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>暫く眠ることができず、なまえは寝息を立てる研磨の顔を見つめていた。何も言わずにライブに行っていたことを咎めたのではなく、何かあったのではと危惧して送ってくれたメッセージを無下にしていたことが彼を傷付けたのだとなまえは分かっていた。じゃあ全部話してよ、と声を荒らげた研磨の真意。おそらく一言でも話していれば違ったはずだ。タクシーの中で読んだメッセージは彼女を心配する内容ばかりで、一瞬でも見て見ぬふりをしてしまったことに対して後悔の念に苛まれていた。
彼はもう怒ってないと言ったが、単純に面倒臭いからという訳ではなさそうで、この寝息から察するに学校と部活で疲れて今日は眠くなったから話は明日聞くということなのだろう、となまえは彼の頬に手を伸ばした。
ボーカルに告白されて驚きはしたものの研磨と別れるなど想像も出来ない、となまえは彼の髪をさらりと払った。部活が終わって家に帰って風呂に入って、メッセージが返って来ないのを心配して家まで来て待っていてくれた彼以外と交際するなど考えることなんてない、となまえは薄く開いた唇にそっと口付けをして目を閉じた。
「なまえ、起きて」
「ん…けん…ま?」
「おれ今日朝練だから…」
「あ…ごめん、私…目覚まし…」
大丈夫、まだ時間あるからと既にジャージに着替えている研磨はなまえを起こしてから部屋を出ていった。布団を捲って体を起こすとキラリと光る金髪が落ちていて、ほんのり彼のいた形跡が残っていることに彼女は目を細めた。ベッドから出て部屋着のままリビングへ向かうと、カラカラと心地よい音がしており、彼が棚からシリアルを出してガラスボウルに入れていた。なまえはコーヒーをセットしてから洗面所へ向かって顔を洗った。
「で、昨日は」
「あ…うん。ライブ行って、打ち上げ誘われたから少しだけ出てて…」
「それで?」
「…研磨から連絡来てたの知ってたから、途中で帰ろうとして」
なまえはコーヒーを口にして一息ついていると、研磨は相槌を打ちながらパリパリとシリアルを食べ初めていた。怒っている訳ではなく、ただ続きを催促しているだけのようだった。昨夜の時点でなまえはボーカルから告白されたことを言う必要はないと思っていたが、全てを見透かすような彼の瞳の前で秘密にすることは出来ず、事実を話した。研磨は眉ひとつ動かさず彼女の話を聞いていた。
「それで?」
「彼氏がいるの分かったみたいで、諦めるって…」
「はぁ…。なまえはその人が本当に諦めると思ってる?」
「ほ、本当に良い人なんだよ…?」
「じゃあおれと別れてその人と付き合う?」
そんな訳ないでしょ!となまえが立ち上がって否定すると研磨は落ち着いてよと彼女をちらりと見ながらコーヒーを啜った。熱、と言いながらマグカップを持って息を吹きかける様子をなまえは見つめながら椅子へと座り直した。
シリアルはすっかり牛乳を吸ってしなしなになっている。スプーンで掬って口へ運ぶと、ほんのりとした優しい甘さが彼女の心を少し落ち着かせる。
「ごめん、でも別れるなんて言わないで」
「おれはそんな気ないし、聞いただけ」
「…うん、ごめん」
「なまえの、そうやってすぐ謝る癖」
研磨の言葉になまえは口を噤んだ。彼の母にも言われたのだ、謝るなと。癖だと言われて気がついてまた謝りそうになる自分が嫌になって唇を噛むと、研磨は彼女の頬に指を伸ばして、触れた。なまえが顔を上げると、彼は片手をマグカップへかけたまま彼女を見つめていた。
しばし見つめ合い、研磨はふっと笑って手を離したと思ったらマグカップへ口をつけた。
「気にしすぎ」
「っ…」
「告白してきた人のことは気になるけど、なまえがその気ないなら、おれはそれでいい」
「うん…」
「あ、そろそろ出ないと」
研磨が立ち上がってボウルとマグカップをシンクに片付けていると、なまえも急いでシリアルを食べて温くなったコーヒーを流し込んで同じようにシンクへと置いて、支度をしている研磨の様子を見ながらスポンジに洗剤をつける。
2つのボウルとマグカップ。2人で暮らしたら全てが2つずつになるのだろう、となまえはぼんやり考えた。
「なまえ」
「ん?」
「おれ、行くね」
「あ、ちょっと待って…」
途中で手を洗ってタオルで拭いて、バタバタと玄関へ向かう。研磨は既にジャージの上にコートを羽織り、マフラーをかけて出掛ける準備は万端だ。行ってしまう、と声をかけて振り向かせるとなまえは彼に正面から抱き着いた。研磨はそんな彼女の背中に手を回してきゅっと抱き締めたあとにぽんぽんと優しく叩いた。
大好きな匂いだ、となまえは彼の胸元に鼻を押し付けて息を吸う。寒い玄関で何をしているのだと思いながら彼女はその手を離す気はなかった。
「ほら、なまえ…遅刻するから」
「研磨…」
「顔上げて」
「え?」
彼女を引き離そうとしていた研磨から言われてなまえが素直に顔を上げると、その唇を塞がれる。昨夜は一度もなかった唇へのキスに彼女は目を閉じて受け入れた。後頭部に手を回されて深く口付けられ、なまえは酸素を求めて息吸おうと口を開くとその中へぬるりと舌を差し込まれ、彼女は頭がふわりとするのを感じた。ちゅ、と音を立てて離れた唇には銀色の糸が名残惜しそうに伸びてぷつりと切れる。
酸素不足でぼんやりした表情のなまえに再度軽くキスをして研磨は靴を履いた。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい、研磨」
「部活終わったら連絡する」
「うん」
笑顔で見送るなまえに手を振って研磨は扉を開けた。いつもと同じ服、同じ荷物のはずなのに、いつもより時間がギリギリだというのに、見渡す景色も全然違う色のようだ、と思いながら駅へと向かった。
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