平和に行きましょう。

くろい


 黒黒として艶による光を帯びた髪が、目の前で肩から背へと滑り落ちる。音もなく、流水のような滑らかな髪を耳にかける仕草をしながら、切れ長の瞳がす…と花梨を見た。あまりにも自然な秋波は、本来の姿を知っていて尚一瞬迷いそうになる位可愛らしい女のソレだ。
 そんな風に現実逃避をしていれば、後ろ頭に白魚のような手が添えられ、更に正面から覗き込まれるように顔が近付く。至近距離で尚、粗が見当たらないとは最早悪い冗談のような出来だ。きめ細かく白い肌に通った鼻筋は丸く繊細な曲線を描いた極めて女性的。長い睫毛は呼吸と共に小さく震え、淡く紅が引かれてぽってりとした唇は考え事をするようにややすぼめられている。
 男らしさと全く無縁の柔らかな輪郭を持つ、どこに出しても恥ずかしくない立派な美女。…にしか見えない少年。
 日野花梨は、かつての友人であり六年い組の忍たま、辺銀沙の長屋にて並べられた化粧道具と沙の顔面を前に引き気味に戦いた。
 すなわち、こいつガチだ、と。
「お、おぉ…すごい本格的…」
「お前にだって櫛や紅の一つや二つはあるだろ?私のは、課題と趣味の半々だよ」
 紅、白粉、紅白子、櫛、簪、髪掻き…とにかく同じ物でも発色や模様の違いを含めば呆れるほど大量にある。特に玉虫色に光る物など見るからに怪しい薬物にしか見えない。
「あぁ、これは京紅。これは特に発色がいいから、光を吸い込んで緑色に見える。上質な証拠だ。勿論値段も良い。もっと良い紅になると、同重量の金塊と同じ値段になる」
 花梨の半眼に気付いて、沙が見せたのは貝殻に入った例の玉虫色だ。なるほど、確かに高そうな雰囲気はする。
「さぁて、お前と鉢屋の逢引の為に一肌脱いでやる。仕方は今度また教えてやるから、その顔貸しな」
「あっ、あいびきじゃないよ!買い物着いてきてもらうだけだよ!?」
「人はそれをデートって呼ぶんだよリア充が」
 ニィ、とらしくもない口角がつり上がった笑みが目の前に来る。美女になった顔でそんな表情は無駄に迫力があって恐ろしい。きっと夜の厠で沙と出会ったら、怪談もかくやの恐怖体験になるに違いない。
「途中で表情変えたり喋ったら化粧悲惨になるぞ」
「ええ、ちょ」
「よーいスタート」


 手拭いで髪を上げさせた顔に紅白粉を慎重に乗せながら、沙は慣れた手つきで化粧を完成させていく。既に花梨に使う化粧道具は選別し終えており、並べられたそれらを手に取っては器用に指先で色を乗せるだけになっていた。
「次はお待ちかねの紅だ。唇に触れるけど動かすなよ」
 脅したせいか、目をギュッと瞑って口を突き出す顔は可愛いとも言い難い表情だが声色にはおくびにも出さないでおく。
 紅は、沙が普段使わない色を用意した。女装した沙が名前も知らぬ男の1人から贈られた紅だが、発色が気に入らなかったので全く使ってないまま置いていた物だ。趣味が合わないので使える男リストから除外したが、花梨には似合いそうなので結果オーライとも言える。
 ちなみに一応用意した京紅は、高過ぎておいそれと使える物でもなし、変装で使うにしても町娘には不相応極まりない代物なので、これが意外と箪笥の肥やしになっていた。何事も程々が大切なのだ、と買ってから思い知ったのは良い経験だろう。
 薬指にちょんと取って、すぼめられた唇へ乗せていく。あまり強くし過ぎると気合の入った化粧になるので、極軽くである。
 僅かな衣擦れと呼吸が聞こえるだけの室内で、遠くから聞こえる喧騒に聞こえない振りをしながら、作品のように花梨の顔を仕上げていく。
 顔が終われば、今度は髪を梳くのだ。椿油がよく染みたツゲ櫛は、沙が母から貰った大切な宝物だった。毎日梳けば、仙蔵とも勝負出来るサラツヤヘアーとなる勝負道具でもある。元々よく手入れされている髪は、少しの動きですっかり綺麗になった。
 尤も、三郎が女の髪一つに対して敏感に反応する嗅覚を持ち合わせていれば、程度の違いだが。
「ほれ、出来たぞ。そこに柄鏡があるから、しっかり確認していけ」
「うん、…すごいね!?思ったより別人みたいになってる!」
「変装にならない加減って難しいな」
「えっそれ下手したら本当に別人になってたの?」
「…ははははは!」
 無論冗談だが、花梨をからかうのは沙の趣味でもある。
「ま、逢引楽しんでこいよ」
「逢引じゃないー!いってきます!」
 化粧して会いに行くのなんて逢引以外の何物でもないのだが、という感想は敢えて飲み込んで、綺麗に着飾った花梨が長屋から飛び出していくのを手を振って見送った。
「…はぁ、忙しない」
 白粉を溶いた器の洗い物や片付けを尻目に、嘆息する。花梨にああやって年相応に楽しむ余地があるのを見ると、化粧をした甲斐もあるというものだ。
「……綾部の落とし穴に落ちないよう、送ってやるべきだったか?」
 遠くから、また伊作が嵌ったような悲鳴が聞こえた気がした。
「……………。ま、いいか」
 知らね、と言いながら助ける算段を立てつつ、沙は長屋へ戻っていった。花梨のことは既に頭から抜け落ちた。どうせ、穴に嵌ってもすぐに助けてくれるような相手がいるのだから。



























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