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戻ったまたたび荘にて、研磨は一段落したゲームを置いて自分の手を見つめた。数時間前、別れ際に掴んだ裾、振り返った彼女からはいつもの匂いがしたのを思い出す。春高が始まってから彼女に触れる機会が圧倒的に減ったのだ。今までの生活に戻ったといえばそれまでだが、研磨にとってなまえの存在の大きさを知るには十分な時間だった。彼女の匂いと温もりが恋しいと自分の中に宿る感情に怪訝な顔をしながらも、彼はため息を吐いて再びゲームを起動させた。
あと数ヶ月で彼女は大学生になる。きっとこんな日常が当たり前になるのだろうとぼんやり思ったところで武器の選択に失敗したことに気が付き、研磨は眉間に皺を寄せた。
「研磨が百面相してるな」
「ゲームで失敗したんじゃねえの?」
「さあな。ほらお前らも早く布団引けよー。リエーフ山本床で寝るなよー」
離れたくない、側にいたい。
明確に自分の中に浮かんだ言葉をかき消すように“GAME OVER”の文字が浮かぶスマホの画面を落としてカバンに入れ、研磨は布団に潜り込んだ。明日は待ちに待った烏野、翔陽との試合、そちらに意識を向けようとしたところで早流川戦の疲れがどっとやってきて彼は意識を手放した。
いよいよ黒尾が目指した“ゴミ捨て場の決戦”の開催が決まり、なまえ達も音駒高校バレー部とともに東京体育館を出ようとしていた。バレー部の宿泊している宿に向かう彼らとは直ぐに別れるのでなまえたち3人は明日への声援を残して真っ直ぐ駅へと向かおうとして、なまえは上着の裾が掴まれていることに気がついた。後ろを振り返る前に声をかけられ、その主が誰であるかを知る。
「…研磨?」
「明日、見に来るでしょ?」
「行くつもりだけど…」
「いや…別に、ちょっと、確認」
何の確認?と振り返ると、何でもないと研磨は踵を返して仲間の元に戻ろうとするので、次はなまえが彼の裾を掴んで引き留める番だった。友人たちも立ち止まって見守っているが敢えて声をかけてくることはせず、2人の周りだけ時間が止まったように感じた。
研磨は彼女の静止で立ち止まり、振り向いた。いつもと特に変わった様子はないが、やはり烏野との試合が決まって昂揚する感情が見て取れるように思えた。
「楽しみにしてるね」
「……すごく疲れそうだけど」
「そんなこと言って、研磨も楽しみでしょ?」
「んー、まあ…そこそこ、かな」
そこそこと言いながらも笑みを浮かべる研磨になまえも釣られて口元を綻ばせた。向こう側で黒尾が手を挙げているのがプリン頭の向こう側に見えたので今日はゆっくり休んでねと声をかけて見送ろうとしたが、研磨は静かに返事をするだけで動く様子は無かった。
「研磨?」
「……なまえが足りない」
「え?」
「でも、仕方ないから今日は帰るよ」
ポカンとするなまえをじっと見つめた後、気をつけて帰ってねと声を掛けて研磨は背を向けてチームメイトの元へと歩き出した。彼女の元には友人たちが駆け寄り何があったのかとなまえの顔を覗き込んだが、恋に落ちたような惚けた表情を浮かべていることに気がついて肩を竦めた。
「ほらなまえ、私達も帰ろう」
「そうそう、明日も見に来るんだし、今日は帰ってちょっと勉強しなきゃね〜」
「うん…」
「魔術師に何言われたんだろう」
研磨くんって猛獣使いなのに魔術師だし万能すぎるよね〜と笑う友人の言葉も遠くに聞こえるほど先程の彼の発言は衝撃的だった。先日の清川戦後とは異なりアドレナリンが出ていることは想像に難くないがそれにしても、となまえは何かを謀った表情の研磨を思い出して空を仰いだ。
恋人に会えないのは友人たちも同じで、自分だけが苦しいわけではない。今は兎に角忍耐強く我慢しなければ、と自分に言い聞かせてなまえは一歩友人たちと踏み出した。
「なまえと昨日何話してたんだよ」
「別に」
「ま、そう言われるとは思ったけど」
「なんか聞いたの?」
「いやぁ?恋の魔術師クンが何を言ったのかなぁ〜って」
はあ?と心外ですと言わんばかりの勢いの研磨に、昨日そうやって連絡来たんだよと恋人とのメッセージを思い出して説明する。あの人たちはなんで頭が良いのに意味不明な例え方するんだろう、と研磨が歯磨き粉を絞ると、シャコシャコと歯を磨きながら黒尾がそりゃあれだろ、と言いながら歯ブラシを咥えたまま指を立てた。
「馬鹿と天才とは紙一重、ってやつ」
「それ、褒めてない」
「おーッス!お前ら早くね?」
「おはよう、黒尾、研磨」
夜久と海の挨拶にもごもごと応えながら、研磨は歯磨きを終えて顔を拭いてふわりと香った匂いにパチクリと目を見開いた。突然固まった研磨に、何事かと黒尾は顔を覗き込んだが、それが悪くない方向だと分かって先行くぞーと朝食会場へと向かっていった。
昨日、恋人から“魔術師の研磨くんがなまえをまた惚れさせたみたい”と連絡が来て何かあったのだろうと察して本人に確認したが呆気なく失敗、しかし黒尾には奥の手があったのだ。
「黒尾、柔軟剤って使う?バレー部で」
「は?使うけど、なんだよ急に」
「父さんがギフトで貰ったとか言って沢山家にあるんだけど、全然使い切れなくて……部活でどうかなって思って」
「貰えんならそりゃ有難く使うけど、いいのか?」
勿論、と笑うなまえから受け取った柔軟剤を初めて開けてタオルを洗濯したのだ。恐らく慣れ親しんだ物から彼女の匂いがして仰天したのだろう、と黒尾は先程の研磨の表情を思い出して一人ほくそ笑む。
「さーて今日も勝つぞー!」
「だな」
「なんだよ海まで珍しいな」
「お前らと“ゴミ捨て場の決戦”が実現出来るなんて、嬉しいからな」
「おい!始まる前から泣かせんなよー!」
夜っ久ん泣くなよと黒尾が笑いながら、あれ言うのは終わった後だったなと海も笑いながら3年達は朝食を取っていた。その姿を訝しげに見つつ、研磨は備品の中に見つけた見慣れた柔軟剤の謎を解き明かそうとしたがそれは道すがら黒尾から呆気なく白状され、聞いてない!と憤慨してなまえに対して高速でメッセージを打つ。そんな珍しい彼の姿に3人は顔を見合わせ、黒尾は魔術師の弱点の姿を思い浮かべて研磨の背を叩いた。
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