ナックルジムにはバレンタインにまつわる不文律がある。
毎年バレンタインの日はどこの部署でも女性スタッフが普段お世話になっている先輩や同僚達へ義理チョコを配り歩く。だからジムで働く男性スタッフはこの日には複数個のチョコをもらうことになる。たった一人を除いては、だが
ジムの主人であるキバナさまだけにはチョコの類を一切渡してはならない。この時期が近づいてくると必ず新人達はそう教えられる。
随分と前からの取り決めのようで理由をハッキリと知っている者はいないが、義理チョコに紛れて本命チョコを渡す者がいるからだろうというのがおおよその理由だろう。それもそうだ。勝手に告白して失恋して仕事を辞められてはジムが立ち行かなくなってしまう。
理性では仕方がないことだと分かってはいても恋する乙女からすれば一大イベントがなくなってしまうのは寂しい。ファンからのチョコを装って送ることすらも禁止されているので、好きな人を思って選んだチョコは十四日を過ぎて自分の口に入るしかない。
自分用にお高いご褒美チョコを買ったと思えば無駄ではない。でも買う時は渡すことを考えてどんなチョコが好みだろうかと頭を悩ませながら選んでいるのだ。それでいいとは言い切れない。
「キバナさま、好きです」
今年も絶対に渡すことができないチョコを買い、キバナさまを型取ったぬいぐるみの前に置いた。頬っぺたをピンクにしてニコニコと笑った顔のまま動かないぬいぐるみが私の思いを肯定してくれているような気がして頭をそっとなでる。
「私にはキミがいてくれるもんね」
朝起きたら本当にこのぬいぐるみ君が食べてくれてチョコがなくなっていたらいいのになあと思いながら、翌日の仕事に備えてベッドに向かう。
本当に渡せたところで断られるのは目に見えているのだから彼の側で働けている幸運に感謝しないとね。そうやって無理やり自分を納得させて目を閉じると案外疲れていたのかすぐに眠気がやってきた。
いつも通りの時間に鳴ったアラームを止めて起床し、身支度を整えるために慌ただしく動き出す。職場で配るチョコの数がちゃんと足りていることを確認した後についつい未練がましくぬいぐるみを置いた棚を振り返った。
「あれ、ない?」
昨日、確かに棚へ置いたはずのチョコは忽然と姿を消していて、ぬいぐるみも横に倒れてしまっている。荒らされたとも思えなくもない状態に背筋が冷たくなった。
「……きっとヨクバリスが入り込んだだけだよね」
部屋が荒れた形跡もなく、他になくなっている物もない。物盗りがまさかチョコだけを狙うはずがないのでただの考えすぎだ。嫌に早くなる鼓動を感じつつも時刻はもう家を出なければならない頃合いだ。大丈夫と自分に言い聞かせて家の鍵を閉めた。
職場へ着くと今朝の出来事がすっかり頭から飛ぶくらいに大忙しだった。それもそのはず毎年のバレンタインにナックルジムへ届くチョコの数は段ボール単位ではなくトラック単位だ。
届いたものを食品や食品でないもの、禁止されているにも関わらず一定数届く手作りに分けて、安全が確認できた食品は慈善団体へ寄付される。足が早い物もあるのでその日ばかりは全部署が総動員だ。
私も朝からひっきりなしに増え続けるチョコの山にウンザリしながら仕分け作業に追われていた。集中して捌いているといつの間にか周りから人が消えていて私ひとりだけだ。
途中で昼休憩に誘われたような気もするが、ひと段落したらと言ったきりそのままだったかもしれない。立ち上がって大きく背伸びをすると身体のあちこちが嫌な音を立てる。それに比例して中を検め終わった手紙が詰められている段ボール箱もいっぱいになっている。
「一回持って行ってからご飯かな」
よいしょとまあまあ重さのある箱を担ぎ上げて向かう先はキバナさまの執務室だ。チョコは食べられないけれど手紙は全部目を通したいというキバナさまの要望で仕分けられた手紙は全て執務室へ集められる。キバナさまのファンは本当に幸せだ。
両手がいっぱいなので多少お行儀は悪いが足を使ってドアを開けると無人だと思っていた室内から声が飛んでくる。
「お疲れさん。重いのにありがとな」
「き、キバナさま! ノックもなしに失礼しました!」
「いいって、いいって。あー、適当にその辺に置いといてくれる? 片付いてなくて悪いな」
執務室はすでにそこら中にダンオール箱が置かれていて圧迫感がすごい。言われた通りになるべく邪魔にならなさそうな場所に箱を下ろさせてもらう。
失礼しましたと声をかけようとしてキバナ様の方を見ると、ちょうど休憩中だったのか手にはマグカップとチョコがある。
「……彼女さんからですか?」
聞きながらも確信は持っていた。机に広げられた箱はどう見ても義理チョコとは思えない。本命に渡すようなものだ。
キバナさまは不躾な私の質問にも気分を害したような様子はなく、薄っすらと目元を赤くしながら答えてくれる。
「そんなとこかな。好きなヤツからもらったの」
「そうですか」
もっと何か気の利いた返しがあるだろうと思ったが、キバナさまに彼女がいたという事実がショックで言葉が出てこない。いたって、いなくたって何も変わりやしないのに私はバカだ。嬉しそうなキバナさまを見ていられなくて床に視線を落とす。
「やっぱ気付いてねえんだな」
「……あ、えっと、何がですか」
「いーや、こっちの話だから気にしなくていい」
キバナさまを前にしてこんな上の空ではいけないと思いつつも声が右から左へとすり抜けていってしまう。このままではまずい。慌ただしく頭を下げ退室の挨拶をする。せっかく会話ができるチャンスだったけれど今の私にはそれを喜ぶ余裕はない。いても失敗を重ねるだけだ。
そそくさと背を向けて逃げ帰る私にキバナさまはただ見ているだけだったが、ドアが閉まる直前に意味深な言葉が投げかけられる。
「そうだ。ぬいぐるみはちゃんと起こしておいてくれよな」
何のことか分からず振り返ったけれど、再びドアを開けてキバナさまに問いつめるほどの気力は残っていない。ふらふらと食堂へ向かっているうちにキバナさまの言葉はすっかりと頭から抜けてしまっていた。
私がもう一度それを思い出すのは、一夜にして消えてしまったチョコが置いてあった棚に一枚のメッセージカードを見つけた時だった。