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>いらっしゃいと研磨の母から満面の笑顔で迎えられてなまえは孤爪家へと再び足を踏み入れた。彼氏の実家に来て親に挨拶するなど、軽い関係性しか築いてこなかった彼女にとっても初めてのことで緊張の面持ちで挨拶を済ませた。
本当に美人さんで研磨には勿体ないわと顔を綻ばせる母を軽くかわして荷物置きに行くよと研磨はなまえを部屋へと誘う。
「いいお母さんだね」
「そう?後で根掘り葉掘り聞かれるから覚悟してといてね」
「研磨より仲良くなっちゃうかも」
「え…それはヤダ」
扉を開けて見慣れた部屋に入って荷物を置く。相変わらず研磨の匂いが充満しておりなまえはふぅと息を吐くと、後ろから研磨の体重がかかる。体の前に回る腕で抱き締められていることがわかり、その腕をきゅっと抱いた。疲れてるから癒してという研磨の言葉はこれかと思って静かにその鼓動を感じていると、なまえ、と彼が名前を呼んだ。
「何?」
「今日は眠くて出来ない」
「え?」
「ホントはしたいけど親もいるし」
すり、と頬を擦り寄せて研磨はなまえを見つめ、耳朶に唇を寄せて甘噛みすると彼女は甘い声を我慢するように身を捩った。だが体格は研磨の方が上なのでその頭を固定して啄むような口付けをした。
眠いのもしたいのも本音だったが、今日は親がいるというのが一番の弊害だと研磨は彼女の耳元で息を吐いてもう一度強く抱き締めた。
「研磨…」
「ん、ちょっとだけ癒された」
「擽ったい…」
「耳弱いんだねなまえ」
そう言って研磨が笑うのと同時にご飯できたよと彼の母が呼ぶ声がするので、2人はリビングへと向かった。夕飯の間は彼の言うとおり質問攻めで、いつ出会ったのか、いつから研磨が好きだったのか、なぜ研磨なのか、とこちらが答えるのが恥ずかしくなる質問をニコニコと興味津々に聞いてくる母が耐え難く、研磨は早々に風呂行ってくると言って逃げていった。
「でもなまえちゃん、本当に研磨で大丈夫?そんな可愛かったら他にも引く手数多でしょう?」
「そんなこと…。あ、片付け手伝います。すみません、お夕飯の準備お任せしてしまって」
「いいのよ、研磨が彼女連れてくるなんて初めてで嬉しいんだもの!しかもそれがこんな美人さんだなんて!」
「初めてなんですか?」
研磨が女の子に興味があるように見える?と彼に似たような目をするものだから、なまえは笑ってそうですねと答えた。
ゲームが好きで他人との関わりは苦手な研磨に興味を抱かれ、愛された彼女を母は少し不思議に思っていた。特別どこかが変わっているという訳ではなく、もちろん頭がいいのはあるが、それ以上に何かがあるとは感じない。しかし恐らく研磨が惹かれる何かがなまえにはあるのだろう、と母が食器を拭きながら考えていたら研磨がひょっこり顔を出したので思考を止めた。
「なまえ、風呂空いたけど」
「あ…でもお母さんは…」
「いいのいいの、なまえちゃん先に入って来ちゃって?」
「ありがとうございます…お先にいただきます」
なまえを風呂に見送って、ガタガタと風呂場の扉が閉まる音を聞いて、母は研磨を呼び止めた。彼女の素性が知りたいという好奇心と、息子が彼女に本気なのかという確認のためだった。研磨のことだ、成り行きでというのも有り得なくはないが、人一倍面倒臭がりの彼がそんな半端な気持ちで付き合った彼女をわざわざ親のいる家に連れてくることはないはずだ。
「なまえちゃんのこと、本気で好きなのよね?」
「……何、突然」
「研磨、約束して。結婚できるようになるまでは、絶対に避妊すること。いい?なまえちゃんのこと大事にしするのよ?」
「な…何言ってんの…!?」
「大事なことでしょ!?」
