悪魔の囁きは甘い愛の言葉


※社会人/同棲設定


寝室へ向かうと布団は先に膨らんでおり、彼女の存在を知らせる。煌々と着いている電気を暗くしてリモコンを枕元へ置いて同じように布団へと潜り込むと、そこは彼女の体温でほかほかと温かい。眠っているのだろうかとなまえの表情を窺おうとしたがそれは彼女の寝返りによって阻止された。背中を向けていたのがこちらに顔が見えるようになったのだが、彼女の顔があるのは研磨の胸あたりで、あまりに近すぎて何も見えない。だが眠っているのは確かで、研磨はおやすみ、と一言残してなまえの背中へ腕を回すと彼女は小さく声を漏らして彼に擦り寄った。

研磨はなまえと一緒に住むようになって変わったと感じていた。今まで誰かのために先回りして何かをする、というのを家でしたことは無かったのだが、彼女が仕事から帰って来る前に掃除をしたり洗濯物を取り込んだりと家事をすすんでやるようになった。それは少しでもなまえと過ごす時間を増やすためであり、研磨は自分のためにやっていると思っていたのだが、黒尾曰く違うらしい。

「そりゃあれだ、旦那のつとめ…みたいな?」
「はぁ?何言ってんの、まだ結婚してないし」
「そこじゃねえよ、研磨はお前自身のためにやってるかもしれないが、なまえからすると自分のために面倒なことをやってくれてる!と思うんじゃないか?ていう話……ていうか研磨お前…結婚願望あるのか…!?まさか第1号が研磨に…!?マジかよ……」
「長い、うるさい、ウザイ」

黒尾に言われて嫌でも意識するようになった“結婚”の二文字。正直何が変わるのかは分からない。彼女の苗字が孤爪になること以外に思いつかず、研磨は欠伸をした。今だって十分すぎるくらい日々幸せだし、結婚したところでこれ以上になるとは思えない。結婚式というものを想像するだけで気が進まないのもある。無論、なまえのウェディングドレス姿が見たくないわけではないが、音駒バレー部の連中に見せびらかしたくはないし自分があのバージンロードを歩くと思うとやりたくないという気持ちが大きくなる。

だがなまえは結婚したいと思っているかもしれない、と研磨は彼女の髪を撫でた。入籍するのは簡単だが、結婚式となると話は別だ、と研磨は目を閉じた。

「研磨、起きて…!出れない……」
「ん…なまえ……?」
「遅刻するんだけど、腕……!」
「なまえ…おれ、まだ眠い……」

抱き枕変わりに彼女を抱きしめようとすると、寝ちゃダメ!と抵抗して腕から抜け出そうとするので、研磨はそんななまえの行動に苛ついて嫌だ、と更に腕の力を強めて足でホールドして逃げられないようにする。本当に遅刻する前には離すつもりだったし、彼女の会社に迷惑をかけるつもりは無い。とはいえクビになってもなまえを養うことは十分できるし、もし仮に働きたいと言うのならBouncing Ballで雇えばいいというのが研磨の本音であった。

「研磨っ!」
「まだ時間平気でしょ」
「起きてるし…!もう、離してよ」
「嫌だって言ったら?」

悪戯に光る眼になまえは眉をひそめた。彼女の経験上、この顔は良からぬことを企んでいる可能性が高い。ましてや朝にこんな風に離れたくないと言われるということは、と思考を巡らせる。もしや、となまえが彼の表情を再度確認した瞬間、いとも簡単に腕を離されて彼女は拍子抜けしてぱちくりと瞬きをした。

「何、離してあげたのに行かないの?」
「いや……行くけど」
「おれも起きようかな」

疑いの目を向けられているのは重々承知しながら、研磨はうーんと伸びをして体を起こした。なまえもそそくさと布団を抜けて洗面所へ向かっている。本当はキスしようかと思ったんだけど、と研磨は彼女のいた場所へと目を向ける。それだけじゃ収まらない気がしたから何もしないことにしたんだよ、と心の中で呟く。一緒に住んでいればいつでも出来るし、今性急に求めるのは間が悪いことは研磨が一番よくわかっていた。

布団を畳んで顔を洗って歯磨きをして着替えて居間へ行くと彼女が朝ご飯を作っていた。結婚してもきっとこの景色は変わらない気がする、と研磨は何となく思った。

「研磨は今日大会だよね?」
「うん。オンラインでだけど」
「最近ずっとやってたやつでしょ?」
「うん。こないだ手に入れた武器があんまり馴染まなくて、結局いつものやつで行くから、今回はどうかな」
「えっ!?あんなに必死に取りに行ったのに!」

彼女はゲームをやる方ではないが、研磨がゲームをしているのを見るのが好きだと言っていた。人のを見るよりやった方が絶対面白いのに、と研磨は思うのだがなまえはそうでは無いらしく、苦手だから見ている方がいいと言う。
なので研磨がどんなゲームに励んでいるのかは大体知っていたし、何に苦労していたかも大筋把握している。深い話までは出来ないが、こうして受け入れてくれることは研磨にとって何よりも大切なことであった。

「威力あるんだけど、使いにくい。おれがリエーフみたいに長い手足つけても自由に操れないのと一緒」
「あはは、分かりやすい例え」
「身丈にあったものを使わないとね」
「確かに」

何気ない会話をしながら食卓を囲むのも最早当たり前の光景で、寧ろなまえがいないと寂しさすら感じるようになっていた。いつだったかなまえが出張だといって数日家を離れた時があったが、YouTubeの配信以外で口を開くことも無く、彼女から掛かってきた電話で久しぶりに人と会話したという次第でなまえにひどく驚かれたのを思い出す。

「そろそろ行こうかな」
「なまえ、ちょっとこっち来て」
「何?」
「いいから」

着替えを済ませて仕事モードに入った彼女を見送る前に呼びつけて、研磨はその小さい体をきゅっと抱き締めた。え、と短い声がしたが構わず肩に額を押し付けると、彼女も背中に腕を回すのがわかる。研磨は体格がいい方ではないが、それでも男と女で線の細さには差がある。柔らかくていい匂いがする、と研磨はなまえの首筋に唇を寄せた。

「んっ、もう…!油断も隙もない…!」
「なまえ、おれと結婚しない?」
「は…?」
「本当に好きなんだ、なまえのこと。だから、良いでしょ?」

朝からなんて爆弾を落としてくるんだ、となまえは目を見開いた。研磨が突拍子もないことを言うのは初めてではないが、今回ばかりは驚きを隠せない。しかも出掛ける前にこんなに大切なことをサラリと言ってみせるのだから。言葉を失って呆然とするなまえに研磨は笑って、返事は帰ってからでいいよと唇に軽くキスを落とす。
なんて悪魔に捕まってしまったのだろう、となまえは混乱する頭で家を出た。今日は仕事に集中できる気がしない。




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