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リュックの中身はいつもと同じ重さのはずなのに、何だか違う。昨夜と違うのはなまえの無事を確認したか否かという点だけだったが、それは彼にとって大きな意味を持った。誰かの存在がこんなに心の中に大きくあるなんて違和感があると思いつつ、彼女のことを考えるのも、彼女が自分の心の中に住んでいるのも、いつしか当たり前になっていた。
これがきっと“好き”ということなんだろう、と研磨は漠然と思った。朝の寒空が少しだけ綺麗に見えるのも、地面を踏む足の感覚がしっかりあるのも、彼女が自分の元に帰ってきてくれたからだ、と。

別れる気なんて更々ないというのに冷たい言葉を掛けすぎたかなと思いつつ、なまえには反省してもらいたかったし、自分がどれほど心配したか分かってほしかった。そして研磨は、昨夜振り回した彼女の友人のことを思い出して携帯を開く。
返信のないなまえの代わりに彼女の友人に連絡して居場所を尋ねたのだ。勿論彼女たちも知らないと言っていたが、あれから連絡を忘れていたと研磨はメッセージを打ち込み始めた。

〈なまえ、ちゃんと帰ってきたよ〉

あれこれと説明するのも弁解するのもおれの役目じゃない、と研磨は事実だけを打ち込んで送信した。何か言われたらなまえに直接聞いてと言うつもりだったし、これ以上自分の口から何かを言うのは避けたかったので研磨は必要以外の情報については黙っていた。

〈良かった〜!まさか朝帰り…じゃないよね?〉
〈うん、昨日の夜〉
〈2重の意味で良かった…!〉

本当だよねと思いながら研磨は携帯をポケットへしまった。寒い外でゲームしながら歩くと指が悴むので冬は嫌だったはずなのに、なまえが隣にいたらそんなに嫌じゃなくなった。彼女が居たとて気温は変わらないし、朝は眠いし布団から出たくない。それなのに少しだけ早起きしたいと思ってしまうのは、彼女の寝顔を見たいと目が覚めてしまうのは、“好き”という感情がそれほどまでに膨れ上がっているからなのだろう、と研磨は思った。

告白された、と言われて背筋が凍りつく感覚がした。自分の世界を変えた人が誰かの手に渡るかもしれないなんて、今更考えられなかった。じゃあおれと別れてその人と付き合う?なんて、離れたいなんて微塵も思っていないのになまえの気持ちを確認するようなことをして、いつから自分はこんな風に他人を想うようになったのだろう、と研磨は寒空を見上げて白い息を吐いた。

「よ、色男。無事でよかったな」
「その呼び方やめて」
「なまえと喧嘩したか?」
「別に…してない」

否、したのかもしれない。喧嘩という喧嘩ではないが、研磨は確かにあの時怒っていた。他の男と一緒にいて告白されて、無防備ななまえに。籠絡させようとした人物に対して苛々していたのは確かだが、隙だらけの彼女に対しても同じように感じていた。この感情をどういう言葉で表現すれば良いのかが研磨には分からなかった。

「研磨が色恋で悩むなんて想像もしなかったわ」
「うん。おれも」
「何もなかったのか?結局」
「うーん…あったような、なかったような」
「はぁ?」

朝練に向かう最中に出会った黒尾と、学校までの道を歩く。彼も勿論昨夜なまえの行方が掴めなかったことを知っていたし、知らないわけがないと思っていたので開口一番にそれを言われても研磨は驚かなかった。いつも通りゲームをしながら彼の話に相槌を打つはずが、黒尾は何があったんだとあれこれ質問するので研磨はちらりと彼を見上げてため息を吐いた。

「クロは…不安になったりしないの?」
「何が?彼女に?」
「うん」
「研磨、さらっと俺のことに話題すり替えただろ」

バレた、と思いながらも引き続きゲームに向いていると、黒尾はお前さぁと話を切り出した。なまえが初恋なんだろうし最初は何でも上手くいくわけないんだから、ゲームと同じように何度も挑戦したらいいんじゃねぇの。そう言う黒尾に研磨がハッとして手を止めると、手元の画面では敵に襲いかかられてゲームオーバーになった。

「初恋…」
「そうだろ?」
「うん…たぶん」

初恋は実らない、と何かで読んだことがある。だが人はそれぞれ違うのだから絶対実らないなんてことは有り得ない。それになまえと上手くいかなければ自分は永遠に1人な気がして、研磨はゲーム機をリュックにしまいながら彼女の居ない生活が考えられなくなっていることに気がついた。時間があればゲームをしてバレーをしてと何かに打ち込んできた日々に、彼女の存在がすっかり馴染んできている。暫く経てば会いたいし、声が聞きたい。

「ちゃんと話してきたのか?なまえとは」
「まあ…一応」
「一応って…お前も言葉足らずなところあるからなぁ。相手が俺らじゃないんだから、なまえに伝わるように話せよ?」
「そうだね」

玄関で別れた彼女の表情はどうだっただろう。笑顔を作って手を振ってはいたが、不安を拭いきれない様子だった気がする、と数十分前の記憶を呼び戻す。さっきのことなのに、もう早く会いたいと思っていることが不思議だ、と研磨は黒尾と並んで体育館へと入る。いずれにしてもこれから部活、そして学校なので直ぐに会うことは出来ないから、あと数時間は我慢しなければならない。
放課後の部活の後に会いたい、とメッセージを送って研磨は携帯をポケットへしまった。確かに黒尾の言う通り言葉足らずだったかもしれないし、なまえの不安を取り除くことが出来るのはきっと自分だけだ、と研磨は自覚していた。

「研磨さん、おざーっす!」
「おはよ」
「あれ?研磨さん何か今日元気なくないスか?なんかありました?」
「何でもない」

こんな時に限って鋭いリエーフを躱してコートとジャージを脱ぐ。いつも通りに振舞っているはずなのに後輩にそう見られていないなんて、彼女は一体どんな影響力を持っているのだろう、まるで魔術師のようだ、となまえがゲームキャラのコスチュームを着ているのを想像して、研磨は一人ほくそ笑んだ。



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