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>ちょっと待ってと制止する声を無視して研磨はなまえの唇を奪った。彼女はクールで何でもそつなくこなすように見えて、意外とそんなこともない。否、頭脳明晰なので実際何でも出来るし頼りになるし、実際研磨も試験前はなまえに勉強を教わったこともある。彼女達が来てからは3年生にも勉強を教える人材が出来たため、音駒バレー部は試験も難なく通過出来るようになった。
とはいえなまえは不器用なのだ。人を大切に思うが故に自分の気持ちを押し殺す面があり、研磨はそんな彼女の我慢するところに不満すら感じていた。
「んっ…研磨…」
「なまえはさ、もう少し素直になりなよ」
「え…?」
「確かにおれは嫌なことは嫌だって言うけど、それはなまえが嫌なんじゃなくて…あー…」
この前、なまえの友人から突然メッセージが来て、何事かと思ったらなまえは研磨くんに対して我慢しているという内容だった。何のことか分からなかったしなまえも何も言ってこないし、会った時に直接伝えてこないので特に気にせず居たのだが、研磨は彼女が時々する悲哀に満ちた表情に気が付いていた。今まであの顔にどんな感情が込められているのか分からなかったが、人に対して見せる顔ではなくふとした時にしている顔なので、無意識に何かを考えているのだろうと想像した。
きっと彼女の友人達もそれに気付いて力になりたいと思ったのだろう。でもなまえのことだ、何でもない、大丈夫、気の所為だと言って誤魔化したに違いない。そして彼女達は悟ったのだ、自分たちがなまえにとって弱味を見せられる相手ではないのだと。
「研磨…?」
「おれの前では、そのままのなまえでいてよ」
「それ…どういう意味?」
「我慢してるでしょ、見てて分かる」
研磨はもう一度なまえの唇に軽くキスをして抱きしめた。涙こそ流していないが泣いているような気がして見ていたくないというのが本心だったし、彼女は簡単に人に甘えたり心を開いたりすることをきっと恐れている、だからいつも目を逸らすのだ、と研磨はその頭を撫でた。
なまえは優しい感触に目を閉じて、ぎこちなくも彼の腰に腕を回した。今まで我慢することが普通だった彼女にとって彼の言葉は染み渡るように浸透し、不安に囲われた心を少しずつ溶かしていくようだった。
「研磨、好き」
「うん、おれも」
「あ…ごめん…そういえは時間大丈夫?私、ゆっくりしすぎた気がするんだけど…」
「うわぁ…朝練忘れてた…行きたくない…」
行かなきゃだめでしょと笑うなまえと一緒に起き上がって、研磨は部屋着のズボンを脱いでジャージを履き始めた。ここで着替えるの?となまえはぎょっとして彼を見ると、続いて上も脱いでTシャツを着ようとしていたので彼女は目を逸らした。いいじゃん別に全部見たんだし、と飄々として、なまえも着替えなよと制服を手渡してくるものだから彼女はおずおずとそれを受け取った。
「何、なまえ。恥ずかしいの?」
「そりゃそうでしょ!」
「えー…じゃあおれ先リビング行ってる…」
「何でちょっと残念そうなの」
「だってなまえの着替え…」
ばか、となまえが背中を押すと少し意地悪そうな顔をして研磨は彼女の頭を撫でた。彼の部屋に1人になったなまえはベッドに腰掛けて静かに息を吐いた。我慢してるでしょ、と言い当てられて胸騒ぎがするところを今は落ち着いてその言葉を受け入れることが出来ていた。嫌なことは嫌だって言うけれど、そのままのなまえでいてほしいなんて勿論今まで言われたことは無かったし、嘘ではないことが分かるから、研磨の言葉だったからこそ心に届いたのだとなまえは考えた。
