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>なまえと彼女の父と過ごす時間は思ったよりも心地よく、研磨はすっかりいつものようにくつろぎ始めていたが、なまえが風呂に入っている間だけはそうもいかずソワソワとソファに座っていた。彼女の父はグラスに酒を注いでいるのが、カランと氷の音がする。
研磨くんと呼びかけられて恐る恐る振り返ると、彼女の父は穏やかな顔でキッチンから居間へと向かってくるところだった。
「なまえのことを好きになってくれてありがとう」
「え…?」
「こんなにも楽しそうななまえは久々に見たんだよ。月に1度は会っているけど、いつも私と2人で会う時はあんなに無邪気に笑わないからね。間違いなく研磨くんのお陰だ」
「おれ…そんな特別なことはしてません」
ふふ、と笑って彼女の父はグラスを傾けた。娘に見せられた写真通りの男の子だと彼は思った。不器用で口下手で人見知りだが、芯が強くてしっかりなまえを愛していてくれている。バレーを見ていても感じていたことだが、孤爪研磨という人間は非常に洞察力に優れており、父娘のぎこちない会話にも少なからず違和感を覚えているのだろうと察していた。そしてそう感じた時に必ずなまえの表情を伺うところから見ても間違いない、と父はグラスを置いて研磨へ視線を移す。
「なまえのどこが好き?」
「うーん…素直じゃないところ…とか…?」
「ははは、なまえはそんなに捻くれているのか」
「あ…いや…なんて言うか…」
本音は隠すし素直じゃないのは事実だが、そんな彼女を愛しく思う気持ちがあるから此処に来たわけで、研磨は発言すべき言葉を間違えたかもしれない、と彼女の父へ何と返せば良いのか悩んだ。そんな彼の真意を汲んでか、父は一通り笑い飛ばした後にそうだねと同意し、思いを馳せるように透明な液体の入ったグラスを見つめた。
素直じゃないというか自分の意見を真っ直ぐに伝えないのは、過去に親のいざこざを目の当たりにしたからだという心疾しいものがあるからこそ、彼女の父はそれ以上を研磨に何も返せなかった。
「なまえは…優しいです。凄く…優しすぎるくらい…。あと、面倒見もいいし…」
「そう…か。うん、良かった。研磨くんがそう言ってくれて」
「おれたちのバレー部の、みんなにも色々してくれて」
「うん」
次は研磨が話す番で、なまえがどれだけ貢献してくれたか、サポートしてくれたかをぽつりぽつりと語った。彼女は恐らく話していないのだろうと思いながら、一つ一つを振り返っていく。リエーフには飴と鞭、猛虎には鞭多めで、研磨には飴が多め。まるで猛獣使いだと福永が言っていたのを思い出す。
父はそんな研磨を優しく見守っていた。派手な見た目とは裏腹な性格なのは聞いていたしバレーのプレースタイルを見ていれば分かったが、まさにその通りだ、と。
「研磨くん、なまえをよろしくね」
「え……」
「あ、ごめん。ちょっと電話してくるよ」
そう言って席を外す父と入れ替わりで戻ってきたなまえは、不思議そうな顔をして何があったのかと研磨に問う。何もないよといつも通り返せば丸く収まるかと思ったが、彼女は少しだけ寂しそうに扉の方を見つめてふぅんと小さく声を漏らすので、研磨は彼女の手にしていたタオルを奪い取って髪を拭きはじめた。
「何、急にどうしたの研磨…」
「別に、何となく」
「何となくって、違和感ありすぎ…父さんに何か言われた?」
「そういうわけじゃないけど」
けど、何?と聞いてくるなまえに、何となくって言ってるじゃんと少し苛ついた様子を見せる研磨に彼女は首を傾げながらもされるがままに彼にドライヤーを手渡した。髪を乾かしてくれるのも、彼の家ではよくある光景だが、いつ父が戻ってくるか分からない状況では緊張するものだとなまえは再度扉の向こうを見つめた。
研磨は彼女の父に言われた言葉を頭の中で反芻させていた。父親が娘の彼氏に軽々しく言えるようなものではないはずだ、とその重みを考える。付き合うこと自体をよろしくされたのかとも考えたが、頭の良い彼女の父がそんな紛らわしいことをするとは思えないというのが彼の結論であった。
「なまえ、研磨くん。ごめんね、少し出てきていいかな。遅くなるかもしれないから研磨くんはお風呂入ってね、私のことは気にせずに」
「え…こんな時間から?」
「こっちに来てると言ったら呼ばれてしまってね。少し顔を出してくるだけだよ」
「そう…行ってらっしゃい」
なまえが立ち上がって見送ろうとするので、研磨もそれに続いて玄関へと向かった。マフラーを巻いて手を振る父に対してぺこりと会釈をすると、その手に大きい袋が握られているのをちらりと確認した。なまえも気が付いているだろうと横目で見たが様子は分からず、2人は扉が閉まるまで玄関に留まっていた。ガチャンと閉まった扉の前で、ぽつりとなまえは口を開く。
「ちゃんと話してくれたらいいのに」
「なまえ、行こ。ここ寒い」
「うん…そうだね。ごめん、研磨」
「あ」
悪い癖出てるよ、と言う研磨に対しなまえは寂しそうに笑って彼の手を取りリビングへと戻った。暖房によって温められた部屋の空気がふわりと2人を包み、冷えた手足がじわじわと感覚を取り戻していく。研磨は彼女の手を引いてなまえをソファへと導き、自分もその隣へと腰掛けた。おそらく彼女は父が家を出た理由を何かしら知っており、それについて悩んでいるのだと察した。それを問うと力なくなまえが頷くので、研磨はその頭をそっと撫でた。
「おれはなまえの父さんのことはよく知らないけど、なまえのことを傷付けるような人じゃないでしょ」
「うん…それは…分かってる」
「何か心当たりがあるの?」
「心当たりっていうか…多分、今付き合ってる人がいるんだと思う」
予想外の言葉に研磨は思わずえ、と声を漏らした。両親ともに健在な彼にとって父親に彼女がいるというのがどういう感覚なのか分からないが、どうにもむず痒いのは変わらないだろう。だがなまえはそうではないらしい、というのが彼の印象だった。膝を抱えて顎を埋めるなまえの長い睫毛が彼女の大きな目を翳らせているのを見つめた。
「おれ、風呂入ってくる」
「あ、うん…」
「なまえ、風呂上がったら寝よ」
「え?まだこんな時間だよ?早くない?」
いいから、と研磨は言って風呂場へと向かった。ゲームしたい気持ちはもう少し我慢だ。なまえがバタバタと部屋着を出してきてくれているのがわかる。風呂から上がったら彼女に髪を乾かしてもらって、2人でベッドへ潜り込むんだ。なまえの滑らかな肌の質感を思い出して研磨はふぅと息を吐いた。夜更けまではまだ時間がある。
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