平和に行きましょう。
水雪館
じっとりと纒わり付くような、湿気を多分に含んだ空気を吸い込むと僅かに苦味も腔内に滑り込んだ。潮気だろう、目の前に聳え立つ館の奥には空の青さとは異なる深い海が広がっている。
日本人離れした美貌も目を引くが、最も特徴的だったのは青い瞳だった。黄色みがかった白い肌や黒髪は紛うことなき日本人のそれだが、長いまつ毛に縁取られた切れ長の目付きの中に、明らかに異様な青が収まっている。
「初めまして、兎山サラです。えっと…祖母か兄が来るべきだったのですが、どちらも都合が付かず、私が代理として来させて頂く運びとなりました。短い間ですが、よろしくお願いします」
笑顔というにはやや堅いが、微笑んだ兎山は小さく会釈して元のソファーに座り直した。人見知りらしく、館の女主人である杉山奈緒美から提供される話題に参加しながらも、どこかぎこちなく緊張しているように見えた。
真雪の祖母、兎山雪代が最後に建てさせた水雪館は、名の通り雪のように白い屋敷だ。日本建築から大きく離れた北方ヨーロッパのハーフティンバー様式による建築物で、壁の漆喰は勿論飾り模様となっている窓や骨組みの木材も全て白で統一されている。
「まぁ、この屋敷は元々こんなに真っ白にはされてなかったんですよ。昔ここに水雪館の前身だった建物があったんですけど、20年近く前に豪雪と老朽化が重なって倒壊しまして。そこで取り壊しはせず、お祖母様はまたここに新しい建物を立てようと考えたそうです。その時に雇った建築家っていうのが、えぇと確か…」
「─中村青司ですね」
「そう、その方です。お祖母様は九州にも知己がいるみたいで、その伝で中村さんにこの館を建ててもらったとか。まだ父も母も生きていて、何もかもが穏やかだった頃の話です」
壁も、床も、天井も、四方八方を。絨毯から調度品、雑貨の隅々までを白で統一された部屋で唯一黒を纏った男性は、一見すると悪魔めいて見える。落窪んだ目も、鷲鼻も、そんな印象を強くするような気難しげなものだが、まだ出会って僅かでも決してそんな陰鬱な人間でないことは大いに理解できた。そもそも、妹を助けてくれた時点で知っていたことだが。
「ははは、サラちゃんがあんなにはしゃいでいるなんて、何年振りでしょうかねえ。家族ぐるみのお付き合いをさせてもらってる私でさえ、あんな可愛い顔見たことが無い。まるで恋する乙女だ」
「ま、ここ最近のあいつの様子は本当に恋煩いでしたからね。ああ、あんまり気にしないでやって下さい、鹿谷さん。サラは今あんまり学校に通えないし、関わる人間といえば祖母や俺、それにこんなオッサンくらいなものなので」
「酷いなぁ、真雪くん」
正面玄関と前庭が一望できる食堂の出窓には、座りやすいよう白を基調とした様々なクッションが敷き詰められていた。そして、一見すると見落としてしまいそうになる程溶け込んで、サラがその出窓から外の景色を望んでいた。
流水のような滑らかな黒髪が背中から腰へ、そして出窓へ垂れている。病人じみた白い肌は興奮からか血色づき、その顔は額を硝子に付けながら、下をゆっくりと眺めていた。装いは朝とは異なり、淡いクリーム色の分厚いカーディガンと白いレースのワンピースを着ている。
「お兄ちゃん、見て。この下にキツネが来ているの。真っ白いキツネよ。お稲荷さまの使いかしら?」
無邪気な声で「お兄ちゃん」と呼ばれ、一瞬頭が固まるが、次の一瞬で理解する。どうやら、この部屋に入ってきたのを鹿谷ではなく兄の真雪だと勘違いしたらしい。人前ではお兄様と格式張っているが、こちらの方が素のようだった。
「あの事件の……誘拐と監禁の主犯格は、実際は私達のクラス担任をしていた多々良先生でした。テレビでは皆が消えたことばかり注目してるけど、そもそもの発端はそこなんです。元々あの津野山村出身だった多々良先生は、自分が受け持つ生徒たちを旅行とか合宿の体で村に連れて行くことが目的だったそうです。それで私達を修学旅行で連れてきて、旅館の人達もグルで監禁して……あとは、テレビで知ってる通りです」
