平和に行きましょう。

ホラー


 切っ掛けは鈴虫やコオロギの遠鳴きか、はたまたぐっしょりとした冷や汗の不快感に耐えかねたのか。いつの間にか詰めていた息を吐いた瞬間、額に張り付く髪と汗を拭い、異常な喉の乾きと肋骨から飛び出しそうな程の鼓動を感じた。
 ゆっくりと、音を立てないよう襖へ耳を当てる。
 新月の真っ暗闇、丑三つ時に閑散とした本丸を歩き回れる程沙は豪胆ではない。さてはてどうしたものか。嫌味なくらい軋み一つ立てない廊下へ、紙灯篭を片手に摺り足で出る。
「と、とんぼぎりー…どこー…」
 同行者の姿は生憎ながら、数分前から見当たらない。
 無責任の文字がそもそも辞書にない性格であるし、黙ってどこかに行こうという発想もない。だから悲しい事に、自分が迷子なんだろう。
「…やっぱ断りゃ良かったなー…」
 化物屋敷と化した他人の本丸探索など。
 表向き、というよりそもそも審神者不在の本丸に足を踏み入れること自体が裏向きなのだがそれはともかく、いたいけな子ども(笑)な沙に依頼されたのは、以前に交流のあった顔見知りがいた本丸、要はこの化物屋敷の調査だった。『審神者が突如いなくなって本丸がやべーことになり始めました。とりあえず様子を観察だけしてください。出来ると思ったら原因も調べてね。ほら、現場のことは現場の人間が一番分かるんじゃない?』と格式張った依頼書から、頭の足りない沙なりに理解した。確認としてコールセンターへ連絡すれば、念押しとばかりに再度依頼された。子どもでも出来るように、政府が知りたいことが網羅されたチェック表までご丁寧に用意されて。
 仕事をしてるのか、ただサボっているだけなのか。他人の手を使う為なら用意周到というか、子どもに頼る代わりに子どもの為の手段も用意するだけまだ良心的と取るべきだろうか。
 大人の事情など子どもが考えても無駄である。なので沙はいつも通り猫を被り、いい子ぶって頷いたのだ。
「とんぼー。とーんーぼー」
 一通り冷や汗をかいて現実を見ると、いっそヤケになってしまうのが沙という子どもだった。相変わらず足は小鹿の如く震えているが、歩けない程ではない。そろりと摺り足を進めると、今度は縁側へ出た。
 知人の本丸は、本人が不在の割には中々小綺麗である。知っている限り、建物全般は人の手が無くなった途端に居場所としての温かみを失う。その点においてこの本丸はまだ辛うじて存続しているようだったが、電灯の一切が点かない上に、絶えず腐った臭いが空気に含まれている。特定の場所からではない、この本丸がある空間全体の空気が僅かに腐っていた。
「とーんぼー…うっわすげー水。あれ水?むしろあれコールタールじゃね?」
 縁側は裏庭に面していた。本来なら橋のかかった池や離れが見える美しい庭園なのだが、見える範囲の水らしき液体が全て黒く波打っている。ああいうのは大概近付かない方が身のためだ。さにわしってる。
 わーやべー、と思いながら、1度灯篭を置いてチェック表の備考欄に様子を簡単に書き込んでおいた。
 空気 : めっちゃにおう。
 刀剣男士の様子 : 砂鉄。
 室内の様子 : …………。
 備考 : 水が黒い。
 こんな内容でも、仕事は仕事である(解読は後々読む人間に任せるが)。
 蜻蛉切といた最初の頃、新選組系男士の寝室と思わしき部屋で所謂オトナの本を見つけてしまったから、三項目に関しては持ち主の名誉を尊重して敢えて書くまい。子供の視点の広さを侮ってはならない。
 そんな風に油断、もとい落ち着き始めたらからだろうが。
 ベチャ、と粘液が零れ落ちた音がした。
「……あぁ?誰だお前」
「ぎゃ」

 鎮まりかけていた心臓が爆発した。

 どこにそんな機動があったのか、脱兎の如く駆け出そうとして、しかし足は空を掻いた。焦ってぶっ転げて、誰かが咄嗟にそれを支えたからだが、そんなもん混乱した子どもが理解出来る筈もなく。
「あっ、ああああああああああああああああああああ!!!!!うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
 高音波が鼓膜をつんざいた。
「うおっ、うるっせぇなぁ…」
「とんぼおおおおおおおお!!!とっと、とんぼぎりいいいいいいいいいいい!!!!」
 本能が「死ぬぞ」と囁けば、幼くて生っちろい理性などその辺の紙切れ同然に吹っ飛んだ。半狂乱で、更にしっちゃかめっちゃかに暴れまくる沙は保護者を呼び叫ぶ。 べちべち叩かれながらも、一応は拘束も兼ねて手を離さない誰かは咄嗟に叫んだ名前に覚えがあったらしい。
「…蜻蛉切?なんか懐かしい顔があるかと思ったら、あんたの蜻蛉切なのか。そりゃあ…災難だな。あっ」
「う、うええええええええええええええええええええええええええええええええええぐえっ」
 強制終了。故意か過失か、お手玉の要領にあしらわれていた沙が手から滑り落ちたと気付いた瞬間には、頭からゴチンと嫌な音がした。





 


























 嫌な、夢を見た。
 筆舌に尽くし難い、何かおぞましい行為を目の当たりにしたような。あるいはその逆で、幸福に溢れている和やかな日々を見たような。
 一つ確かなのは、最初の通りそれが酷い夢だったことだ。

 鈴虫やコオロギの遠鳴きで起きたのか、はたまたぐっしょりとした冷や汗の不快感に耐えかねたのか。額に張り付く髪と汗を拭い、異常な喉の乾きと肋骨から飛び出しそうな程の鼓動を感じながら、ゆっくりと寝台から起き上がる。
 眠気が一瞬もたげたが、皮が張り付く感覚に、このまま二度寝を決め込むことは難しかった。しかし新月の真っ暗闇、丑三つ時に閑散とした本丸を歩き回れる程豪胆ではない。さてはてどうしよう、とした所でふと思い当たる物を思い出した。
 縁側に置かれた紙灯篭は、「今日は新月だから透かし模様の紙灯篭を点けるといい」と蜂須賀が用意した照明だ。持ち運びが出来る取っ手の着いた盆や木枠に繊細で凝った意匠が施されており、とろりとした中の蝋燭の炎や紙の透かし模様が辺りを泳いで、確かに眠気を誘うには持ってこいの美しいものだった。今は火の温かみを失っているが、しかし冷えて澄ました工芸品としての姿もそう悪いものではない。それに気の利く蜂須賀は、側に換えの蝋燭とマッチを1箱分豪華に置いていっていた。
「…………………」
 マッチと蝋燭を手に取り、また灯篭に光を灯した。ぼぅ、と光る様子に安心し、盆を持って立ち上がる。
 大丈夫、ただ厨で水を飲むだけだ。
 廊下へ出ると、空気が深々と冷えていた。温度のない木張りから染み込む寒さは、火照る身体には丁度いい。



























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