ぽかぽか陽気とふわふわ雲
>ふわふわの雲のベッドに包まれ、空は青く澄み渡り、お日様のぽかぽか陽気で温かくて、此処はなんて心地よい場所だろう。ずっとここに居たい、もう何処にも行きたくない。あ、でも……。なまえは心に引っ掛かりを感じる。何か忘れている気がする。そうだ、兄さん。兄さんも此処にきたら大変なこと全部忘れられるんじゃないか、それと……。一人の顔が思い浮かんだところで、ハッと彼女は目を覚まし、今の状況に絶句した。
包まれていたのは彼の腕で、温かかったのは彼の体温。自分の腕は彼の腰あたりに回されており、ぴくりと腕が硬直するのが分かる。恥ずかしい、となまえは直感で思った。
そもそもどうしてこんなことになったのかというと、帰宅途中に大雨に降られて風邪を引きそうになったからだ。いくら戦闘中はトリオン体だからとはいえ本体の具合が悪くて戦えるわけもなく、その場からほど近いなまえの家で雨宿り且つ濡れた服を干すために彼を招き入れたのだった。
彼女の兄ならば、知らぬ男の靴が玄関で見つければ部屋を見に来るに違いないが、それが無いということはまだ帰っていないのか、と時計を確認しようと顔を上げるもホールドされた体は簡単に動かない。はぁ、となまえはちらりとカーテンの向こうを見るも日が差している雰囲気はない。流石に朝にはなっていないのかと安堵すると同時に、もし兄が帰ってきたら地獄絵図だとサッと血の気が引く。しかも服を乾かすために今は兄の服を無断で貸している。
「ね、ちょっと起きて」
「んー…」
「どうせ起きてるんでしょ、菊地原」
「みょうじがモゾモゾするからじゃん…」
2人がこういう関係になったのはつい最近のことで、風間や歌川はもちろん周囲の人間全員に秘密にしている。それは彼が望み、なまえが受け入れた形だ。何故隠すのかと聞くと、好奇な目で見られるのが嫌だ、アレコレ詮索されるのが嫌だ、何かあった時になんでもこの関係のせいにされそうなのが嫌だ、とマイナスな理由がポンポン出てきてなまえは苦笑したのを思い出す。だが、そのマイナス面を承知した上で菊地原は彼女と付き合うことを選んだことは紛れもない事実。
ふわぁと欠伸をする菊地原を見ながらなまえは彼の腕の中から逃れようと体勢を変えようとしていた。
「どこ行くつもり?」
「兄さんが帰ってきたら面倒だし…そろそろあんたも帰った方がいいんじゃない?」
「ぼくはまだいい」
「何それ!?バレるの嫌だって言ったのそっちでしょ!?」
そうだけど今は無理と言いながら菊地原はなまえの体をぎゅっと抱き締める。日常的にこんなことをするタイプではないので、何かあったのかと思いを巡らせるが、これといって心当たりはない。防衛任務で問題があった話も聞いていないし、風間と歌川の様子もいつも通りだった。仕方なくなまえは菊地原の背中を撫で、1つの事柄に気がついてパッと体を離し、彼と視線を合わせる。
「ねえ、もしかして雨降るって分かってたんじゃないの?」
「なんでそう思うの?」
「だって、遠くで雨粒が落ちる音とか聞こえそう」
「そんなの無理に決まってるじゃん。そこまで聞こえてたら日常生活ままならないでしょ。それに分かってたらもう少し本部出るの遅らせたし、傘だって持ってきてたよ。まあ、雷が鳴ってるくらいなら分かるけど」
ほら!と得意げななまえの頬を摘んで、そんなつまんないこと考えるならもう少しマシなこと言ってといつもの毒舌を振りかけるも、実際雷雨が近くまで迫っている時はその音で実感することが出来るので、あながち雨が降ることを感知できるというのは嘘ではない。今回はしとしと降り始めた雨だったので流石の彼も専門外だったが。
事故とはいえなまえの家に来られたのはいい機会だったと菊地原は思っていた。クラスは違えど学校も同じで本部で顔を合わせることもあり、中々2人きりになることが出来ない。まして更に同じ隊である歌川とわざわざ別れるなど違和感この上なく、菊地原はその状況にある程度ヤキモキしていた。折角付き合い始めたというのに何も出来ないなんて、そんなつまらないことがあるか、と。
