エントランスの前にとんでもないイケメンが来ている。女性社員達がそう囁きあって窓から外を見ている姿に、私は何が起きているのかを正確に理解した。
まだ締め切りに余裕はあるけれど、急な変更に備えて少し残業しておこうという思いは霧散した。やりかけのデータを保存して週報を書き込む。そしてパソコンのシャットダウンが終わるよりも早く荷物を持って立ち上がり、そそくさと退社した。
エレベーターに乗り込んでスマホを見ると予想通りの人物から連絡が来ていて、ため息が漏れる。つい数日前も同じことをされてもうしないでくれと再三お願いしたばかりだというのにこの様だ。つまりニコニコしながら私の話を聞いていた彼は右から左へ聞き流していたということになる。
今度の今度はきっちりもうしませんというまで許せない。場合によっては誓約書を書かせることも辞さないつもりだ。
怒りのせいでカツカツとパンプスを鳴らしながら駆けつけると、別フロアで働いていると思しき女性達に囲まれた長身が見えた。ピタリと目が合って彼が大声で私の名前を呼ぼうとする前に、口元に指を当てて黙るようにジェスチャーを
送る。
意図は十分に伝わっただろう。そのまま私を迎えにきたであろう彼をおいて行きつけのカフェへ移動する。しばらくあの人集りから抜け出せないだろうからパンケーキでも食べて待っていよう。もちろんお代は彼持ちだ。
そしてお腹を満たしてコーヒーを啜っていると、ドアベルが鳴った。入ってきたのは膨れっ面をした彼だ。
「置いてくなんて酷いじゃん」
「勝手に来たのはキバナの方でしょ」
軽い口喧嘩をしながらキバナは私の正面の席に座るとコーヒーを二杯分頼む。ちゃっかり私のおかわりまで気を回すスマートさが今は気に触る。
「オマエに何かあったらって思うと心配なんだよ。別に迎えに行くくらい大したことじゃないだろ」
「自分がどれだけ目立つか自覚してから言ってくれない? むしろキバナが来る方が嫌がらせされそうで怖いよ」
嫌がらせという言葉にキバナの眉がギュッと寄る。
「そんなことされてんの? だから心配だったんだよ。今からでも退職して、」
「キバナが関わるから大変だって言ってるの! 勝手に話をすり替えないで!」
最近のキバナはずっとこんな感じだ。私がキバナがすることに関して文句を言うとすぐに周りが、環境がと原因を他へ持って行きたがる。そんな調子じゃまともな生活が送れないというと、自分が面倒を見るから家にいてくれればいいと言い出す始末だ。
私にヒモ女にでもなれというつもりか。冗談じゃない。
一歩も譲るつもりはないとプイッとそっぽを向くと、キバナは私の機嫌を大きく損ねてしまったとオロオロし始めた。テーブルの上にあった私の手を勝手に握って違うんだと言い募る。
「オマエのことを蔑ろにしたい訳じゃない。それは本当だ。信じてくれ」
「……じゃあ私のお願いを聞いてよ」
「聞けることなら何でも聞く。でも全部は無理だ」
「そういうのが私は嫌なの!」
結局いつもの流れに持ち込もうとするキバナに苛立って思わず大声を出して立ち上がってしまう。店内の客からの視線が突き刺さって居心地が悪い。やってしまったと後悔しながら周囲に頭を下げて着席する。本当に頭が痛くて嫌になる。
キバナだって最初からこうではなかった。
付き合いたての頃は聞き分けが良くて、同僚の男と出張が入ったと言っても頑張れと送り出してくれていた。飲み会で遅くなる日も会社の人達に見られたら困るだろうからって駅から少し離れた場所で待っていてくれたのだ。気が利いて優しくて大好きな自慢の彼氏だった。
何がいけなかったのだろう。私はずっとキバナだけしか見ていないと言うのに、やたらと口を出してくるようになってしまった。そんなに信用がないのかと思うと自分が情けない。
「これ以上お店に迷惑はかけられないから、って……キバナ?」
伝票を抜き取ってさあ帰ろうと思えば、キバナは綺麗な蒼い目からポロポロ涙を溢しているではないか。他に見られたら不味いと慌ててハンカチで拭ってやる。
「ごめん」
「何でキバナが泣くの?」
「本当にごめん」
涙を止められないままに謝り続けるキバナに私は困り果ててしまう。キバナは私がちょっとやそっと怒ったくらいで泣くようなタマじゃない。一体どうしたというんだ。
「私も言いすぎたから泣かないで」
何が原因かも分からずに慰めの言葉をかけるが、キバナは被りを振って自分が悪いと言い張る。
「っ、オマエのせいじゃねえよ。自分で自分が恥ずかしいんだ。自由にさせてやりたいのについ口を挟んでしまう」
「うん……キバナが私のこと思ってくれてるのは知ってるよ」
「違う。オマエのために言ってる訳じゃないのは自分でよく分かってる。ただオレの独占欲を満たすためだけのワガママだ」
その言葉にやっと疑問が晴れたような気がした。キバナは私の心変わりを疑っていた訳ではないのだ。そう思うとキバナの言っていることがすとんと落ちてくる。
「これからはもうオレの言うことは気にしなくていい。また口出したくなるかもしれねえけど頑張って我慢するから。だから、別れないで欲しい」
「いいよ。全部、許す」
「へ?」
急に前言撤回した私にキバナは目をまんまるくして驚く。せっかくイケメンなのに涙を擦った跡と間抜けな表情で台無しだ。でも私にとっては最高に愛おしい顔だ。
「キバナのワガママくらい聞いてあげるってこと。もう、私に信用がないのかって思って心配したんだからね!」
「……いいのか?」
「女に二言はないよ。いつもキバナはカッコつけすぎなんだからたまにはワガママ言うくらいでちょうどいいの」
ブサイクな顔してるから早く帰るよと声をかけると、キバナは再び涙を盛り上げさせていてガタッと椅子を倒して私に抱きついた。
「ちょっとキバナ! ティーカップが落ちちゃう!」
「今は無理……」
こうして二度も店内をお騒がせしてしまった訳だが、顔見知りの常連さん達は仲直りができて良かったと笑って許してくれた。マスターはマスターでキバナが割ったカップを弁償すると申し出たのに仲直りのお祝いだといってお代すら受け取ってくれなかった。全く私のキバナは皆から好かれてるんだから。
それからの私達はキバナのワガママを聞いてあげたり嗜めたりと概ね上手くやっている。うーん、まあちょっと困ったこともあるけど
「え、明日? もう友達と約束入れちゃったよ」
「休みが取れたって前から言ってたじゃん!」
「あー、そういえばそうだったかも? でもドタキャンできないから明日はダメだよ」
「……分かった」
珍しく素直に聞き分けたキバナの表情とセリフが全く一致しない。これはとても嫌な予感がする。
さっさと逃げ出してしまうに限ると私が背を向けるよりも早くキバナの腕が腰に回った。
「明日は急病でキャンセルな?」
「それは分かったって言わないの!」
翌日、無事にベッドの住人となった私は悪いと謝るキバナにいろいろと用事を言いつけたが、嬉嬉として下僕になる姿には全く反省の色がなかった。