「私と、他の生き残った虎杖くんと赤城くんが逃げられたのは、殆ど偶然でした」
「多々良先生が、好きだったの。お父さんみたいに優しくて、たくさん勉強以外の遊びも教えてくれて、私のこと気にかけてくださったの。津野山村が故郷だったこともあの人から教えてくれた。廃坑で探検して大人に怒られた話も、どんな山菜が採れるのかも懐かしそうに話してくれた。……それで、私を村から逃がしてくれたのも、多々良先生だった」
「犯人なのに、悪い人なのに、変に優しくしてくれたから、嫌いになれないんです」
水雪館
女優、兎山雪代が50の頃(1970年頃)に故郷長野に建てた純白の館
内装は勿論、食器や細かな雑貨に至るまで白で統一されている。雪代の戯れともいえるルールで、この館に滞在する際家人は白の装いにすべし、と定められている。とはいえそこまで厳格なルールではない
時空列としては黒猫館と時計館の間に建てられた
兎山雪代
1991年時点で齢70の老女。元女優であり、資産家としての兎山家の戦後を支えた女傑。夫であり前当主だった真良は既に逝去している
現在は既に実権や財産そのものは一人息子の長男である真雪に明け渡し、水雪館に隠居している。真雪の妹、孫娘のサラを自らの生き写しとして溺愛している
兎山真雪
1991年時点で27歳。兎山家の現当主で、住まいは東京に構えている。ディレッタントを気取っており、それらを集め、調度品として展示している変わった喫茶店を経営している
両親は15年前に交通事故で失っており、祖母に育てられてきた。妹のサラを失うことを何より恐れている
兎山沙良(サラ)
1991年時点で17歳。祖母、雪代の生き写しと呼ばれ、輝くような美貌の少女。しかし人見知りがちでやや内向的な性格と、昨年遭遇した事件により若くして人間不信となっている
作家鹿谷のファンであり、著書を繰り返し読んでいる
結城惟永
40歳。サラの主治医であり、昔近所に住んでいた縁から家族ぐるみの付き合いが続く唯一の人間。山奥で養生することを選んだサラを診るため、雪代に依頼され水雪館に滞在している
真雪からは雪代の間男ではないかと思われている
兎山沙(故人)
雪代の父であり、真雪とサラの曽祖父。兎山家の初代当主で、財閥レベルのグループを率いていた傑物。しかし50年前、丁度50歳に差し掛かった頃突如行方不明となり、失踪者となった。第二次世界大戦、太平洋戦争のゴタゴタで国中が大わらわになった時期の為、捜査らしい捜査は出来なかったとされる
兎山國雪(故人)
雪代と真良の息子。真雪とサラの父親。15年前に交通事故で亡くなっている。享年35歳。
兎山春子(故人)
國雪の妻。真雪とサラの母親。15年前に交通事故で亡くなっている。享年32歳。
イタリア系ハーフだった
水と雪にまつわる名前
沙(兄妹の曽祖父)と沙良、雪代と真雪はそれぞれ関連している
真良(まさよし)は兄妹の祖父、雪代の夫の名前
沙良の遭遇した事件
昨年10月に修学旅行で訪れた山村にて怪奇事件に巻き込まれる
土着信仰の密教、それの儀式。生贄にされかけ、命からがら逃げ延びた僅かな生き残りの生徒達。
残された血塗れの村。行方不明となった村民、そして生贄にされてしまった生徒達。
800人の村人と30人の生徒が一夜にして血と僅かな肉片を残して消え去った事件はセンセーショナルに飾り立てられ長く世間を賑わせた。生き残りの生徒(沙良含む)5名は「村民に監禁されていた。他の皆は連れ出され戻らなかった」と証言し、調査により村の山奥にある施設で冒涜的な行為が行われていた証拠が見つかった
生き残りの子供たちは証言こそ残したが精神状態は錯乱しており、長期療養としてそれぞれ世間から身を隠すようになった
この為、沙良は祖母・雪代の別荘である水雪館へ身を寄せていた。そして惟永が勤務する病院へ定期検診に赴いた帰りたまたま独りとなった瞬間事故に遭い、鹿谷に助けられた
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