まさかの単語が母から飛び出して研磨は慌てふためくのと同時に母は気付いていたのだとわかった。あの時、なまえを家に連れ込んだあの雨の日に起きたことは全てお見通しだったのだ。そして母にバレているということは父も知っている可能性が高い。たじたじになりながら研磨は母の言葉を頭で反芻させた。
結婚できるようになるまで。そんなことは考えもしなかったし、自分はずっと恋愛とか結婚とかに無縁だと思っていたのに、それが手に取るように分かるところまで来ている、と彼は思った。思春期特有の勢いとか流れとか、始まりはそんな単純で些細なものだったかもしれない。それでも。
「おれは、なまえを手放したりしない」
「…そう。それなら良いの。幸せにしてあげてね」
「まあ…うん」
「なんでそこは弱気なのよ!」
手放さないと言った研磨の表情に母の不安は幾らか吹き飛んだ。あれは幾度となく見てきた彼の本気の表情で、何一つ偽りがないことを示していた。いつもの曖昧な返事ではなく、断言するような強気な言葉が何よりもその証拠だ。嘘をつくのが苦手な彼は、迷うようなことがあれば目を逸らして泳がせたり歯切れが悪くなるはずなのに、それが無かった。まさか初めて連れてくる彼女を手放さないとまで言うとは想定外もいいところだったが、と母はわしゃわしゃと髪を拭く研磨を見つめた。
「だって、なまえがおれといて幸せになれるかどうかは分かんないし」
「そこはおれが幸せにする!じゃないの研磨」
「えー…そんなこと言われても困るし…」
「そんなんじゃ逃げられるよ!」
「うるさい…」
逃がさないけどね、と研磨は心の中で呟いた。こんなに女子に対して興味が湧いて、隣にいるのが心地よくて、好きだと感じたことは生まれて初めてだったし、きっと今後もないだろうと。運命なんて不明瞭なものを信じる研磨ではなかったが、なまえとの出会いと今の関係だけはそれだったのかもしれないとさえ思っていた。
「なまえちゃん、どこか変わってるところある?」
「うーん…おれが今まで会った中で一番頭いいとか…?」
「何それ、そんなの変わってるに入らない」
「あー…変わってるっていうか、なまえはたぶん小さい頃から凄い気を遣って生きてきてると思う」
それだ、と母は察知した。しかし気を遣うということは、相手をよく見ているということだ。研磨も人のことをよく見ているし人の目を気にするところがあり、その点では似たもの同士ではないかと言うと即座に全然違うと嫌な顔をしたので母は苦笑した。
「何が違うの?」
「えー…めっちゃ聞くじゃん…でもおれから言うことじゃないし」
「ま、それもそうね、明日なまえちゃんに聞くわ」
「あんま質問攻めしないでね」
「それはどうかな〜」
「やめて」
どうせ聞くだろうと思っていながらも、なまえの過去を根掘り葉掘り聞かれるのは自分の親でも嫌だった。彼女の性格を構成する要因になった今までの出来事を全て知っているかと問われたらそんなことはない。恐らく断片的な内容しか知らないし、話したくないことを無理に言わせるつもりもなかった。だが、親として息子の彼女の素性を知りたいという母親の気持ちも幾分かは理解が出来るので研磨はただ止めることしかしなかった。あとで忘れずになまえに伝えようと思いながらうつらうつらしていると、風呂から上がった彼女が恐る恐る顔を覗かせてきたので研磨はドライヤー持ってきてとあくびをした。
「すみません、お先にいただきました…!」
「あらあら、ゆっくりして良かったのに」
「いえ…そんな…」
「うふふ。あとは2人でごゆっくり〜」
余計なお世話、と研磨が母を睨むのをなまえは微笑ましく見守っていた。自分の母も彼氏を家に連れて行ったらああいう風に茶化してきたのだろうか、興味を持ってくれたのだろうか、と。だが最早それは叶わないことだ、といつぞやの母の姿を頭から消し去ってなまえはドライヤーのコンセントを繋いだ。
「研磨、先乾かしてあげるよ」
