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>なまえの父は優しかった。家庭を省みないで働き通したことをどんなに咎められても何も言わずにそれを受け入れた。そして、母がもう一度やり直しやすいようになまえを引き取って自分が責任をもって育てると言って別れた。幼いなまえにとって親との別れは辛く苦しいものだったし、ましてや引き取ったのが日頃共に過ごしていた母ではなく、あまり家に居なかった父だということ。
父はなまえに謝った。母さんと仲良く出来なくてごめん、全部父さんのせいだと。子どもながらに両親の仲が良くないのは理解していたし、離婚する家庭もそう少なくはないと分かっていたので、それが自分に降りかかっただけのことだとなまえは事態を飲み込んだ。
とはいえ、父は家事全般が何一つ出来ない人だったので、週に何回もお手伝いさんを呼んでいた。日替わりなこともあったし、同じ人が何度も来てくれることもあった。なまえはその人たちが仕事をするのを見て少しずつ覚えて自分で掃除をしたり、料理をするようになった。
すると、父は決まってなまえを褒めた。
今思うと、恐らくどうやって接したら良いかわからなかったのだと思う。逃げていた訳では無いだろうが、勉強も運動も大きな穴もなく我儘も言わない優秀な娘が、少し怖かったのかもしれない。運動会も授業参観も、基本的な学校行事に参加することはほとんどなく、なまえは幼い頃の父との思い出は正直あまりないと感じている。
なまえが小学校から地元の中学に上がると、彼女はバレー部に所属し、3年生の時は主将も務めた。勉学にも優れ、なまえが今の高校に入りたいと言ったのが初めての彼女からのお願いであった。
分かった、頑張れと父はなまえを応援した。なまえも父の期待に応えようと必死に勉強し、難関校に合格した。
入学した高校は中高一貫校だったが、優秀な極少数を高校入試で毎年入学させている。その理由は他のクラスとは少し違う授業をする特進クラスにあったのだが、それが偏差値と比例して学費も高く、難関校として指定されていた。
特進クラスはほぼ全員が2ヶ国語を取得し、指定された大学の授業も受けることが出来る上、1年以上の留学での単位取得も可能。堅苦しくなく自由に様々な経験ができるので上を目指す者にとっては人気なクラスであった。
そんな高校に無事進学したなまえはもう一度バレー部に入ろうと思ったが、残念ながらバレー部は同好会に成り下がり、部活としての存続はしていなかった。1から部活を作る気にもならず、なまえは友人に誘われてバスケ部に入部した。勉学に精通している故か部活に本気で打ち込むという慣習のない学校だったので、部活は運動の一貫というような形で、試合もまともにしなかった。
勉強以外に何にも打ち込めない中、父は単身赴任で家におらず、なまえの心は段々と冷たくなっていった。
そして始めたアルバイトで、彼女の基盤が出来上がることになる。それが、ライブハウスのバーカウンターだった。
ライブハウスは色んな人がいる。危険な人から、夢追い人から、普通の会社員まで、年齢も性別も様々だ。演者も然ることながら観客もそうだ。自分の知らない世界であるその場所へ行くことになまえはワクワクしていた。そして、音楽というゴールもない、勝敗もない、果てしない夢を目指す人達の集まる場所がとても好きだったし、夢を追う人を格好いいと感じていた。
とはいえ、本気で夢を追い掛けて邁進している人は少ない。大多数が夢に夢を見て自己陶酔している人が多かったのだが、当時の彼女にそれを判別する術はなく、夢追い人に声をかけられて舞い上がって自分も夢を見つけたような気分になっていた。
理想と現実の差は埋まることなくなまえの心に溝を作った。夢は夢でしかなく、現実は厳しかった。だが、あの空間に見えない夢を追い掛けている人は必ずいて、いつかそんな人に出会えるのではないかと少なからず期待をしていたのだと思う。
「なまえ、また別れたの?」
「なんか続かなくて。ちょっとした行動で冷めちゃうんだよね。どこでもハグしたりキスしようとしてきたり、恥ずかしくて」
「え…結構年上じゃなかった?」
「うん。確か25」
「まじ〜?普通に無理なんだけど。TPOって知ってる?って感じ」
友人2人はなまえと同じく高校からの入学者で、同じ特進クラス、且つ中学時代はバレー部に所属していた。自然と仲良くなり、大体の時間を3人で共に過ごしていた。選択授業も同じことが多く課題も一緒に取り組んでいたし、運動がてらバスケ部で体を動かしたりもした。
