逃げる話

 建物に遮られて日の当たらない裏路地を光が差す方向へ走る、走る、走る。
 たぶん距離は数十メートルくらいあったと思う。遠くに背の高い影が見えて、特徴的なカラーリングからそれが誰かを理解する。視線がこちらに向く前にと慌てて背を向けて近くの通りを曲がった。
 ナックルは歴史の古い街並みで大通りから一歩裏へ入るとまるで迷路のように入り組んでいる。観光客が近道をしようと安易に足を踏み入れ迷子になるケースが跡をたたない。
 けれど生まれも育ちもナックルの私にとっては関係ない。法規制のせいでどこもかしこも似たような建物の角を的確に判別し走り抜ける。この道を抜ければ後は表通りを少し歩いて外だ。日頃の運動不足が祟って、上がる息と重たい足をもう少しだからとなだめすかして前へ進む。
 やっとの思いで裏路地を抜けると、日光が真っ直ぐに目を差した。思わず顔を顰めて腕を顔の前にかざす。それと同時に太陽が隠れてしまったから無意味といえば無意味だったけれど
「やっぱり来てたんだ。さっきオマエが見えたような気がして追いかけてきて正解だったわ」
 人が良さそうな笑顔のその人は今まさに私が逃げていた人物に間違いなかった。近道を走って抜けてきたのに、リーチの差があるからか追いつかれてしまったみたいだ。しかも腹立たしいことにキバナは息ひとつ乱れてはいない。
「ごめんね。キバナがいるって気づかなかった」
 本当はキバナを認識して走って逃げたのだけれど、正直に言う訳にもいかず素知らぬ振りをした。私よりずっと賢く察しの良いキバナは気づいているけれど言及することはないだろう。
「そっかあ。まあ、だいぶ離れてたし気づかないよな」
 私の予想通りに仕方ない気にするなとキバナはフォローしてくれた。本当に優しい人だなあと思う。
「声掛けてくれてありがとう。でもごめん、急いでるから行かなきゃ」
「引き止めて悪いな。目的地まで送るよ」
「キバナは仕事中でしょ?」
「実は昼休憩取り忘れちゃってさ。スタッフ達がうるさいから、どこかで休まなきゃなって思ってたのよ」
 困った。用事を適当にでっち上げて離れようとしたのに、送ると言われてしまえば急いでいないことがバレてしまう。
「……付き合わせたら悪いし本当にいいよ。キバナはちゃんとお昼ご飯食べて」
「優しいのね。オマエを送った先で食べるから大丈夫。どこまで行くの?」
 嘘つきに優しいなんて言うものだから思わず言葉に詰まる。しまったと思って慌てて適当な目的地を考えるけれどすでに遅かった。
「もしかして用事なくなっちゃった? 時間あるならお茶しようぜ」
 キバナはニッコリと笑顔で、けれど有無を言わせない口調でそう言った。この秀才様には私の思考なんて全てお見通しだろう。
 これ以上の抵抗は無意味だと判断して首を縦に振った。キバナはますます目を細めて嬉しそうにする。
「オレの行きつけのカフェに連れて行ってやるよ。タルトが美味しいの」
 見事にしてやられてしまった訳だけれど、元はと言えば逃げた私も私だ。キバナが無邪気に喜ぶところを見ているとお茶くらい良いじゃないと甘い自分が顔を出す。
 全く何でこんなことになってしまったんだろう。キバナに気づかれないように重たい息を吐き出した。

 私とキバナは大学の同期だった。たまたま研究室が同じで、たまたま卒業研究の手伝いを教授に命じられたそんな仲だ。そこそこコミュニケーションを取って、そこそこ仲良くやってたと思う。だって卒業してからもたまに飲みに行くくらいだもの。友達だって自惚れても仕方がないじゃない。
 そんな気の緩みがいけなかった。定例となった飲み会で私は口を滑らせてしまった。
「あ〜、彼氏欲しいなあ」
 言い訳になるけれど、この時点で私はかなり酔っていた。キバナだって同じくらい飲んでいたから似たようなものだ。
 そして私とキバナの間に男女を意識するような空気感は一切なかった。そもそも顔面偏差値が違いすぎて視界にすら入っていないに違いない。だからこんなバカなことが言えたんだ。
「そうなの?」
 キバナは私の愚痴にキョトンとして聞き返した。