制服へ腕を通しながら部屋をぐるりと眺めると目につくのは本棚に詰まった漫画、机に置いてあるのは沢山のゲーム、少しの参考書。研磨の部屋に来るのは2回目だが、1つも落胆するところもなければ疑惧するものもない。研磨は今まで女の影の1つもねぇからなという黒尾の言葉を思い出し、なまえは部屋を出た。
「なまえちゃん、おはよう!朝ご飯何食べる?パン?ご飯?それともサラダ?ヨーグルト?」
「ど、どちらでも…!私、支度しますし…!」
「いいのいいの!娘が出来たみたいで嬉しくて!ね、研磨!」
「…なんでおれなの」
もそもそとパンを食べながら返事をする研磨に対して嬉しそうな研磨母と、ニコニコ笑って見守っている研磨父。なまえは温かい孤爪家に擽ったい気持ちになり、キッチンへ向かった。どうしたら研磨がこんなに大人しくなるのか分からない程快活な両親だったが、なまえはそんな2人の明るさに救われていた。
「研磨、鉄朗くん来ないけど時間じゃないの?」
「うわっ、やば…!」
「行ってらっしゃーい」
「あ、研磨…!」
何も考えずに当たり前のように見送るために席を立って玄関へ向かうと、研磨は靴を履いた後に両親がいないのを見てなまえへ軽く口付けて、行ってきますと扉を開けた。
そんな彼の行動になまえは唖然としたが、直ぐに顔に熱が集まるのを感じて頬を押えた。勿論何度だってキスはしてきたが、所謂新婚のようなこの状況、研磨を見送るこの局面。はぁ、となまえは胸に手を置いて息を吐いてドクドクと脈打つ心を落ち着かせてリビングへと戻った。
「研磨ったら、なまえちゃんのことが本当に好きなのね」
「え…そう…見えますか…?」
「うん、僕ですらそう思うよ。研磨は人見知りだし友達もそんなに多い方じゃないし、まさか高校で彼女を連れてくるなんて想像もしなかったなぁ…」
しみじみと話す父になまえは恥ずかしくなり俯いた。彼女自身も家に恋人を連れていったことはないし、父に紹介したことも無い。友人は何度も家に呼んでいるし話しているが、何も話さないことをどう思っているのだろう、と遠くの父親の顔を思い浮かべた。月に1回はこちらへ帰ってきてくれるので、そのタイミングで紹介することは出来る。後で連絡してみようか、となまえは決意を固めた。
「ところでなまえちゃん、研磨はちゃんと彼氏できてる?あの子マイペースだし…言いたいことあったら遠慮なく言っちゃってね」
「大丈夫です。とても優しいですし、私の方がずっと助けられていますから…」
「えぇ?母さん、研磨意外と…」
「何言ってんのお父さん間に受けちゃって!こんな優秀ななまえちゃんのこと研磨が助けるなんて…」
ワイワイと当人のいない朝の食卓は盛り上がっていた。温かさと少しの居心地の悪さと笑顔溢れる賑やかな時間に、なまえは何とも形容しがたい気持ちになった。昔は自分の家もこうだった、と10年ほど前を思い出す。母と父と3人で食卓を囲み、他愛もない話をして笑ったり喧嘩をしたり、あの頃はすれ違いながらも幸せだったと思う。
なまえがコーヒーを飲んで2人をぼんやり見守っていると、ふと名前を名前を呼ばれて我に返った。
「ごめんなさいね、2人で盛り上がっちゃって…何かあった?悲しそうな顔してる」
「え…あ…いえ、賑やかな朝は久しぶりだったので…」
「そういえばなまえちゃん、兄弟は?ご両親は?何されてる方なのかな」
「一人っ子です。父は外資系企業で働いていて今大阪にいます。母は…別れてしまったので…」
「研磨がね、なまえちゃんは相当気を遣って生きてきたんじゃないかって言ってたの。まだまだあの子も頼りないかもしれないけど、なまえちゃんのこと大好きみたいだから沢山甘えてね。勿論、私たちにも」
そう言って優しく微笑む2人に、なまえは唇を噛み締めて頷いた。彼に、そしてこの家族に出会えて良かったと心から思いながら感謝を述べて。
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