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大欠伸をしながら出てきた彼女の父は2人に挨拶をした後、顔を洗ってなまえの淹れたコーヒーを啜りながらパンを齧っていた。テレビからは今日の天気や昨日のニュースが流れている。外も晴れて天気が良く、普段と何も変わらないいつもの朝だった。
なまえはいつ父に昨夜のことを聞こうか悩んでいた。朝から聞くべきなのだろうか、だがそれ昼も同じだ。また出かけると言われかねない上、この父ははぐらかすのが上手い。コーヒーの心地よい苦味を味わいながらどうすべきかと熟考していると、思わぬ人物が口を開いた。

「本…すごいですね」
「はは、いやあ…あんなつもりじゃなかったんだけどね。研磨くんにも見られてしまったし、そろそろ整理しないと」
「この家から出ていく…とか?」
「ん?なまえ、何言ってるんだ?」

父はぴたりと手を止めて彼女を見た。微妙な空気の中、テレビの中の笑い声が無機質に感じる。研磨は2人をチラチラと見ながら様子を窺った。緊張感というより、ぎこちない雰囲気が3人を包む。なまえの父はカップを置いて、あ〜これじゃ人のことを言えないなと言いながら髪をぐしゃっと乱し始めた。何事かと思って続きを待っていると、彼女の父は真面目な表情でなまえの名を呼んだ。

「本当は今夜3人でディナーを予約してたから、そこで言おうと思ったんだけど…実はね」
「うん」

なまえは体を固くしているのが分かった。3人でディナーとは、と研磨は頭の中に疑問符が浮かんだが一旦それは置いておいて、膝の上で握られる彼女の拳に手を添えた。震えてはいないが、その拳は固く握られており、研磨は横目でなまえを見ながら目の前に座る彼女の父のカップの湯気がふわりと揺れるのを視界に入れた。

「起業するんだ、こっちで」
「…え?」
「なまえには苦労もかけたし、母さんもいなくて寂しい思いをさせた。すまなかった。謝っても時間は返ってこないからと思って早くこっちに戻って来れるように色々やってたんだが…って、ちょ、なまえ…!」

ボロボロと瞳から涙を零すなまえに驚いて父は慌てふためいていた。研磨はティッシュを渡して彼女の手を握った。先程より力が抜けたような気がする、と空いた手でコーヒーを啜る。もうすっかり冷たくなっているが、気に留めることはなかった。
“少しは協調する努力しなさいよ?同級生なんてとくにこれから長い付き合いなんだからさ” いつか言われた黒尾の言葉が思い浮かぶ。2人は頭もいい上に自分とは異なり愛想もよく社交的にも関わらず、2年どころかもっと長い間すれ違い続けてきた。有能な人間にこんなこともあるのだな、と研磨は不思議に感じて父娘を見つめた。

「まさかなまえが泣くとは…驚いたな」
「泣いたこと、あんまりないんですか?」
「私には特に見せなかったからね、そういう姿を。なまえは常に優秀な娘なんだよ。今も昔も、ずっとね」

顔を洗ってくると言って洗面所に行ったなまえ。取り残された研磨は彼女の父の言葉を聞いて、彼女の心情を考えていた。不安に思っていたことは全く的中せず、予想外に彼女のことを思って行動されていたものだった。転勤したのも海外出張も、全ては起業するための経験値にするべく希望したものだったのかもしれないが、それを肝心ななまえに説明せず何を言っているのか、とも思える。研磨は彼女が戻ってくるまで話を続けるべきか迷った。

「恥ずかしながら、私はなまえの親でありながら、親らしいことはあまり出来なかった。だからこんなに関係が拗れてしまったんだけれど、君が来てくれたおかげで、なまえに歩み寄るきっかけが出来た」
「おれが…?」
「うん。私に紹介したいと言ってくるなんて、研磨くんにはよっぽどの信頼と期待があるはずだよ。プレッシャーに感じたら申し訳ないけれど、少なくとも私はそう思ったよ」
「それは別に…。でもおれは本当に何もしてなくて…」

研磨が謙遜してそう言ったのではないことを父は感じ取っていたが、彼の本心がなまえを導いてきたのだとしたら、それは紛れもなく本物だと納得した。彼の静かな言葉一つひとつがなまえの心を動かし、豊かにしていったのだろうと。ありがとうと父は心の中で彼へと感謝を告げた時、居間の扉が開いて彼女が戻ってきたことを知らせた。
父娘は顔を見合わせて何とも形容し難い表情を見せたが、それは今までで一番素直なもので研磨は思わず頬を緩ませた。

「研磨のおかげだよ」
「それ、なまえの父さんにも言われた」
「えっ?でも、その通りだからね。受け入れて、研磨」
「そんな大層なこと言わないでよ…」

父が夜に出かけた理由は共に会社を立ち上げる友人が店で潰れて帰れないという電話によるものだった。忙しく各地を飛び回っていたら妻と娘に逃げられて自暴自棄になっているということで急いで迎えに行ったのだが、結局実家に出かけていただけだと連絡が入ったので送って帰ってきたのだという。その話になまえは呆れ、研磨は盛大に謝罪をする父を見て笑った。

「ていうか、今夜どこ行くの…?」
「たまに行く店なんだけど、そんなに堅い店じゃないし昨日の服で大丈夫だよ」
「う…」
「あからさまに嫌な顔して…」

外食なんて滅多にしない研磨にとって寒い冬にお洒落な店に食事しに行くのは敷居が高く、さらに相手は恋人とその父親。2人のわだかまりが解けたとはいえ、そもそもが居た堪れない状況に研磨は行くのを最後まで渋っていたが、結局なまえに連れられて店へと向かうことになった。
なまえの言う通りさほど堅い店ではなくテーブルマナー等もなかったのだが、慣れない服装と場所に終始そわそわと落ち着きなく、そんな研磨を2人はにこやかに見守っていた。

「はぁ…つかれた…」
「ありがとね、研磨」
「なまえは全然平気なんだね…強靭すぎ…」
「ご飯食べに行ってなんでそんなにゲッソリしてるのか謎なんだけど…」

2人がいつも通りの穏やかな時間を過ごしているのを邪魔しないよう、父は隣の部屋で晩酌を始めようとしていた。年の瀬とはいえ一日の時間は普段と変わることはない。氷の入ったグラスにウィスキーを注ぐと、それはカランと軽やかに音を立てる。
娘の笑顔と彼女が連れてきた恋人のやり取りを思い浮かべるだけで心が温かくなるようだ、と父はせり上がってきた感情を流し込むようにグラスを傾けた。夜はまだ長い。



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