 これだからイケメンくんは嫌なんだと私は笑いながら茶化す。キバナくらいになれば女に苦労することなんてないと思っての言葉だった。
「じゃあ、オレが立候補するよ」
 予想外の返事に私は笑った。キバナがこんな冗談を言うなんて珍しいと思って涙が出るくらいの大爆笑だ。
「抱かれたい男ナンバーワン様に立候補してもらえるなんてウケる」
「あー、そういえばそんなの入ってたね。まあ付き合うからには後悔させないけど」
 テーブルの上に無造作に置かれていた私の右手にキバナの左手が重なった。向かい側の席に座っているのに随分と長い腕だと思う。その先を辿っていくと程よく筋肉のついた二の腕、綺麗な首筋から端正な造りをした顔が視界に入る。
 キバナは私が思っていたように笑ってはいなかった。唇の端は柔らかく持ち上げられているけれど、少し細められた瞳が確かな熱量を持って私を刺す。
 私はこの瞳を見たことがある。バトルをする時のキバナと一緒だ。お腹を空かせたドラゴンの、捕食者の瞳に違いない。
 そのことを認識してすぐに私は自分の手を引き抜いた。キバナはそれを引き留めはしなかったが視線が逸らされることはない。
「……冗談、私はキバナと付き合う気はないよ」
 咄嗟に否定した言葉は上手くいかなくて語尾が震えてしまった。キバナはきっとそれに気づいていたけれど指摘することなく、そっかと返事を返す。
「気が変わったら教えてくれよな」
 そこから私は気まずい気持ちになってしまってキバナを避けているのだが、何故かキバナは執拗に追いかけてくる。
 振られたと言ってもおかしくはない状況なのにキバナは平気なのだろうか。何度もチャンピオンに挑んでは負けていることからメンタルはがねタイプとも揶揄されることもあるが、私から見れば本当にそうなのではないかと思ってしまうほどだ。
 大人しくキバナの後ろについて大通りから一本外れた道を通る。ここだと言ってキバナが指し示した店は随分と古くからここにあるのだろう。味わい深い外観だ。しかしながら大切に扱われているおかげかボロだとは感じない。
 一見さんお断りという雰囲気に二の足を踏む私に構わずキバナが先に店へと足を踏み入れる。レジの前に立っていた店主がキバナを見て目尻の皺を深めた。
「やあ、キバナ坊。遅めのランチかい?」
「うん、まあそんなとこ」
 挨拶代わりに世間話を交わす様子から仲の良さが伺える。私はその様子をぼーっとながめていたが、キバナに手招きされて慌てて駆け寄る。
「奥の席、空けてくれるって」
 キバナが指し示した先は店の外から死角となる場所で、常連らしき男が座っていたが店主に促され移動している。
 そこまでしなくてもいいと私が声をかけるより先にキバナがお礼を言ってしまったのでタイミングを逸してしまった。こちらも知り合いだったのか気安く会話をしている。
 デート中かと揶揄うように言われて動揺することなく違うと返すキバナを複雑な気持ちで見つめた。
「ちょうど苺のタルトあるじゃん。それでいい? 飲み物は確かダージリンで良かったよな」
「うん」
 今まで特別に意識することはなかったが、気がつくと私のことをよく見ている。好きな紅茶の種類から始まり、食の好みや本の趣味、はたまた行動パターンまで把握されているような気さえする。
 人のことまでよく覚えているなあと呑気に構えていたが、キバナにとって私が特別だというならそういうことなんだろう。
 ややあって運ばれてきたタルトは苺がこれでもかというほど盛られていて、中を割ってみると下はチョコレートが入っている。それもビターチョコレート。甘いのは好きだけど、甘すぎるのは得意じゃない私の好みにぴったりと合う。
 思わず顔を上げるとキバナと視線が合ってニッコリ微笑まれる。
「美味しい?」
「うん、とても」
 私はキバナに尽くされていると思う。それはあの私の失言からも変わらず、いやそれ以上に献身を受けている。
 キバナは私を追いかけこそすれ、好きだとは一度も言わなかった。たぶん私が断るのを見越してだろう。決定的な言葉がなければ私から突き放すのは難しい。
