平和に行きましょう。
生き恥
何故生きているのか。
哲学を齧ったこともなければ基本的な義務教育すら教師に反発して中指立てていたハイヤは、けれど自分だけが生き残ってからは否応なしにそんな思いに囚われるようになっていた。
砂色の空に手を翳してみるが、透けて見えるなんてことはない。ひょっとすると自分は既に死んでいて幽霊になっているのかもしれない、なんて考えになりながら、血の滲んだ爪先とジクジクとした痛みに耐えて目を閉じた。瞼の向こうにあるのはほんの数日前まであった「当たり前」だ。
市街戦が激化の一途を辿るようになり、ハイヤは老いた両親と共に近くの学校に逃げ込んでいた。来た時にはとっくに殆どの生徒やその親は疎開してしまっていて、その学校には親のいない(あるいはいなくなった)子どもが10人取り残されている状態だった。満足に動けない老人2人と男が一人増えたところで知れたものだが、それでも親どころか先生さえいなくなって途方に暮れていた子どもたちには3人の大人は随分頼りに見えたらしい。実際本当に何かを出来る訳ではなかったが。
軍人崩れのハイヤが出来たことといえば、せめてもの戦地への抵抗で正門や窓という窓に板を張りつけたりバリケードを築いたり、物理的に子どもが出来そうもない力仕事を延々とやる程度だった。車椅子に座る父やそれに付き添う母は低学年のチビ相手に怯えないように構ってやったり食事の用意をしてやったり、無愛想で目付きの悪いハイヤよりも余程懐かれていた。時々外に出て配給を貰ってきたり、その辺の店からかっぱらって来たお菓子をばらまいてやったのに、何故かいつも遠巻きにされていた。別に好かれたい訳でもなかったけど。
奇妙な共同生活は、そこそこ上手くやれていたはずだった。くそ生意気な上級生どもや無駄にませて足元をちょろちょろ動き回る何かと邪魔なチビどもはともかく、少なくとも非日常でありながら現実逃避にも似た穏やかさで暮らしていた避難生活は決して嫌いではなかった。
その日は朝からずっと近くで銃撃戦が起きていた。アンドロイドと魔法使いが作ったよく分からない生き物との戦闘はとても見られたものでなく、ハイヤは両親と子どもたちを体育館の地下室に避難させていた。水も食料も備品も、とにかくありったけをそこに掻き集めたので例え地上で何が起きてもしばらく生きていけるように。
チックタックと時計の秒針が進む音を聞きながら扉の番をしていた。途中父や上級生の子どもが変わろうと言ってきたが全て聞こえなかったフリをして、ハイヤは時々近くの家を爆破させる砲撃を見ながらずっと地下室を守るように見張り番をしていた。それから昼を跨いで夜に差し掛かった頃、ようやく膠着状態から小休止となったらしく昨日と同じような静けさに戻った。
恐らく、この時に全員外に出していれば誰か1人くらいは生き残ったかもしれない。
夜になって完全に静かになった頃に、下級生のチビが地下室に耐え切れなくて泣き始めた。緊張の糸が解れたにせよあまり良くない状況で、つられて半分の子どもが泣き喚き始めて辺りにそれなりに大きな音として響いた。
ど───……ん…………
遠くから昼間飽きる程聞いた砲撃の音が聞こえて、けれど子どもたちの声や慌てた声に気を取られて一瞬分からなかった。
その直後、頭上の壁一面の窓ガラスがドーム状に膨れ上がったかと思うと、一瞬遅れて音もなく粉々に砕け散った─音はあったのかもしれないが衝撃波に鼓膜が突き破られて一時世界が無音に閉ざされたまま、硝煙なのかガラス片なのかよく分からない白い霧が視界一面に舞い上がって辺りを白く染めあげた。状況は分からない。爆心地の衝撃で吹き飛ばされ、伏せたままガラスの破片が背中を叩く感触だけが唯一状況を伝えてきた。
数十秒か、もしかしたらほんの一瞬だったかもしれない。背中を叩く感触は終わったが白く立ち込める粉塵は収まっていなかったし、咳き込みながら頭をあげると額から液体が流れるのを感じて、遅れてから割れるような頭痛とキィンとした無音の耳鳴りがする。泣き声が聞こえない。
ようやく聴覚が戻ってきて鼓膜の中で鐘を打ち鳴らしたような騒音がわんわんと乱反射している。頭痛よりも脳に直接響くそれの方にまいりながら、頭の片隅で地下室の音を拾おうとした。立ち上がろうとすると撒き散らしたガラス片が手や足にくい込んで切れたが、そんなことには構わず遠くに見える地下室の扉を目指した。辺りは静かだった。さっきまであんなに喧しかった子供の泣き声も両親の慌てた声もぶつりと途絶えて、今にもまた誰かのくだらない話し声が聞こえそうな日常的な静けさがあった。そうであってほしかった。
砲撃が直撃した地下は燃え盛っていた。ひしゃげて元の形が分からなくなった扉はほんのわずかに開いていて、その奥からは炎が嬲るように覗いていた。
走って助けに行く前に、ハイヤの体は後ろから何かに抱き止められた。人形のような節のある冷たい機械の手。アンドロイドだ。
「民間人を発見しました。基地へ保護致します」
アンドロイドは人命救助する際「確率」を最も重視している。死ぬ確率と生きる確率。実に効率的で分かりやすく公平だ。だから脳震盪と切り傷、骨折に火傷で済んだ生存率の高い若い男が真っ先に保護された─それが、それだけがハイヤが今も生きている理由だった。アンドロイドとその製作者の観点から言えば燃え盛る地下室にいた人間は既に死に逝く存在で、例え助かっても戦時中のご時世に半死半生の民間人複数に掛けられる治療や食事なんて余裕はなかっただろう。
悲しいことにハイヤは狂えなかった。目の前で短くも生活を共にした子どもと血肉を分けた両親を見殺しにしても。誤射なんてものをしやがった軍に保護され生かされ事実を突きつけられたとしても。
怒りにも狂えず悲しみにも暮れきれなかった代わりに絶望した。
あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”!!!!あ”づい、あ”づい”よ”ぉおおおお!!!!
いだいっいだいっめがいたい!!
あけてよ!!あけて!!!しんじゃうよ!!!!
みずち”ょおだい”い”ぃ!!!
耳を澄ませばあの声が聞こえる気がする。ハイヤを助けた後改めて確認しにいったアンドロイドが録画していたその映像を見たハイヤは、鼓膜が破れて聞こえなかったその時の絶叫を確かに聞いた。
自分だけが助かったことに負い目も感じられない。それはただの事実であって、生きていることも死んだことも結果論だ。せめて父や子どもたちが交代を申し出てくれていた時変わっていたらソイツが生き残っていたのかもしれないというもしもの話だけが後悔として残り続ける。仮にあの砲撃を生き残っても車椅子の人間は長く生きられなかっただろうし子どもだって耐え抜けないだろう。結局ハイヤもアンドロイドと変わらないおぞましい合理的な思考回路しか持っていなかった。
翳していた手はやはり透けない。じりじりと灰になっていく煙草を肺腑の奥まで吸い込んでこのまま息を止めて死んでしまえばいいと思うのに、体はやっぱり死のうとしない。ただ噎せて煙い咳が不快になっただけだ。
きっとハイヤはあの日をトラウマに出来ない。それだけはれっきとした事実でいつの日か煙のように記憶は薄らぼんやりと掻き消えてしまうのだろう。
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