平和に行きましょう。
あぜがみ3
滝のある修行場から屋敷へ戻ると、空気に漂ってふうわりとした腹の空く香りが鼻を擽った。普段自分の他には継子にした少女の気配と衣擦れの音が聞こえるだけだったが、昨日からは少々事情が変わっている。
ひょんなことから拾った少女の暦は良い。有り余る鬼殺の才能と人間として生きるにはあまりにも足りない様を見かね、悲鳴嶼が己でそうと決めて継子にした子だ。だが、以前の任務で滅殺した鬼から救われた2人の姉妹が押し掛けてくるのは、誰が想像できようか。しかも姉妹が来た昨日、暦は任務でいなかった。
ひゃあ、という甲高い悲鳴が聞こえたかと思えば、ドタドタと騒々しい足音が背後から近付いてきて悲鳴嶼の背中にぶつかってきた。鍛えた体幹は何の痛痒も感じなかったが、煩わしいには違いない。もんどりうって倒れたそれに振り返った。
「戻ったのならまず声を掛けなさい、暦」
「う、あぁ」
要領を得ない呻き声は常として、様子がおかしい。暦が悲鳴嶼の言いつけも守らない程冷静さを失っているのは中々珍しい。一見して幼児退行や知恵遅れといった者に類される様子だが、失語症でそのように見えるだけで決して頭の悪い子どもではない。きっと余程の何かが──
「あっ、いた!姉さん、悲鳴嶼さんの所にいるわ!」
「うやぁああ!?」
「あぁ……」
忘れてた。
昨日からいる胡蝶姉妹に暦の存在を伝えていなかったし、暦にも伝える機会と手段が無かった。昨日の時点で本当に追い返すべきだったと後悔しても遅い。事情も何も知らないまましがみつく暦と、それを引き剥がそうとするしのぶを見下ろしながら溜息が漏れる。
「しのぶ、この子は私の弟子だ。見かけはこうだが、自分の事は自分で出来る」
「でもその子、あちこち怪我してるのに何もしてないわよ。目の包帯も汚いし、変えた方が良いに決まってるわ」
背後にしがみつく暦に眉をひそめた。ひぃん、なんて情けない声を出して逃げようとしたので襟首を掴んで阻止する。悲鳴嶼が傍にいないとすぐこうだ。数日間の任務で自分に口出しする人間がいないから、汚れた包帯も面倒になってそのままずっと巻いていたに違いない。風呂には入っていても手当をしなければ何の意味もないというのに、全く。
血の繋がった肉親を殺されて、悲しみ憤る気持ちが分からない。信じていた子供に裏切られ、鬼に襲われて引き裂かれた心の痛みが分からない。
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