平和に行きましょう。
真名握られた
そこまで思い至り、全ての合点がいった。
自分は仲間に裏切られたのだと。あの何より愛おしい子どもが誑かされ、籠絡されたのだと。
すぅ、と体の温度が冷えた。つまりは、主の身が危ないのだ。
であらば、どうする。どうすべきだ。長谷部は既に真名を抱き、あの子どもと真に対等な立場になってしまった。
主従が取り払われてしまえば、か弱い娘を守る全てが無くなってしまう。大人と子ども、どちらが優位であるかなど一目瞭然だろう。長谷部の性格上、蹂躙される等外道の行いはないだろうが、しかし真名を握っている以上何かしらの思惑はあるはずだった、それが何であれ、阻止しなければならない。
だが、沙という梵字を名に含む子どもは、不浄を払う守護に恵まれている。付喪神相手にそうやすやすと傷付けられるようなことはない。しかし根本的に、絶対的に守られる訳ではないだろう。堅牢であっても、必ず隙間はあるのだ。
あの柔い、時間を捨てた健気な人の子は、誰かが守ってやらないとすぐに死ぬかもしれない。
「主、伏せて下さ…っ!」
「えっ、」
なぜ、と問う暇もなかった。
一閃。横薙ぎの穂先と長谷部の刀身が打ち合い、火花が散った。押し負けたのは長谷部だ。間近にいた沙は、長谷部諸共吹き飛んだ障子に当たらずこそ無事だったが、初めて見るその剥き出しの殺意にへたり込んでいる。カタカタと歯を鳴らしながら震えて、ぬらりと濡れたように光る得物を見つめた。
笹穂と呼ばれる、独特の穂先。そこに刻まれた梵字は、それぞれ地蔵菩薩、阿弥陀如来、観音菩薩の種子字であると、
そう教えてくれたのは
「貴様…とうとう血迷ったか、蜻蛉切!」
とうとう、血混じりの言葉が肯定してしまった。あれだけの圧を受けて尚死んでいないことに一瞬驚いたが、所詮人型をしているだけで刀である。吐血していたが、折れてはいない。
「どちらが血迷ったのだ、この恥知らずめが」
蜻蛉切から吐き出された声は、静かでありながら、熱気と怒りに満ちていた。
ひゅ、と沙は息を詰めた。ぴりぴりと肌を震わせる威圧感があった。例えそれが沙に向けられたものでないにせよ、子どもの肝を竦めさせる緊迫には十分過ぎ、あまりの気迫に言葉が出てこない。
見たこともない冷淡な厳しい目付きは、ひたすらに長谷部だけを見据えている。
蜻蛉切は誠実だが、道理に厳しい男でもある。沙や幼い者にこそ甘やかす性分を見せるが、同じように叱る時は叱り、怒ることもある立派な性格だ。
しかし、いくら何でも度が過ぎるのではないか。いつかの昔、沙がそうとは知らずに戦場へ出てしまった時も中々の激怒具合であったが、原因の三日月へ抜刀するような真似はしなかった。まして、仲間を本気で折ろうとするなど。
「見損なったぞ。よもや小さな主を誑かし、挙句に真名を手に入れ対等を騙るか」
「誤解してくれるな。主も望まれたんだ」
つぃ、と流れるように目線が沙へ向けられた。瞳の奥の奥にある嘘を見抜き、くびり殺さんと射抜くそれは、沙の動揺をありありと捉えた。子どもの素直過ぎた動揺を見、口元だけが僅かに笑った。
「主、惑わされることなど何もございませぬ」
初めて、この槍を恐ろしいと感じた。初めて出会った時から、どこまでも優しく、誠実で、嘘の一つも言わない頼もしい大人であったのに。これまでもそうで、これからもずっと一緒にいられると、さっきまでそう確信していたのに。
だが、今は途方もない後悔に襲われていた。きっともうどうしようもなく、取り返しの付かないことになっている。一歩間違えれば足元から切り裂かれるような、絶妙に危うい刃の上を、無理矢理に歩かされていた。