 私はまんまとその罠にかかってキバナを拒みきれずにジタバタしている。
「ねえキバナ、ひとつ聞いてもいい?」
「ん、何?」
 私の傍にいられるだけで幸せだとでもいうように緩んだ表情を見ていられなくて視線を落とす。このままでいいと思うのは私のエゴだ。手のひらを握りしめて爪を立てた。
「私のこと、好き……なんだよね?」
 卑怯な質問をした私にキバナは笑うように息を漏らした。優しい人だから今ので私の言いたいことを全て悟ったんだろう。キバナはごめんと謝った。
「迷惑だった?」
「ううん、そうじゃないの。なんかキバナに悪いような気がして」
「そっか」
 これで諦めてくれないかと一縷の望みをかけてキバナを見つめるが、困ったように笑うばかりで望む答えを返してはくれない。
「……もし迷惑じゃないならこのままでいさせてほしい」
「けど、それは」
「ちゃんと告白もしてないのにズルくてごめん。でも真剣にオマエのことが好きなんだ。受け入れろとは言わないから傍にいたいと思うのは許して」
 胸の奥をギュッと掴まれたように息が詰まる。本当は違うのに、私はキバナが思うような人じゃないのに、真っ直ぐな好意を受け取る資格なんてない。
「私はキバナに答えられない」
「知ってる」
「報われないなら私なんか忘れて他の人に――」
「でも好きだから」
 はっきりと言葉を遮られてやってしまったと我に返る。キバナは泣いてはいなかったけれど、本当に苦しそうに喘ぐようにそう言った。
 私はまた、間違えた。
 本当は私の方がずっとずっと早くからキバナを好きだった。とっくの昔に諦めたはずの思いは私のバカな失言から再び火がつき燻っている。
 望みができて嬉しいと思う気持ちとは裏腹に、一歩を踏み出すのが怖くて逃げている。手に入らなければ失う気持ちを味わうこともない。結局のところ私は自分を守るためだけにキバナを拒んでいる。
「……泣かないで」
 長い腕が伸びてきて私の頬に触れた。泣いちゃいけないと思うのに涙が流れる。
 後先を考えないならこの手を取りたかった。私も好きだと言いたかった。でも臆病で小心者な私はキバナの隣に立つ勇気が持てなかった。
「ごめんな」
 何でキバナが謝るんだろう。悪いことなんて何一つないのに本当に優しい人だ。
 そんなところもどうしようもなく好きだと思えてしまってまた次々に涙が溢れる。キバナはそんな私に呆れることなく静かに涙を拭い続けた。

 彼女は優しい子だと思う。
 キバナに特別な感情を持っていると目で語りながらも決してそれを口に出すことはしない。そうすればキバナが大事な友人を一人失うと分かっているから。
 理性的で自己犠牲的なその性根をキバナは好んでいる。とても意地らしくて可愛いじゃないか。そう思う気持ちが恋に発展するのはそう長くはかからなかった。
 キバナは待った。我慢比べは得意だ。ドラゴンタイプは大器晩成型、待つのは慣れている。彼女が自身の気持ちを胸のうちに留めておけなくなるまでじっくりと見守るまでだ。
 しかし彼女の意思は強固だった。いつまで経ってもキバナに恋心の片鱗すらを見せやしない。
 これは難しい戦況になったとキバナは考える。攻勢に出た方が良いのではないか、彼女がキバナを思っているのは間違いないのだから。
 酒に酔って口を滑らせた彼女の言葉に乗じて罠を仕掛ける。彼女はキバナの好意に顔を青くした。
『……冗談、私はキバナと付き合う気はないよ』
 その言葉で全てを悟った。彼女はキバナ自身ではなく、その周囲や立場を怖がっている。キバナが告白しても逃げられるだけで受け入れることはないだろう。
 キバナを拒みつつも好きではないと言い切らない彼女は素直だ。その正直さは好ましいが、キバナにつけいられる隙にしかならない。
 彼女の涙を拭いながらあともう少しだとほの暗い喜びが抑えきれない。彼女はもう泥沼に足を踏み入れてしまった。苦しみもがきつつも最後はこの腕の中に収まるしかない。
 たくさん泣かせてごめんな。でもオレを惚れさせたオマエも悪いから。
 キバナは善人の皮を被って優しく微笑んだ。