全力否定まであと二時間


人間―――ナマエの名を呼ぶと、つまらなそうに手元ばかり見ている眼が僕を見て「なあに、セベク」と僕の名を呼ぶ。
これになんの意味があるのかは分からないが、若様に名を呼ばれる誇らしさとはまた違う喜びがあって、意味もなく名前を呼んでしまうようになった。これはいけない。用件がないのに他人を呼び止めるのは無礼だ。わかっているけど、そこにナマエ・ミョウジがいて僕を見ていないと思ったら胸がむかついてくる。たぶんこれは怒りだろう。



ナマエ・ミョウジは人間のくせに遠慮が無く、若様に対する態度も馴れ馴れしい。いくら同じ部活だからといって、頭を垂れずに軽い会釈で通り過ぎようとしていた時にはこんな無礼者がいるのかと驚いた。
いくら出身が違うからといってここまで無知な輩もそうそう居ないだろう。可哀想に、知識がないのだ。だから哀れんで、面倒を見てやることにした。
慇懃無礼なやつだ。僕がわざわざ「人間」と声を掛けてやっても、「なに、妖精」と眼も合わせなかった。しまいには僕が何度呼んでも無視して通り過ぎるなんて、酷いことまでしはじめた。僕は親切で声を掛けてやっているのに、なんなんだこいつは! その日は怒りで眠れなくて、ずっとナマエのことを考えていた。
嫌われたのかもしれないな。ナマエは一度だって僕の名前を呼んでくれなかった。きっと覚えてもいないに違いない。

かなしい。気の所為だ。あんな人間、どうでもいい。

ナマエは僕の前じゃ笑ってくれないなと今更気付いて、胸の底が重くなった。呪いにかけられたのかもしれない。良い度胸だ、人間風情が、妖精にかなうと思うな。


僕は酷い扱いを受けた。だからこの怒りには正当な理由がある。
ナマエに声を掛けたのに、相変わらず無視された。一度ならず二度三度も! 耳元で呼び止めるとさすがに止まったナマエは、いつものつまらなそうな表情を崩して目を丸くしていた。そうやっていると愛嬌があって良い顔なのにと、場違いなことを考える。

「人間が複数いるから個体名で呼んで、そしたら気づくから」
「う……」

人間は人間だ。でも確かに、ここは妖精以外が多い。人間と呼べば振り返るものも多いから、ナマエが気付かなくても仕方ない……のか?

言葉に出して呼びなれない名前をなんとか捻り出すと、ナマエは柔らかく笑いながら「なあに、セベク」と僕の名前を呼んだ。僕の名前を知っているのか、そんなふうに笑うのか。



それから僕はなんとなく、意味もなくナマエを呼ぶことが増えてしまった。あいつもいちいち「なあに、セベク」だなんて応えるからいけない。聞こえないふりでもしてくれれば、呼ぶことを躊躇出来るようになるのに。

「おい、人間」
「なに妖精」
「……人間」
「はいはい妖精」

茨の谷のフェアリーテイルを読んでいるナマエは僕を見ない。ここら辺ではおとぎ話と言われているが、なんの因果で僕の両親の馴れ初め話を読んでいるんだろうか。
そんなもの、息子の僕に聞けばちゃんとした歴史として教えてあげるのに。

過剰に装飾の施された重い紙を捲る音。僕の分の紅茶の香りとナマエのブラックコーヒーの苦い匂い。素っ気ないのに無視はしないナマエの声。この空間は嫌いじゃない。

「人間」
「もう、なあに」
「用件はない」

本から目を離したナマエは声を出して笑った。ああ、いいな。胸の底が重い。でもこれは、怒りじゃない。

「お前はちょっとマゾいよね」

「そうか」



ナマエの部屋を出たあと、道端に落ちていたシルバー叩き起して、ついでに聞いた。

「おいシルバー、『マゾい』とはなんだ!?」
「茨の谷には無い言葉だな。親父殿に聞こう」

ナマエに聞けば良かったが、タイミングをつかめなかった。きっとナマエの故郷あたりの言葉だろう。いったいどういう意味をもつんだろうか。少し楽しみで、少し怖い。笑っていたから、悪い言葉ではないはずだ。


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