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>大丈夫、おれがいるから、と頭を撫でられる。この声の主はよく知っている。心の隙間に入り込んできた唯一の人物だ、と金髪で猫背な姿を思い浮かべる。切れ長の鋭いその目付きが細められる瞬間が好きだった。優しい感触も体温も匂いも間違いなく彼のもので、あまりの愛しさに涙が溢れるのを感じた。
「…なまえ、なまえ?」
「ん…」
「なまえ、どうしたの!?」
「…研磨…?」
体を揺さぶられて目を覚ますと、研磨が心配そうに見つめているので、なまえはどうしたのかと問うと、泣いてたからと彼女の瞳に溜まった涙を拭う。寝ぼけ眼を擦ると、確かに泣いているようだったが、見ていたものが悲しい夢だったとは思えずなまえは大丈夫だよと研磨に応えて微笑んだ。
時計は朝の6時を差している。随分と早起きだったが、昨夜が早かったことを思い出すと納得の時間だ。それならいいけど、と安心したようにふわぁと欠伸をする研磨を見つめてなまえは口元を緩ませた。再びベッドに潜り込もうとする研磨を引っ張り出して2人で居間へ向かうと、様子が変わっていることに気がつく。ティッシュ箱の場所もソファのクッションも、場所が変わっている。
「もしかして父さん帰ってきてる…?」
「うん、コップも置きっぱなしだし、そうかもね」
「何時に帰ってきたんだろう」
「おれも気が付かなかったし、明け方かな?」
2人は代わる代わる身支度を済ませ、ぴよんと立ち上がって直らない研磨の寝癖をなまえがドライヤーをかけていると、ガタゴトと父の部屋で音がし始めたのでそちらへ視線を向けたが、扉が開く様子はなかった。2人は一瞬顔を見合わせ、なまえはさらりとした感触の彼の髪を撫でながら視界の端に父の寝室を入れていたが、最後まで動くことはなく、何事も無かったかのように静けさを取り戻した。
「はい、できた。いつも寝癖着いた時どうしてるの?」
「えー…適当」
「適当って何?」
「水で濡らして放置」
本当に適当だ、となまえは笑いながらコーヒーメーカーの電源を付けてドライヤーを置くべく洗面所へと向かう。その間も父の寝室から物音が聞こえることはなく、寝相によって何か物が落ちたのだろうか、と散らかっている部屋を思い浮かべた。汚いから触らなくていいと言われているが、なまえはよく片付けをしに立ち入っている。とにかく本が多い印象で、本棚から机の上まで積み上げられている。留守にしている時もだ。
ドライヤーをいつもの場所へと戻し、居間へ戻ると研磨が2人分のマグカップを出し終わってゲームを始めていた。
「あ、カップありがとう」
「うん」
「あのさ、研磨って…髪ずっと長いの?」
「何、突然」
ゲーム画面から顔を上げることなく研磨は返答を求めた。耳にかけられた前髪が彼の瞳を隠し、表情を読み取ることは出来ない。その代わりに、昔も今とそんなに変わらないよという言葉が返ってくる。特に何が聞きたかった訳では無い。ただ単に、研磨のことを知りたいというだけだったなまえはそっかと返事をすると、コーヒーをカップへと注ぐと、ふわりと薫る香ばしい香りが鼻腔を擽る。
「おれさ、普段はあんまりコーヒー飲まないんだけど」
「うん」
「なまえが淹れてくれるのは、好き」
ハッとなまえが顔を上げる番だった。研磨と目が合う。零すよ、と言われて慌てて手元へと視線を戻す。注意力散漫だ、と思っていると彼もゲームに戻ったようで、それ以上の言葉は出てこなかった。一体何だったのだろう。暫く付き合っているにも関わらず、まるで初恋の気分のようだとなまえが悶々と考えていると再び父の寝室から物音がして、2人は再び手を止めてそちらへと目を向けた。彼女はポットを置いて寝室の扉へと向かう。
「なんか…雪崩が起きてる予感」
「え…なまえの父さんの部屋、そんなにひどいの?」
「分かんないけど、本が多いから」
「開ける?」
「どうしよう埋まってたら」
流石にそれは無いでしょと言いながら研磨も携帯を置いて彼女の隣に立って耳を澄ませたが、何も聞こえる様子はない。顔を見合わせてそっと扉を押し開けると、扉が何かで遮られて動きが鈍くなるのが分かりなまえは手を離したが研磨はそのまま扉を押した。
ずずっと何かを引き摺る音がするものの、扉はそのまま開いて部屋を顕にした。カーテンの隙間から朝日が差し込んで明らかになった雑然とした部屋に研磨は驚いたようだったが、なまえにとってはいつもの光景だった。足元に落ちたのは本だ。扉の裏で引き摺ったのは恐らく鞄。この辺りまでは変わらないが、心做しか物が増えているような気がすると彼女は足元に広がる本の残骸を見て感じた。
「んぐ、あ〜…なまえ…?」
「あ、ごめん。起こした?」
「んや…色々落ちてたのは、知ってる…」
「朝ご飯は?まだ食べない?」
起きる…起きるよ…と寝言のように呟く父に、絶対起きないでしょと返事をしてなまえは扉を閉めた。研磨は心の中で彼女に同意を唱えると、2人はリビングへと戻ってすっかり温くなってしまったコーヒーを啜った。なまえは父の部屋に何の違和感を覚えたのか原因が分からず釈然としなかったが、落ちていた雑誌は見覚えがなかった気がする、と大きく文字が書かれたビジネス雑誌の表紙を思い浮かべていた。
「なまえ?」
「ん?」
「心ここに在らずだったから」
「え、何急に。そんなことないよ」
ふうん、と言いながら研磨はマグカップに口を付ける。本音を言わないのは彼女も同じで、何かを隠そうとしていることくらいは容易に分かるし、何故そんな分かりやすい嘘をつくのだろう、と研磨は考えた。まだ確信が無いから、少し不安に思っているだけ、と言い訳になる理由は様々考えられるが、そこも父親譲りなのだろうと彼は推察する。
何年も染み付いてきた言動や考え方はそう簡単には変わらない。それは彼自身が分かっていることで、彼とて今から社交的になれ、と言われてもそう簡単に出来ることではないと思っていた。黒尾の言葉で意を決して思ったことを伝えたことにより猛虎との喧嘩が巻き起こったが、あれが正解だったのかは今でもわからない。黒尾なら、福永なら、別の言葉を選んだだろうと思う。猛虎が相手ならば発言を間違えていたとしても彼は正直に感情を伝えてくれるので、その点心配はなかった。
だが、彼女は違う。研磨はなまえに手を伸ばした。
「おれは喋るの苦手だし、上手くないけど」
「うん」
「なまえのこと、ちゃんと見てるから」
繋がれた手の温もりに研磨は目を細めた。言いたくなければ言わなくていいし、察することが出来ればそれの方が早いとさえ思う。でも、それでなまえの心が閉ざされてしまうのは嫌だ。
ガチャっと扉が開く音がした瞬間に研磨が素早く腕を引っ込めるので、なまえは思わず笑みを零した。
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