「おれはいいよ、もう少しで乾くし…寝そうだからなまえの髪乾かさせて」
「あ…ありがとう」
「うん…だってなまえ、いい匂いするし…髪もさらさらだし、気持ちいいよ」
研磨がそんなこと言うと変な内容に聞こえると思いながらなまえが彼を見ると、いつもの猫目は半開きで今にも寝そうな雰囲気が漂っていた。寝ててもよかったのに、とソファに座る研磨の隣に腰掛けて髪を撫でるとまだ少ししっとりとしている。
金髪が伸びて黒髪が出てきている彼の髪。研磨が黒髪だった頃をなまえは知らない。インターハイの前には既に金髪だったらしく、染めた理由を聞いた時は驚いた。伸びたら全て黒くなるのだろうか、とさらりとその髪を指で梳くと、研磨はその手に誘われてなまえの肩に顎を乗せた。
「眠い?」
「うん…眠い…。でもなまえ、髪まだ濡れてるし」
「気にしなくていいし寝ていいよ、明日朝練でしょ」
「……なまえ、おれと同じシャンプー使って同じボディソープ使って洗ってんのに…なんでこんないい匂いすんの?ホント不思議」
くんっと研磨が鼻から息を吸うのが分かって、なまえは彼の頭へ再び手を伸ばす。このグラデーションの髪の毛はいつまで続くだろうか、金髪も似合っているからまた染めてもらっても良いけど、黒髪も見たい気がする、と思いながら毛先を指に絡ませて遊んでいると、研磨はなまえをぎゅっと抱き締めた。
「ヤバい、本当に寝そう…早く髪乾かして寝よ…」
「はいはい、じゃあよろしく」
「うん」
ソファの下のラグに座って、研磨がドライヤーのスイッチを入れると温風と彼の手先が優しく髪と地肌に触れる。なまえはこの瞬間が堪らなく好きだった。バレー部の中では小さいかもしれないが、彼女と比べると大きくゴツゴツした彼の手が触れる度にドキドキする、となまえはその感触に思いを馳せた。
しばらくそうしていると、バタンと玄関の扉が閉まる音がして研磨がドライヤーの電源を切った。
「あ…帰ってきたかも」
「ただいまー、お!まさか噂のなまえちゃん…!?」
「あっ…お邪魔しています…!みょうじなまえと言います。よろしくお願いします…!」
「こちらこそ、不束者ですが研磨をよろしくお願いします…」
「何その言い方…」
気にしなくていいからねとドライヤーを持つ研磨を見て、彼の父はジャケットを脱いで部屋へと向かって行った。それを見て研磨は早く、となまえを再度ラグに座らせてドライヤーのスイッチを入れる。
もう少しきちんと挨拶した方が良かった気がする、追い掛けても仕事終わりに鬱陶しいだろうし、何が最善かとなまえがぐるぐると思考を巡らせていると、研磨は最後の仕上げとばかりに全体へ冷風を当て始めた。
「なまえ、寝よ…」
「え、でもお父さんにまだ挨拶ちゃんとしてないし」
「いいよ別に明日で…ふぁぁ」
「うーん…」
「ほら行く」
研磨に腕を引かれて部屋に向かい、ベッドへとダイブすると彼は一瞬で眠りに落ちた。なまえは隙があれば抜け出して挨拶に行こうと思ったが、壁と研磨に挟まれて動ける気がせず、しかも彼の腕でしっかり体はホールドされている上に足も動かせない。まるで抱き枕状態だ、と笑ってなまえも目を閉じた。
「おかえり。研磨となまえちゃん寝ちゃった?」
「ただいま。ああ、研磨が凄く眠そうだったから連れてったんじゃない?」
「あら残念。なまえちゃん、本当にいい子よ」
「うん、少し挨拶しただけだけど、そんな気がしたな」
研磨がドライヤーを持って彼女の髪を乾かす日が来るとは。しかも部活の後で疲れている時だ、興味のない相手でどうでも良ければわざわざ面倒なことをするはずもないのに、眠気と戦いながらそんなことをする研磨を見て、父はみょうじなまえという女子高生の存在を嬉しくも恐ろしくも思った。
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