ハッピーエンドはここにある

 ポコンとメッセージが入って送り主を確認してみれば、その日は用事があるからと言って断られてしまった彼女からだった。時刻はまだ十七時を回ったばかりで、用が済んだというにはまだ早すぎる。

『キバナ、今日は忙しい?』

 喜びが滲みでないよう簡素に家でくつろいでいると送り返す。間もなく彼女から泣きつきの電話が来るだろう。
 身嗜みに気を使っているキバナのルームウェアはそのままでも出かけられるくらいだが、お忍びするには少し心持たない。クローゼットを開きコーディネートを考えていると、予想通り彼女から連絡が来て今夜の予定が埋まった。


 場所はよく利用する馴染みの居酒屋で、キバナがタクシーを使って到着すると彼女はすでに待っていた。
 淡い色味で綺麗めにまとめられた服装は明らかに気合いが入っていてデートだったのだとすぐに分かる。しかしながら彼女はハンカチを握りしめて目元を赤くしていてとてもじゃないが上手くいったようには思えない。
 いつものやつだろうなあと思いながら声をかけて彼女に近づくと彼女の情けない声が響いた。

「キバナぁ聞いてよ〜」
「あーうんうん、話聞くからとりあえず入ろうぜ」

 彼女はせっかくおめかしして来たのが台無しになるくらい顔をぐしゃぐしゃにしているので背中に庇いつつ店に入り個室へ案内してもらった。
 まあグズグズすすり泣く声で泣いているのはバレバレだっただろうけど、ここの店員はよく教育が行き届いているから詮索したりはしない。何も言わずにそっとティッシュ箱を置いて言ってくれたのでありがたく使わせてもらう。

「ほら、そろそろ泣き止めって」
「うぅっ」

 鼻をかませてから涙の跡を擦らないようにポンポンと頬を拭ってやると、ようやく彼女は落ち着いたようだ。すると目を据わらせてお腹がすいたと呟くからキバナはスっとメニューを差し出す。
 彼女の腫れぼったい目は痛々しいが、悲しみではなく怒りの方に変換したようで値段が高いメニューを片っ端から頼んでいく姿はもう心配なさそうだ。
 飲み物は、とワインリストを開いて上から下まで目を通した彼女は少し顔を引き攣らせた。悩んだ末に中間あたりを差したのを見て、キバナは横から口を出す。

「キバナさん? 私のお財布にそれはちょっと、あれでして……」
「オレさまがレディに奢らせるようなヤツに見える?」
「さすがキバナさま……!」

 大好き一生ついて行くと調子の良いことを言う彼女に笑いながら大袈裟だと返す。キバナはいつでも本当にしてくれていいというのに、冗談なんかで済ますなんて本当に人を振り回すのが上手だ。
 店で一番のワインが運ばれてくるとさっきまで泣いていたのが嘘のように彼女ははしゃいだ声を上げた。これくらいでその無邪気な笑顔見れるなら安すぎるくらいだ。
 彼女は美味しい料理とお酒を次から次へと口へ運びつつも、たった今さっき別れたばかりの男の愚痴を吐いてと大忙しだ。
 何でも今回の男は二股していた上に別の水商売の女に入れあげていて借金を背負わされたらしい。他の女たちとは縁を切って彼女だけにするから結婚してくれと迫られたという顛末だ。最低すぎるプロポーズにしてもほどがある。
 つまり私は借金背負わせても心が痛まないってことでしょと叫びながら彼女は再び泣き出した。キバナは彼女の隣の席に移動して背中を擦りながらグラスにお代わりを注ぐ。

「嫌なことは飲んで忘れようぜ」
「飲むぅ〜」

 勢いよくワインをあおる彼女の顔は酒気で赤らんでいる。もう少し飲んだら目蓋が重たくなってきてコテンと落ちるだろう。
 そうして通り眠ってしまった彼女を抱えてタクシーに乗りキバナの自宅へ連れ帰る。相棒たちと一緒に寝るために買った広い広いベッドを彼女に明け渡して、キバナはリビングのソファで寝るのだ。
 自分が隣の男からどう思われてるのかも知らない彼女は陽気に騒いでとても楽しそうだ。無事でいられるのはキバナの鉄の理性のおかげだぞと頬杖をつきながら付き合ってやる。

「キバナ、本当にありがとうね」
「おいおい急に改まってどうした?」
「いつもいつもキバナの世話になってばかりだなあと思ってさ。人間関係に恵まれない私だけど、キバナがこうして愚痴聞いたり励ましたりしてくれるから何とかやっていけてるの」

