた暦は殆ど無意識の迎撃らしく、極寒の川に浮かぶ玄弥を見て首を傾げる有様だった。
結局敵視していた暦に助けられ、悲鳴嶼にも事の次第がバレて、白痴と侮っていたことや殴りかかったことについて厳しく叱られた。
「玄弥」
くい、と袖を引っ張られる。しまった、手を動かしてなかった、と焦る玄弥の口元に小皿が差し出された。脂で輝く飴色のつゆが1口分注がれているらしい。
受け取って口を付ける。醤油と味醂が程よい、出汁の効いた美味いつゆだ。自然と頬が赤らむ。暦は食材の切り方こそかなり適当だが、味付けに関しては料亭の板前が作ったような出来であった。
「美味いです」
素直に褒めれば、にぱ、と暦も微笑んだ。細まる目元と上がる口角に歪な縫合痕が歪む。それさえ無ければとても綺麗な顔なのに、と右半分の顔を見ながら勿体なく思う。
prev next
Back to main nobel