1人が1年間イギリスに留学したり、バラバラになることもあったが3人は常に連絡を取り合い、帰ってくる時には空港に迎えに行ったりなどもしていた。
「ね、バレーのインターハイ見に行かない?」
「インターハイ?なんで?知ってる学校でもあるの?」
「そうじゃないけど、高校バレー見たいなーって。なまえはどう?行く?」
「2人が行くなら行くけど…」
「じゃあ決まりね〜!なんかバレー見るの超久々!楽しみ〜!」
突然誘われた高校バレーのインターハイ。東京の強豪はどこだと調べ始める友人に、井闥山とかじゃない?と昨年の結果を見せると、ふーんと大して興味もなさそうな反応をするので眉を顰めると、強豪が見たいわけじゃないし、どこでもいい試合するところはするしと言い始めるので、じゃあ強豪調べなくていいじゃんとなまえは呆れて笑った。
それがこんなことになるなんてとなまえは寝ぼけ眼を瞬かせて体を捩ると、感じるのは自分でない人の体温と感触、そして重さ。
そういえば研磨と一緒に寝たんだった、となまえは目の前の寝顔に思わず笑みをこぼした。頭を動かして時計を見ると、時刻はまだ朝の7時前。研磨が何時に起きるか聞くの忘れていたともぞもぞしていると、彼もそれで目を覚ましたのかなまえを力任せに抱き締めてきた。
「研磨、痛い…!」
「まだ…寝るから…」
「何時に起きるの?」
「ん…もう少し…」
「黒尾が起こしに来るのは最悪なんだけど」
おれもそれは嫌だ、と研磨はふぁぁとあくびをしてなまえの向きを変えて抱き枕変わりに後ろから抱き締め、うなじにすり寄る。絶対分かっててやってる、となまえは擽ったさに腕を外そうとするが、足も完全にがっちりと掴まれて身動きは取れない。寝かせる気もないし寝る気もないでしょ、と言うと、そんなことないと少し眠そうな声が後ろから聞こえた。
「眠い…でもなまえに触りたい…その瀬戸際」
「あはは、何それ」
「だって…どっちもしたいから…」
「欲張りだなぁ研磨は」
「なまえは…もう少し欲があっていいよ…」
首元で喋らないでよ、と言いつつなまえは回された腕にそっと触れた。研磨は口下手だが素直に本心で物を言うのが分かっているからこそ、なまえにとって彼の言葉は嬉しくも歯痒かった。
研磨のことに関しては石橋を叩きすぎて割りそう、もっと素直に伝えなよと友人にも言われたことを思い出してなまえは彼の指にそっと指を絡ませると、研磨は彼女に応えるように絡ませて握った。研磨、と静かに名前を呼ぶと、眠たげな返事が返ってくる。眠たいけれど今更熟睡も出来ないといったところだろうか、となまえは背中から伝わる彼の鼓動に感覚を研ぎ澄ませた。
「私、研磨のこと好きだよ」
「うん…知ってる…」
「研磨が思ってるより、多分ずっと……」
「ずっと、何?」
ごろんともう一度向き合う体勢にさせられると、真っ直ぐな瞳に射止められた。起きてるじゃんとか、朝練まで時間ないよとか、逃げる方法は幾つもあったのになまえは開きかけた口を閉じた。弱気になっている時に研磨のこの視線は苦手だったが、いつになく真剣な眼差しになまえは自分の心音が大きくなるのを感じた。いつだって彼は不思議で、ずるい。
「……何でも」
「何でもないことない。なまえがその顔するとき、大体悩んでる」
「研磨……」
「おれに言えないことじゃないんでしょ。途中まで言おうとしたんだから」
顔を見て言えるほど肝は座ってないし何よりも拒絶された時のことを考えると恐ろしくて堪らない、となまえが目を閉じると、研磨はその頬に手を伸ばした。
2人で狭いベッドで眠って、朝になると隣にいる彼女が先に目を覚まして、その動きで起こされる。そんな朝も悪くないと研磨は思っていた。睡眠を邪魔されることは大いに不愉快なのだが、相手が彼女に限ってそんな風に感じることは決してない。自分のものではない体温と息遣い、そして匂いがあることがこんなに幸せに感じるなんて初めてだ、と彼は触れていた頬から後頭部に手を回してなまえをそっと抱き寄せた。
「こうした方が話しやすいでしょ。で、何?」
「…私、研磨が思ってるよりずっと…」
「うん」
「研磨のこと、好き」
「うん、知ってる」
え、と顔を上げると何言ってんのと言わんばかりの呆れ顔が待っており、なまえはぱちくりと瞬きをした。一方の研磨はそんなことを言うか言わないかで悩んでいたなんて、なまえの心の中は分からないなと考えていた。もっと何かすごい事を言われるのかと思っていたら、自分が想像するよりもっと好きだと。そんなのおれの方がもっと好きだし、と拍子抜けしたなまえの額に唇を寄せた。
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