 酔いで口も涙腺も緩んでいるのか水の膜が張った瞳は照明で煌めいて何だかとても尊いものに見えた。キバナは堪らない気持ちになりながら照れ隠しに彼女の頭をわしゃわしゃと撫でる。

「……オレさまはずっとオマエの味方だからな」

 聞こえるか聞こえないかくらいの声量で呟いた言葉はしっかり届いていたようで、彼女はとうとうテーブルの上に突っ伏して肩を震わせた。キバナはその背中を一定のリズムで擦りながら余ったワインをちびちび飲む。
 瓶が空になる頃には彼女は夢の中の人となっていた。少し感傷的になりはしていたけれどいつも通りの寝顔だ。涙の跡を指の腹で擦ると彼女はむにゃむにゃと言いながら身動ぎをする。

「さて、眠り姫を連れて帰らなきゃな」

 お会計を頼むと伝票を持ってきたのは店主だった。ダラダラと飲んでいたから気づかなかったが、どうやら長居しすぎてしまったらしい。

「すぐに出るな。ええっとタクシーを」
「必要かと思い呼んであります」

 よく気の回る男だ。随分と分かりづらい場所に店を構えているのに、いつもそれなりに人が入っているだけある。素直にお礼を言って伝票にカードを挟んで差し出した。
 今度のジムリーダーで集まる食事会はこの店にしてもいいかもしれない。客層もいいし、みんな気に入って通うだろう。
 身支度を整えて彼女を抱えあげると揺れたのがお気に召さなかったのか眉間にシワを寄せて唸っていたが、身動ぎして収まりのいい場所を見つけるとスースーと静かになった。
 店主がドアを開けて見送りに出てくれる。こんな所で寝落ちするなんてお行儀が悪いと思われても仕方がないが、キバナと彼女を見る瞳は穏やかだ。

「騒がせてしまって悪いな。また今度は落ち着いてる時に来るわ」
「いえいえ、来てくださって嬉しいですよ。……そうですね、出来れば記念日のお祝いなんかで使っていただけると光栄なんですが」

 そう言って彼女の方をチラリと見た店主には、キバナの気持ちがバレバレだったようだ。少し気恥ずかしく思いながらそうなれるように頑張ると返すと、店主はお待ちしていますと笑顔になった。
 外に待たせていたタクシーに乗り込みキバナの自宅の住所を伝えると、少し揺れてアーマーガアの力強い羽音がする。
 彼女を膝の上に抱えたままに空いた片手で頬を撫でる。

「いつになったら運命のひとがすぐ傍にいるって気づいてくれるんだろうな」

 キバナと彼女はいわゆる幼馴染という関係だ。幼い頃からずっとずっと彼女を見守ってきた。
 彼女を取り巻く周囲の人間は皆、多かれ少なかれ難を抱えた者だ。そいつらは純粋で無垢な彼女を利用しようとロクでもないことばかりを仕出かす。普通ならそこで人間不信に陥っても仕方がないのに、彼女の性根は美しいままだ。
 いっそのこと落ちるところまで落ちて仕舞えば楽なのになあ。
 彼女のために何かをしてあげようとする人間などキバナくらいなものだが、彼女はキバナに依存しない。気にかける価値のない者に心を割き傷ついてを繰り返す。
 その度に泣きついてくる彼女をキバナは優しく慰めた。きっと彼女が世界で一番信頼している人間はキバナだろう。
 ーーーなんてバカで愚かしくて愛らしいんだろう。
 彼女の周りのクズ達の中で最も性根が腐っているのはキバナだ。彼女がキバナ以外に情を傾けなくて済むように意図的にそういう人間ばかり配置している。仕掛けられた罠に気づかない彼女は蟻地獄のように沈んでいくしかない。
 随分と回りくどく気が遠くなる手段だがキバナは平気だった。
 強引な手段に出て彼女の好意を裏切るのは愚策だからだ。彼女がキバナに向ける思いを一片足りとも無駄にするのは許せない。彼女がキバナに向ける愛も他者に向ける愛も全部全部キバナのものにしなければ気が済まないのだ。

「……早くオマエを幸せにさせてくれ」

 彼女がこの手を取ったならきっと誰も彼もが羨むような幸せで包んでやれる。キバナだって彼女が苦しむ姿を見たくなどないのだ。
 彼女のタフさは尊敬に値するがそんなに頑張らなくていいのにと思う。もっとずっと楽な道がすぐ傍にあるのだからわざわざ険しい道を選ぶ必要はどこにもない。
 永遠に続く地獄に彼女が根を上げるのはいつだろうか。様子を見る限りまだまだ随分と先になりそうだ。
 キバナは苦々しい笑いを溢しながら穏やかに眠る彼女の額に唇を落とした。