匂いに誘われて

 ふわふわ、ふわふわ。綿菓子の雲、こんぺいとうの星、夏みかんの太陽。ふしぎな世界で、私はひとりぷかぷかと浮かんでいた。うわー、もぐもぐ、この雲あま……くない! 甘くない! なんだこれ! ペッペッ! ペッペッペッ!!
 「ペッペ……ペッ?」
 ハッと目を開けると、私は空の上でもなんでもない、恐ろしくふわふわなベッドの上に居た。夢見心地で口に含んでいたやわらかい掛け布団をはね除けたものの、ベッドが素敵すぎて立ち上がれない。いそいそと最高のかけごこちの掛け布団も回収してかけなおす。こ、このベッド、ふわふわふかふかすぎて、体がほとんど沈んでるよ……。うん、……あたたかい……、こりゃあんな気持ちいい夢も見るよ…………、ぐう。

 じゃなくて!
 慌てて起き上がり、寝ようよと誘ってくる布団をぽいぽいと隅にやり、ようやく床に下りた。(巨人族用のベッドらしく、恐ろしく高かった。) ぐるりと部屋の中を見渡す。シックで大人っぽい雰囲気で、黒や茶色を基調とした中に赤色がちらほらと見える。ザンザスさんみたいだ。……そうだ、あの、胸の中心まで焦がしてしまいそうな鮮やかな赤色の目を持ったザンザスさんは、どこに行ってしまったんだろう。見た目に反して、ザンザスさんの腕の中が心地よすぎて不覚にも眠ってしまったけれど、たぶん、ここはザンザスさんのおうちなのだろう。
 足の裏をくすぐる絨毯を歩いて、大きな扉を恐る恐る開けた。(驚くことに、さすが巨人族の家、ドアノブが私の頭の少し上にあった。)
 しん、と静まった長く続く廊下には、ずらっと同じような扉が並んでいた。足を踏み出すと、床のヒヤリとした感覚が体を震わせる。夕方らしくオレンジの太陽の光をめいっぱい取り込んでいた部屋とは違い、あまり窓のない廊下は照明も幾分か暗めで、壁にかけられているなんだかそれっぽい(高級そうな)絵画の女性の目が今にも私の動きを追ってきそうだ。
 どこを目指せばいいのかわからないし、どれがなんの扉なのかもわからない。気配もなければ音もない。匂いもしな…………ん?
 くんくんと鼻をひくつかせる。じゅわりと肉汁をこぼしているお肉が頭の中に浮かんだ。みんな大好き、お肉の焼ける匂いだ。ぐっすり眠っていた間にお腹が空いていたことをきゅるきゅると鳴くお腹を撫でながら実感した。そういえば夢の中も食欲に支配されてた。

 ひたひたと足の裏の皮膚が床にくっついては離れる音だけが聞こえる。ときどき声が漏れ聞こえる部屋もあったのだけれど、それよりも今は空腹が大事だった。鼻をひくひくと動かしながら、匂いの発信地を探す。どんどんどんどん近づく、じゅわじゅわとあたたかな湯気を放つステーキを想像しながら、私は最初に廊下に踏み出したときとは比べ物にならないくらいの軽やかな足取りで暗い廊下を進んだ。
 そういえば、勝手に部屋を出てきてしまった。歩いているうちに気づいたけれど、見ず知らずの人間(にカウントされてないかもしれないくらいには今の私は小さいのだけど……。)をすぐに家に連れて行ってくれるザンザスさんのおうちは、さすがに広かった。ちょっとだけ不気味なリアルさを持った絵画も見たことのあるタッチで描かれていたりするし、飾ってある謎の彫刻もなんだか凄そうだ。私には価値を計る能力がないので詳しいことはわからないけど。……そう、つまり、御屋敷が広すぎて、もう絶対に戻れない。部屋を出てからの道順を思い出しても、右に進んで階段を下りて左に行って真ん中の階段を上に……えっと…………匂いにしか集中してなかったからな……。なにより、どの階も同じような景色だったし。

 ……ていうか、戻れる戻れないよりも。……ザンザスさんに怒られちゃったらどうしよう!? 絶対にやばいよね!? どうしよう!? でもいい匂いがすごく近くて、…………あっ! この部屋だ!
 人のおうちだとか、そういうことはスッパリと忘れて、私は輝く瞳と口の中の涎を抑えながら目いっぱい背伸びをしてドアノブに手をかけた。