食欲の話

 コンビニのレジ袋を片手にアパートの前を通ると、私の部屋の明かりがついていた。
 今日は平日のど真ん中の水曜日だ。なんでこんな微妙な日にと思うが、自由人の彼のことだから理由なんてものはないんだろう。週始めから残業続きで息切れしそうになっていたメンタルは突然の恋人の来訪に少しだけ元気を取り戻す。
 鍵を出さずにドアノブを捻るとなんの引っ掛かりもなく回転して玄関が開いた。彼に合鍵を渡したのは付き合い始めてそう間もない頃だ。
 天性の迷子癖を憂慮してGPSを入れたスタッフ達を嘲笑うように彼はスマホを携帯するということを知らない。つまり事前のアポイントもなければ事後報告もなし。気がつけばウチにいるのだ。
 とある厳しい冬日にウチの狭いベランダで、彼が相棒の炎で暖をとっているのを見た時に合鍵を渡す決意をした。今では彼の自宅の鍵と一緒にヒトカゲのキーホルダーが付けられたそれは十二分に役割を果たしていると言えるだろう。
 乱雑に脱ぎ捨てられたスニーカーの横にパンプスの踵を揃えて置き、リビングへ入ると食欲をそそる香りがする。
「おかえり」
 家主より先に帰宅していた彼は図々しくソファにダラリと腰掛け、片手に食べかけのバーガーを持っている。包みに描かれたロゴはパティの肉厚さを売りにしている店のものだ。彼の大きな手の中にあってもそのボリューム感は目を引く。
「随分と遅いな」
「最近、忙しくて」
 こういう時に出来る彼氏なら私の分も買ってきて食べるのを待ってくれているものだというのに、彼は意に介せず目の前のバーガーに夢中だ。すっかり夕飯時を逃してしまったお腹はぐうぐうと存在を主張し、嫌でも視線を彼の手の中へと向かわせる。
 彼はそれを知ってか知らずかパカリと大きな口を開けると分厚いバーガーに齧り付く。真っ赤な舌を肉汁が溢れるパティとふっくらとしたバンズが覆い隠す。モグモグと愛らしいお髭のついた顎が上下に数回動いたかと思うと、喉仏が大きく動いてすぐまた口を開ける。相変わらずの早食いに大きなバーガーはたちまち姿を消した。
 その一部始終を何をするでもなく眺めていると、指に付いたソースを舐めとった彼と視線が合った。こちらを注視する私を不思議に見た後に瞳がゆるく三日月を描いた。
「キミも食べたいのか?」
「えっと……」
 答えに詰まって黙り込む。確かにお腹は減っているけれども別にバーガーが好きというわけでもない。それに自分の夕飯はすでにコンビニで調達してきたものがあるので彼の分を横取りするつもりもない。
 私の沈黙を彼がどう受け取ったのかは知らないが、ローテーブルの上の紙袋をガサゴソ漁ると先程と同じ包みの塊を取り出した。
「仕方ないな。特別だぜ」
 ドヤ顔でこちらへ差し出されたブツは改めてみても規格外のサイズだ。これを二つも食べようとしていたなんてカロリーオーバーにも程がある。
 呆れ返りながらも私は痩せ我慢することなく素直に手を伸ばした。あんなに見せつけられておいて欲しがるなという方が無理な話だろう。
 私の腕は彼の手のひらに余るほどのバーガーを――通り過ぎて手首を掴んだ。それをそのまま引き寄せて彼の懐へと入り込む。彼が驚きの声を上げる頃にはもう獲物は目の前だ。ガブリと欲望のままに齧り付いた。
「ぃっ……!」
 よく肉用牛は若い牝牛が良いと聞くが、私は牡牛も負けていないと思う。ストイックに鍛えられた筋肉はでっぷりと太い塊となって首筋を彩る。ただ硬いだけではなく弾力に富むそれはさぞかし良い歯ごたえだろう。
 悲鳴を聞きながら喉仏を齧ると期待していたような噛みごたえはなく薄い塩味が口の中に広がった。あぐあぐと食いちぎろうと顎を動かしても丈夫な肉質は破れない。
 ガッカリしながら口を離すと、普段は服に隠れている首筋に綺麗な歯並びの歯型が付いていた。
「あー、うん、血迷った。ごめんね」
 おなざりに謝りながら体をどかそうとすると力強い腕に阻まれる。そのまま胸の中へと逆戻りして、お返しだと言わんばかりに上唇に齧りつかれた。
「ぅ、んんっ〜〜!!」
 抗議の声をまるっと無視した彼は角度を変えながらおしゃぶりのように甘噛みを繰り返す。時々擦れる髭がジョリジョリして痛い。
 そんな変態じみたキスを数十秒続けてようやく解放されるとギラギラと光る瞳が私を射すくめていた。
「……明日も仕事なんだけど」
 言いたいことは嫌でも分かるが、私も彼も無茶ができるほど若くなく一端の社会人だ。今日はこのまま大人しく体を休めるべきだろう。
 しかしながら彼は抗議の声を意に介せず鮮やかな技で私をソファの上へとひっくり返す。
「奇遇だな。オレもなんだぜ」
「じゃあ、週末まで待ってよ!」
「煽ったのはキミだぜ? オレはちゃんと我慢していたのに」
 何のことだと睨みつけると彼はあっけからんとして言った。
「食欲と性欲は似てるってよく言うだろう?」
 言葉の意味を理解するのに数秒かかり、追って頬が熱くなる。あのバカみたいな量のバーガーは、つまりはそういうことなんだろう。
「……今から追加で買ってくるって言うのは?」
「出来ると思うか?」
 太腿にゴリっと押し付けられたそれはすでに臨戦態勢でとてもじゃないが鎮まりそうにない。このまま行かせれば明日のトップニュースになること間違いなしだ。
「なるべく手短に済ませよう。キミも協力してくれ」
 セックスに手短も何もあるかという文句は彼に塞がれて消えた。まあ予想通りというかいつも通りというか大層盛り上がって睡眠時間は大幅に削られた。


 毎日設定されたアラームに叩き起されて体を起こすとすでに隣はもぬけの殻でただただ気だるさが残るばかりだ。寝起きだからという言い訳では済まされないくらいに体が重い。最悪な目覚めだと思いながらも社会人としての責任感が再び布団へと戻ることを許さない。
 よろよろと歩きながらローテーブルへと向かうとそこには昨日までなかったものがあった。
「うーん、こういうところがなあ……」
 ぽつりと置かれた栄養ドリンクは私も修羅場の時によくお世話になる代物だ。実用的といえばそうなのだろうが、恋人としてはちょっと焦げたフレンチトーストでも用意して欲しいところである。まあそんなスパダリみたいなことが出来れば私なんかが付き合えていないんだろうけれども
 なんとも彼らしいと小さく笑いながら小瓶を手に取る。そして蓋をひねろうとしてボトルに何かが描かれていることに気づいた。
「何これ」
 そこには彼の相棒であるリザードンが描かれていて、隣に“頑張れ”の文字が添えられている。小さな小瓶に描いたせいで歪んでしまったそれはお世辞にも上手とは言い難い。
「ふふ、こういうところが狡いのよね」
 蓋は開けないままに小瓶を通勤用のバッグへと放り込んだ。下っ手くそなリザードンは賞味期限が来るまで私のデスクに飾られることになった。