07

 ヤシロの歌声に影響されないミズキはすぐに身体を起こすと、祭壇の中から現れた匣に目を剥き、その存在を確かめるように冷たい硝子の表面をぺたぺたと撫でた。
「その女を知っているのか」
 前髪で表情は見えないが、明らかに動揺しているミズキにローが問う。
「――――……」
 その問いに答えた声が消え入りそうなほど小さく、ローも自分の耳を塞いでいたことでミズキの返事はヤシロの歌声にかき消されてしまう。
 しかしその唇が確かに「母さん」と動いたのを、ローは見逃さなかった。
 グッと握りしめられたミズキの拳が震えている。自身の爪が手の平の皮膚に刺さっているのか、指と指の間から血が毀れ、大理石の床に小さな水たまりを作った。
「どうです? スバラシイでしょう!」
 歌うのをやめてでも自慢せずにはいられない、という様子のヤシロの声が教会全体に響き渡った。
「わたくしが島にやってきた十年前に、この教会にいた鬼の修道女です。その美しさを損なわないよう剥製にしてさしあげたのですよ」
 ヤシロがローとミズキのいる場所へ飛び下りる。ドスンと大きな音と煙が上がった。
「そのベールの下に隠れてている角は象牙のようで、祈りをささげる手の爪は桜貝。閉じられた珊瑚の唇の下にあったのは真珠の歯……」
 ミズキが折れんばかりにその歯を噛み締める。
「あなたはその女の子供でしょう。知っていましたよ、十年前にこの教会から逃げていったことを」
 裂けんばかりに口角を吊り上げ、暗く不気味な笑みでミズキを見下ろすヤシロは話を続けた。
「鬼と人の間に生まれた子供が、なぜ“禁忌の子”と呼ばれるのか、教えてさしあげましょうか」
 ミズキの手から落ちる血の雫が量を増す。その手首を掴んで拳を解こうとしたローは、視界に入ったミズキの瞳に驚愕した。
「瞳が赤く……!?」
 自分の見た瞳の色は確かに黒色だった。しかしいまは燃えるように赤く、怒りに揺らめいている。
 ローに手首を掴まれていることさえ意に介さず、ヤシロだけを見据えた彼は、いまにも牙を剥き出しにして獲物に飛び掛かりそうな獣のようだとローは思った。
「鬼の女は、身体を重ねた人間の男から生命力を吸い尽くし殺してしまうんです。そしてその生命力を、腹の中に宿った子供に分け与えて産み落とす……そうして産まれたのがあなたです。その女は、当時まだ十歳ほどだったあなたをうまく逃がしたつもりだったのでしょうが、ちゃあんと気付いていましたよ」
「……なぜそのときにこいつを捕まえなかった」
 ローが問うとヤシロは残念そうに顔を顰める。
「鬼の血が半分しか無い禁忌の子供は、成人を迎えるまで普通の人間と姿がなんら変わらない。ただの子供を眺める趣味はありませんからねぇ。あなたが成長していまの姿になるまで、ずっとこの教会で待っていました。さぁ、こちらへいらっしゃい。その美しい姿のままあなたの時を止めてあげましょう」
「海賊が聞いて呆れるな」
 そんな理由で十年もの間航海をせず島に居座り続けたヤシロを、ローは同じ海賊として軽蔑した。
「とっくに海を捨てたお前はもう海賊なんかじゃねェ。ただの変態ネクロフィリアだ」
 吐き捨てるようにローが言えば、掴んでいたミズキの手の震えが止まる。
「だったらなんだと言うのです。わたくしの宝から汚い手を離しなさい!」
 その瞬間、ローは強くミズキの手を引き腕の中に抱き込むと、珊瑚の唇に自分の唇を重ねた。
「っ!?」
 目玉毀れ落ちそうなほど大きく見開かれた瞳の色が、次第に赤から黒へ戻っていく。
 血の味のするミズキの唇を舐め上げ、口内へ舌を差し入れた。ぬるりとした感覚にさらに驚いたミズキが思わずローの舌を噛み、血が滲んだ。二人のくちの中でお互いの唾液と血が混ざり合うようで、倒錯的な気持ちになる。
「ヒッ……ヒッ、ヒッ!! 穢らわしい!! わたくしの宝になんてことを!! 」
「フン、海に出なくなって海賊がどういうものかすら忘れたらしいな。海賊ってのは他人のお宝を奪ってなんぼだろうが。なんなら、いまこの場でこいつを犯してやろうか?」
 なんてことを言うのだ、と思ったのはヤシロだけでなくミズキも同じだったが、ローはミズキと唇を触れ合わせたまま喋っているので反論すら出来ない。肩の結び目を解こうとするローの手に、自分の手を重ねて抵抗するしかなかった。
「おやめなさい! 穢れを知らない身体を剥製にする喜びがどんなものか、知らないのですか!!」
「ああ、知らねェな。知りたくもねェ」
 がっちりと腰を拘束されて動けないミズキは手に鬼火を宿らせるが、ローが耳元で小さく囁いた。
「あの男に捕まりたくなきゃじっとしてろ」
 落ち着き払った低い声がミズキの動きを止める。
「おいヤシロ。お前がなんの能力者かは知らねェが、そのツラの手配書が二度と世間に出回らねェようにしてやるよ」
「できるものなら、やってみなさい!!」
 ヤシロが大きく息を吸い込み空気が揺れた。
「ミズキ! おれの耳を塞いでろ!」
 建物を揺らすような大きな歌声で、周囲の長椅子が吹き飛びオルガンがひしゃげる。その爆風の様な風圧から庇ってくれるかの如く目の前に立ちはだかるローの耳を、ミズキは両手でしっかりと塞いだ。
「“ROOM”!」
 目にも留まらぬ素早さで鬼哭を抜き、サークル内のヤシロの身を半分に切断する。腹の中央から上半身と下半身とに分けられたヤシロの歌声が止んだ一瞬を見逃さず、ローはシャンブルズでヤシロとの距離を詰めた。
「――“メス”」
 ヤシロからキューブ状に心臓が繰り抜かれ、冷たい床にボトリと落ちると、束の間の静寂が訪れる。
 これまでの振動や衝撃に、ついに耐えることのできなくなった鮮やかなステンドグラスが、粉々に割れ降り注ぐスローモーションとなった光景の中に母親の声が聞こえた気がして、ミズキの頬に涙が伝った。

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