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会ったら疲れが吹き飛ぶとか、誰かを本気で愛してるとか、そんな感情が自分にあるなんて思っていなかった。でも、実際こうして彼女に癒されている自分がいる。会うだけで、触れるだけで、声を聴くだけで、こんなにも満たされる。不思議だ、と彼はなまえが子どもをあやすように背中を優しく叩くのを目を閉じて感じていた。

「なまえ…」
「本当にお疲れだね、研磨」
「だって今日2試合だよ?そりゃ疲れるでしょ」
「それもそうだね」
「なまえは2試合目しか見てないから…」

不貞腐れている研磨に対して、なまえは笑いながら謝罪を口にした。なまえがいたとて梟谷相手には勝てた気がしないから、どちらにしても結果は同じだっただろうけど、と思いながら研磨はなまえをきゅっと抱きしめて汗臭いよねと呟いて離れた。

ちらりと机の上を見ると、開かれた参考書の横には自分の筆記用具が置かれている。見慣れた彼女のペンケースは近くには見当たらず、学校に忘れてきたか持ってくるのを忘れたかどちらかだろうと推測した。彼女が自分のものを使っているのはいいな、と研磨はその時に初めて感じた。

「行こ、母さんが夕飯呼んでた」
「え、もうそんな時間!?」
「おれが戻ってきてるんだからそうでしょ」
「全っ然時間の感覚なかった…」

孤爪家で過ごす時間はなまえにとって少しの違和感と擽ったさがあり、母がいればこうして毎日様々な話が出来たのだろうか、父がいれば彼のことを聞かれたのだろうか、と時々自分の家に置き換えて想像するものの、叶うことの無い幻想の“家族”はなまえにとっては偽物だった。
木兎のこと、夜久のこと、戸美のこと、話は尽きない。研磨は相槌を打ったり説明しているだけだが、両親は音駒が春高なんてすごい、鉄くんがキャプテンというのが嬉しい、など色々と話を広げていた。

「なまえちゃんは元バレー部なんだよね?」
「はい、中学の時だけですが」
「なんでバレー部に?」
「友達に誘われて、なんとなく…ですね」
「研磨と一緒じゃないか」

笑う彼の父に、そういえばバレーを始めたきっかけを話したことが無かったとなまえが研磨の方を見ると、バッチリと視線が合う。これは少し怒ってるかも、となまえがきまり悪そうにそっと目を逸らすと、明らかに不機嫌そうな顔をしたのが視界の端で分かった。
“研磨くんって、ヤキモチ妬きっぽいよね”という友人の言葉を思い出し、まさにその通りだということを実感する。

「片付け手伝います!」
「いいのよ、ゆっくりしてて?」
「いえ、そんなわけには…!洗い物手伝わせてください」
「なまえちゃんは本っっ当にちゃんとしてるわよねぇ…尊敬しちゃう」

そんなことないです、となまえが泡立ったスポンジで皿を擦っていると、母はその様子を見て切なげに微笑んだ。なまえの家族構成は聞いていたが、いつまで彼女はこうして一人で暮らしていくのだろうと気にかけていた。深堀はしていないが、父親が単身赴任で普段から一人で暮らしているのは明らかだ。であればこの家に来てもいい、と言いたいところだったがこちらが押しすぎるとなまえが無理をして承諾してしまうだろう、と母は悩みながら彼女の洗った皿を拭いていた。

「なまえちゃん」
「はい」
「研磨のどこが好きなの?」
「えっ…!?ど、どこが…ですか?えっと…」

なまえはしどろもどろになりながら彼の好きなところを思い浮かべた。芯をしっかり持っているところ、冷めているように見えて勝負事が大好きなところ、自分の意見をしっかり言えるところ、不器用で優しいところ…沢山思い浮かんで仕方ないです、となまえは笑った。サラサラな髪の毛も好きだし、猫背だけれど彼女よりも高い身長、細い指、好きなところを挙げたらキリがなかった。
母は思いもよらぬ彼女の反応に、一瞬言葉を失った。そして、ありがとうと一言返すので精一杯だった。

「なまえ、おれ風呂入るから。勉強してていいよ」
「あ、うん。分かった」
「研磨は明日も学校でしょ?」
「うん…」
「そんな顔しても仕方ないでしょ」

自分から聞いておきながら何も言えなくなるなんて、と母はなまえを横目で見ながら手を動かした。人付き合いが苦手な息子が初めて連れてきた恋人。どんな変わり者かと思っていたら、美人で器量が良くて頭の良い女の子。研磨にはあまりにも勿体ないと思っていたのだが、恐ろしいことになまえもかなり彼のことが好きなようだ、と自分の息子ながら誇らしい気持ちになった。

「研磨をよろしくね、なまえちゃん」
「え…?」
「ああ、深い意味はないのよ!ただ仲良くしてねってこと。研磨、鉄くん以外に友達いないんじゃないかと思ってたから」
「ふふ、そんなことないですよ。バレー部の皆もそうですし、私の友人とも仲良くしてくれて…。あと梟谷の子とか、烏野高校っていう宮城の学校の子達とも仲が良いみたいです。研磨はあまりそういう話をしないかもしれませんが…」

家だとゲームしている姿しか見てないから知らなかった、と母は笑った。そして研磨にもそんなに沢山友達がいるのね、と心が温かくなるのを感じた。彼自身は口数がそこまで多くないので、一々親に何かを報告することは少ない。だからこそ、人あたりの良いなまえの存在というのは母にとっては特別で、彼女を通して研磨の成長を見ることが出来る、と不思議な気持ちになった。

「研磨はゲームばっかりだけどそれなりに勉強もしてるし、あんまり口煩く言うことは無かったんだけどね。母親としては交友関係も気になるけど、年頃の男の子にそんなに聞けないじゃない?」
「そうですね。心配になるの、すごく分かります」
「でしょう?なまえちゃんもそう思う?鉄くんがいないとダメなんじゃないかって思ったもの。でも、そんなことないのね」
「はい、大丈夫です。研磨の周りには沢山の人がいますから」

なまえちゃんが言うならそうなのね、と母は安堵したように笑った。武虎、招平、リエーフ、犬岡、芝山、手白、そして猫又監督、直井コーチ。3年がいなくなっても、研磨の周りにはまだバレーに情熱のある人達が沢山いる。梟谷の赤葦、烏野の日向、影山も来年もまたきっと一緒に練習出来るだろう。なまえは赤葦以外の他校の研磨の友人は話に聞くだけで知らなかったが、きっと大丈夫だと不思議と自信があった。
研磨が面白いと言うのだから。日向翔陽という一人の選手を。

「ありがとう、助かっちゃった!」
「いえ、そんな!今日もご馳走様でした」
「気にしないで、なまえちゃんは娘みたいなものだもの!」
「あ…ありがとうございます……」

なまえは母が淹れてくれたコーヒーを片手に彼の部屋へと入った。着て帰ってきたジャージとパーカーが脱ぎ捨てられ、着替えが抜かれた力のないリュックがふにゃりと無造作にベッドの横に置かれている。コーヒーを置いて服を畳もうと手に取って抱き締めると研磨の匂いがしてなまえは目を閉じた。この人が好きだ、と心の底から思う、とそれを畳んだ後にリュックを持ち上げると、彼の携帯が落ちそうになってなまえは寸でのところでそれを掴む。すると画面が光り、メッセージの受信を告げた。差出人は日向翔陽。研磨の友達だ、となまえは顔を綻ばせて携帯をベッドに置いてリュックをテーブルの横に掛けた。



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