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遅い、と怒られたあとに、煙草臭い、と文句を言われて風呂場に放り込まれた。私の家なのに、となまえは思いながら家に帰って彼がいることに安心感を覚えている自分がいる、とシャワーハンドルを捻った。

部活が終わったあとなまえに連絡が付かなくて、何度もメッセージを送っても既読にならなくて、研磨は不安を感じて彼女の家にやってきた。以前渡された合鍵で恐る恐る家に入ると、その中は暗くガランとしている。部屋にいるのだろうか、と靴を脱ごうとすると見慣れた彼女のローファーが置いてある。やはりこの暗い家にいるのだろうか、と思ってそっと廊下を通って部屋を開けたが、やはりそこに彼女の姿はなかった。
代わりにベッドの上にはTシャツが散らかっており、研磨はその1枚を手に取った。見慣れた英語は彼女が気に入っていたバンドの名前だ。時折部屋着として研磨にも提供されるそれが何故散らかっているのかは謎だが、なまえが家にいないことは事実だった。

不安が苛つきに変わるのを感じ、研磨はそのTシャツを適当に畳んで端に寄せ、彼女のベッドに潜り込んだ。なまえの匂いに包まれて研磨はポケットから携帯を取り出し、再びメッセージを見たが変わらず既読にはなっておらずため息を吐いて目を閉じた。
暫く眠っていたようで目を覚ますと未だに部屋は真っ暗で、時刻は夜の23時。そろそろ連絡が来ているだろうかと思ったが、残念ながら来ていない。痺れを切らして何通もメッセージを送る。自分が誰かを束縛するなど想像もしなかったが、相手がなまえであれば話は別だ。恋人が心配で何度も連絡をする人の気持ちが少し分かった気がする、と研磨が電話をすると、その電話は驚く程すんなり繋がった。
そして、現在24時を半分ほど過ぎたところだ。

風呂に投げ込んだ彼女が残した小さいバッグをリビングへと運んでソファに置くと、コテンと倒れたそれからCDが顔を覗かせる。さっきも見たTシャツのバンドのものだ、と研磨はそれを持ち上げた。開封はされていない。リリース日は今年の秋で、最新のものだと思われる。そこで初めてライブに行っていたのかと研磨は察した。煙草臭かったのもそれを思えば頷ける、とそのCDをそっと鞄にしまう。

風呂場から髪をタオルで拭きながら出てきたなまえへソファに座るよう促すと、彼女は何も言わずに研磨の隣に座った。

「研磨、」
「謝ってほしいわけじゃない」
「え…」
「心配したんだよ。なんで連絡しないの。メッセージも読まないし」

ごめん、となまえはやはり謝罪を口にした。ライブを見ている最中に返せと言っているわけじゃない。ワンマンライブだ、そんなに遅くまでやらないことを知っているし、顔見知りのバンドやライブハウスなら彼女の年齢を知っているし尚更だ。
終わったあとに一言でも言ってくれれば違ったのに、と研磨は思いながらなまえを見つめた。
研磨がとても珍しく怒っている、となまえは彼の口調で察していた。そしてそれは自分が怒らせたのだということも明らかで、とはいえただ謝るだけで彼が納得するとも思えず、なまえは頭を垂れた。

「なまえ、おれが怒ってる理由、わかる?」
「…分かり、ます」

家の扉を開けて彼がいることへの驚きは然ることながら、大好きな人が家で自分を待っていてくれて、こうして電気が付いていて、会話が出来ることがなまえにとっては特別で、幸せと気まずさの狭間の気持ちだった。

「じゃあ、あとは自分で考えて」
「え?ちょっと、研磨…」
「おれは寝るから。おやすみ」
「待って、待って研磨、私…!」

立ち上がって寝室に行こうとする研磨の腕を引っ張って、それでも立ち止まらない彼の腰に腕を回して無理矢理引き留めると、彼はやっと足を止めた。
正直何を言うべきかは検討もつかなかった。怒っている理由は分かるが、どうすれば彼の機嫌が直るのかが分からない。返事をしなかったこと、帰りが遅くなったこと、謝ることすらあれど一体何が正解なのか。

「何?まだあるの?てか髪冷たいし離れて」
「ごめん、後で乾かすから…」
「…なまえはさ、全然分かってない。おれは…いや、いいや。やっぱり何でもない」

先程とは違う少し悲しげな声色になまえは顔を上げたが、後ろからでは彼の表情は勿論見えず、顔色を伺うことは叶わない。全然分かってないというその言葉の示す真意が何なのか、なまえは研磨の着ている服が濡れないように抱き締めたまま考えた。

「研磨」
「時間稼ぎだって分かってるよ」
「そんなつもりじゃ…!」
「あのさ、なまえ。隠し事してるよね。まだおれだと頼りない?」
「違っ…そんなことない。私が…私が勝手に不安になって、研磨に嫌われたくなくて…」

じゃあ全部話してよ!と研磨はなまえの腕を振り切って彼女の方に向いた。彼がこんなに必死になる姿を初めて見たかもしれない、となまえは思った。いつだって冷静で物静かな彼が、こんなに取り乱している姿を。彼をそうさせてしまったという罪悪感に苛まれ、なまえはその場に崩れ落ちた。ごめん研磨とうわ言のように口から言葉が出る。研磨はおれの方こそごめんと静かに呟いて項垂れる彼女の肩を抱き締めた。

「喧嘩したかったわけじゃない」
「うん、ごめん」
「だからもう、謝んないで」
「研磨…」

しっとりと濡れた髪を撫でて、とりあえず髪乾かそうと研磨はドライヤーを取りに洗面所へ向かおうとしたが、離れた彼を追いかけてなまえも付いてくる。言い過ぎたかもしれない、と彼は目当てのものを手に取って温風を出し、彼女の髪へと当てる。なまえはされるがままに彼に身を委ねていた。もはや先程の煙草臭さはなくいつものシャンプーの香りが研磨の鼻腔を擽る。彼女のこの匂いが好きだ、と彼は素直に感じた。

「ドライヤー、終わったよ」
「うん…ありがとう」
「なまえ、おれもう怒ってないから…。ふぁ…とりあえず寝ようよ」

なまえが何かの自責の念にかられているのは明らかだったが既に時刻は深夜1時半を回っており、研磨は彼女の手をとって寝室へと向かった。風呂に入ったはずなのに冷たい手で、研磨はその手をきゅっと握った。
掛け布団を捲って彼女に入るよう促すと、すんなりと彼女はベッドへと腰掛けてその中へ入っていくので、研磨も同じようにして布団を掛け直す。一言も発しないなまえを体ごと抱き締めて、研磨は彼女の額に口付けを落とした。

「おやすみ、なまえ」
「研磨、私…」
「明日でいいよ」
「…うん……おやすみ」

愛されているのだろう、となまえは思った。だからこそ彼を傷付けたことが苦しくて辛い。彼女は抱き締められた腕を彼の背に回した。研磨が少しでも良い夢を見られるように。



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