屋根からこんにちは



 どうやら、ヴァリアーに鼠が紛れ込んでいたらしい。それ自体は別に珍しいことでもなんでもない。組織には裏切りがつきものであるし、自分を狙っている勢力が少なくないこともわかっている。だが、間が悪かったのだ。
 今までのは数か月に一人、多くて一か月に一人ほどであった。だから、自分が動かなくても良かったし、後処理もカス共に任せていればよかった。それなのに。今回は狙いすましたかのように集中していて、その後処理やらなにやらでしばらく満足に眠ることもできずにいた。
 ここまで集中していると、敵が協力して仕掛けてきたのだと考えるのが普通であるし、大元をたたくことが一番手っ取り早いだろう。しかし、今回は訓練された鼠だったらしく、なにもしゃべらないままで自害してしまった。いくら凄腕の暗殺集団だとしてもない情報から犯人を割り出すことなんてできるわけもなく、ただイライラと日々を過ごすだけになってしまった。

 そう。自分は疲れていたのだ。
 そして、寝不足でもあった。

 ひとつだけ注意しておくが、自分にはドジっ子属性なんてものはないし、普段ならヘマなんて絶対にしない。
 生まれて初めてレベルのあんな大きなヘマをしたのは、そう。様々な要因が重なったからだ。言い訳なんかじゃねぇ! うるせぇ!


 眩しい朝日にイライラとしながら屋根の上(ヴァリアーにとってはどこでも地面である)を歩いていたとき。視界がぼやけて、揺れて、足場があると思っていた場所が空中であることに気づかずに。イラつきのままに一歩足を踏み出した俺は、そのままの勢いで落下した。
 そして、あまりの事実に現実逃避がしたかったのか、それとも限界だったのかはわからないが、俺はそのまま眠りについてしまったのである。

 馬鹿か自分は。





 「だいじょうぶ?」
 何かが自分を揺すっている。か細く響くその声は、子ども(それも女)のようである。殺意も感じず、とりあえずは目を瞑ったままでじっくりと自分の記憶を掘り起こす。そうだ、自分は寝不足で、屋根から落ちた。認めたくないがそうだ。受け身も満足にとれなかったために体中がぎしぎしと痛むが、まあ折れてない。たぶん。
 そして、近くの気配を探る。どうやら少女しかいないらしい。自分が落ちたのを見かけて心配しているのだろう。だが、まあ、ほぼないとは思うが、この少女が自分を殺すために仕組まれた刺客だということも考えられる。それほどヴァリアー(うち)には敵が多いのだ。

 「……あっ、おきた」
 ゆっくりと目を開けると、目の前にはふくふくと柔らかそうな頬をした4歳ほどの少女がいた。細くやわらかそうな黒髪と茶色がかった黒い目を持つ、少女。顔つきからするに、どうやら日本人(ジャッポネーゼ)のようだ。そういえば、先ほど聞こえた言葉も日本語だった。旅行に来て、親とはぐれてしまったのかもしれない。

 「えっと……だいじょうぶ?」
 緩慢な動作で起き上がった俺に、小さな手が差し出された。白く、やわらかな曲線を描く手のひらには傷ひとつついていない。随分と大事にされて育ったのだろう。

 「……お前、日本人か? 親はどうした」
 「……」
 日本語で問いかける自分の声が思いのほか優しげで内心ひどく動揺した。親の元まで、案内してやろうと思った。ただの気まぐれだ。まっすぐな目が失われるのが惜しいと思った。そうして口から出た質問に、唇をぎゅっと噛んで目を反らす少女に眉をひそめた。
 なにか、事情があるのか。こぎれいな恰好をしているから考えてもみなかったが、まさか孤児なのか。

 「……いない。いなくなっちゃったの」
 妙な言い方だ。他人事のようだ。一瞬暗い顔をした少女は、またすぐに顔を挙げた。もう、動揺も悲しみもその目には映らない。

 「……うちに来るか」
 本気で自分の頭を心配した。いくらこの少女が今まで両親からひどいことをされたり、他の大人たちからむごい行為を強要されてきたりしていたとしても、暗殺部隊で世話になるよりはよっぽどマシなはずだ。

 「うん」
 ゆるく微笑んで頷く少女に、俺は嘘は言わなかった。ただし、自分たちが暗殺部隊であるとは一言も言わなかった。これからの生活を夢見ているのだろうか、頬を赤く染める少女に、少しだけ胸が痛んだ。

 「お前、名前は」
 「みゆ」
 「……みゆ……か。俺はXANXUSだ」
 「ざんざ」
 「……XANXUS」
 「ざんじゃし」
 「……」

 そうして、難しそうな顔でざんじゃ、ざんじょす、じゃんじゃん、とぶつぶつと繰り返す少女……みゆの手をとって、俺は屋敷へと足を進めた。