それに本部で聞いてしまったのだ、彼女が“菊地原とそういう関係になるなんて有り得ない、そんな目で見れない”と話しているのを。
「今日くらいは大目に見てくれない?」
「だから!兄さんが帰ってきたら菊地原が困るでしょ!」
「ぼく、足音で分かるんだけど」
「よくない!家に男子がいるだけで怪しまれるんだから!」
「それこそ雨宿りって言えばいいじゃん。その辺は上手く立ち回るから、もう少しこのままでいようよ」
珍しく強硬な姿勢を崩さない菊地原に、なまえは違和感を覚えながらも従うことにした。この状況を見た兄の形相を、放心状態で失神した姿を想像しただけでため息が止まらなくなる。が、それよりも菊地原の行動が気になって仕方ない。こんな風に甘える彼は初めてで、付き合って数回キスをしたが、その時と雰囲気がまるで違う。
「何かあったの?エネドラになんか言われた?」
「なんでエネドラが出てくるんだよ……何にもない、ただみょうじに触っていたいってだけ」
「普段はそんなこと言わないくせに」
「はぁ?普段からこんなこと言ってたら変態でしょ。何言ってんの」
菊地原とこんな関係になるのは全く想像していなかった。今でも友達の部分が多いし、ボーダー本部には見てくれも実力も格好いい先輩が山ほど所属している。敢えて彼を選ぶのは、自分も彼のことを好きだと思っているからだろうとなまえは感じていた。 彼女も今まで何人か付き合ってきたものの長続きした記憶はなく、別れ際になって相手のことをさほど好きではなかったのだと実感させられる。見た目とは裏腹にそんな淡白な付き合いしかしてこなかったのだ。しかし彼は少し違う。なまえを大っぴらに求めることもせず、対外的には何も無い風を装っているのに、こうして突然触れたいと言ってくる。
「ムッツリっぽいもんなぁ菊地原は」
「あのさぁ…」
「ちょ、変なとこ触んないでバカ!」
「先に仕掛けてきたのはみょうじだからね」
彼の手がなまえの頬に触れると、どきんと彼女の胸が高鳴る。変なの、ともう一人の自分が肩を竦めるのがわかったがどうしようも無いのだ。この気持ちを一言で表せばそれは、間違いなく恋。
「何その顔。キスして欲しかった?」
「ち、違うし!そんなわけ…っん!」
必死に弁明しようとしたが頭の後ろに回された手によって逃げる隙はなく、なまえは噛みつかれるようなキスに目を閉じた。能ある鷹は爪を隠す、という言葉が菊地原には似合うと感じる。こんな情熱的なキスをするような人間には到底見えない。
「も、ほんと、あんたって…!」
「なまえが悪いんだよ。ぼくのこと恋愛対象としては見れないとか言うのにそんな物欲しそうな顔するから」
「あ〜……あれはだって、そう言うしか…。出水さん鋭いし、誘導尋問に持っていかれそうで……ってかなんで聞いてたの!?」
「聞こうなんて思ってないよ。ただ聞こえただけ。それにしても酷い言い方だったよね」
結構傷ついたんだけど、と言う菊地原に言葉を詰まらせながらなまえはもじもじとあれこれ言い訳を幾つか並べ始めたがそれは余計に彼の機嫌を損ねるもので、あからさまに不愉快な表情を浮かべて彼女の口を塞いだ。
温かくて柔らかくて少し乱暴なそれは、なまえの心を支配した。まるで心の中にふわふわと雲が湧き上がるような、そんな感覚。ちゅ、と唇を解放されるとなまえはがばりと菊地原に抱き着いた。
「好きに決まってんじゃん、バカ士郎」
「……あー、そういうこと言う…」
「何か不満ですか」
「いや?柄でもなくなまえが可愛いなと思って」
一言多い!と憤慨するなまえに笑いながら菊地原は耳を澄ませた。大丈夫、まだ彼女の兄は帰って来ない。
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