「ち、」
カラカラになった喉と唇を無理やり湿らせ、震え引き攣る言葉をなんとか手繰り寄せる。
「ちがう。わたしがはせべに自分の名前を 、自分で教えた」
縋るように、蜻蛉切の袴を握りしめる。取り繕った所で最早遅い。沙はただ正直に言った。でないと、この男は容赦なく嘘を抉りとって、酷い事になる。蜻蛉切は微動打にせず、ただ笑を深めた。目がどこも笑っていない。
「主、それが貴方の本心であると何故思えましょう?拐かされ、真名を握られた貴方の心が一つも此奴に侵されていないと、どうして証明出来るのです」
蜻蛉切の眉間に、みるみるうちに深い渓谷が出来、沙は更に竦み上がった。思わず握っていた手を離し、後退る。それを見た長谷部が即座に沙を転がし、自分の後ろへと隠した。
蜻蛉切の形相は、もはや憤怒相の仏像のようですらある。
「蜻蛉切、例え貴様であろうと、それ以上踏み入れれば押し切るぞ」
「ほう、やってみせんか」
得も言われぬ緊張感が高まった。ビリビリと、全身の毛が逆立つような、薄気味の悪い感覚が悪寒のように背筋を舐める。
「本当にちがう、蜻蛉切。誤解してる、だから頼む」
ただ自分は、皆とずっと一緒にいたかったのだと。言葉を重ねようとした時に、ぞっとするような感覚に襲われた。
「主」
直接耳朶の奥に落ちた声は、凄絶な威圧感を帯びていた。
直後、心臓を握られたような。
息が詰まって、ぼうっとするような。
「貴方が望めば、己が如何様にも致しましよう」
ちがう、と再度口を開こうとした。
見えない指が口元を暴き、無理矢理に舌が動かされる。
竦んだ身体が震える。
絶対に声にしてはならないと戒めると、呼吸すら自由でなくなった。
「っか、ぁ、」
助けを求める手が空をかくと、空気に落とし込まれた小さな音は、確かに言霊として成された。
「御意」
若干の鈍色の刃を振り上げて、先に動いたのは長谷部だった。電光石火の疾さで間合いに詰め寄り、そのまま蜻蛉切の脇腹に叩き込む。
受け身になっていた蜻蛉切が動いたのも、一瞬だった。
近付いて、突きに出た長谷部の顔面を掴み、逃がさないとばかりに指が絡む。
獲物を据えた穂先が、ずぐりと寸分の狂いなく首へ沈む。そのまま両断されるかと思われたが、舐るように抉られた。
手の奥で、長谷部はこみ上げるままに吐血した。
「あ、るじ…」
血を吐きながら、掠れた声で長谷部は何かを言おうとした。
「おにげ、下さい、…良…」
「黙れ」
更に穂先を捩じ込み、力を込めて右へ一閃した。
顔を掴む手を再び持ち替え、次の一瞬でぶち、りと肉を引き千切る。
頭部を失った胴体は力を失い、血を撒き散らしながら人形のように事切れた。
元より捨て身のつもりだったのか、脇腹に刺さったまま長谷部の刃は突き出していた。ぐ、と力を込めて引き抜くと、ねっとりとした血が糸を引いて刀身に絡む。そのまま放り落とすと、二度三度の跳ねにも耐え切れず、乾いた土塊同然に崩れ落ちた。
「主」
子どもは蹲り、嘔吐していた。
噎せ返る程の血の匂いに耐え切れなかったらしい。
「これでもう大丈夫です。ですので、どうかお気を確かに」
小さな娘の身体を湯船に浸からせながら、己も同様に同じ湯へ入ると随分と嵩が増す。胸へ頭を預ける姿はくったりと力無いが、瞳は辛うじて開いていた。
「主、湯加減はいかがでしょう」
「…………」
返事はないが、不快そうに身を捩ることもしない。ただ1度、瞼が震えて瞬いた。
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