千々に引き裂き畜生餌


 ■■は物の怪のなり損ないとして、ありふれた(屈辱的な)日々を過ごしていた。目の前にはとても美味そうな女がいるというのに、厄介な鋼どもが目を光らせていて手が出せない。罪の無い無力な物の怪の振りをして、しかし所詮『なり損ない』で在るため常に腹を減らしながら存在していた。
 手の届くところにあるご馳走に涎を垂らしながら過ごす日々はただ辛い。だが、ついに運がまわってきたのだ。
 ■■の前には、あの忌々しい鋼どもがひとつ。弱って隙だらけに背中を見せていた。己の巣だからと油断しているのだろう。これは千載一遇のチャンスだ。そう思うやいなや、■■は腹に空いた血塗れの穴から、中に入り込んだ。その鋼も暫く暴れたが、三回ほど血を吐いた頃にはすっかりとおとなしくなった。これで、この鋼の身体は■■のものになったのだ。
 似たような物はあと六十近くもある。あの美味そうな女も気付くまい。何食わぬ顔で夕餉に参加すると、女は優しく■■の頭を撫でた。鋼たちも「今日はよく食べるね」等と言いながら、全く気付いた様子が無い。上手く目眩ましが出来ているようだ。さて、いつあの女を食べようか。今日は駄目だ早すぎる。明日にしようか、明後日にしようか。
 奪った鋼の身体で過ごす日々が楽しくて、先延ばしを続けていた。ふと気がつくと、兄弟という鋼の掌に丸い物が浮き上がっている。
「これはなんですか?」
「主さんの紋だよ。最近浮かんできたんだ、何かお考えがあるんだよ。きっとね!」
 きゃらきゃらと笑って、兄弟は鬼ごっこに戻っていく。自分の掌を幾度見詰めても、同じような紋は浮かんでは来なかった。
 日に日に、掌に紋を持つ鋼が増えていく。奴らは幸せそうに「主の刀という証明だよ」と笑うが、同じ立場の筈なのに■■の掌は白いままだ。
 これはどういう事だろうか。自分はあの女の刀では無かったのか。一度聞きに行かねばならない。だって自分は主様の刀なんだから。ふと、直前の自分の思考に立ち止まった。今、自分は何を考えた? 主様の刀だと? あの女を『主様』と呼んだのか? 腹の中から丸呑みにしたはずの鋼が、逆に身体を食い潰してくる。
 このままではいけない。早く、早くあの女を。そうだ、食らってやろう。今日食ってやろう。その方が良い。早く、自分が自分でいられるうちに!
 目の端にちらちらと映る白くて細長い腕は、頼りない。ああ、もっと厳選すれば良かった。あんな女など簡単に組み敷けるような、大きな奴を狙えば良かった!
息せき切って女の部屋へとたどり着く。さあ食ってやろう。甘そうな腸を食い散らかして匂い立つ血を啜れば、こんな中途半端ななり損ないから卒業できる。いつ消されるかもわからない脆弱な穢れ等、うんざりだ。
 ■■が引き戸に手をかけたその時、部屋から小さく声が聞こえた。
「おぞましいけだものが、見つけ出したらどうしてくれよう。犬にとって食わせようか、豚にとって食わせようか」と歌声のように囁く声。
 うっすら開いた戸の向こうから、鏡に向きながら髪を梳かす女は、櫛がその黒髪を撫でるように滑る隙間から、見開いた眼で鏡越しに■■を見つめていた。
「ひ、」
「おいで」
 女の声に、身体が勝手に引き寄せられる。櫛を置き、振り返った女は慈母のように柔らかく微笑んでいた。鈴を転がすような声が逃げ道を塞ぐように、顔に吐息を感じるほどの距離で聞こえる。

「おまえにわたしのしるしはあげない」





「五虎退おはよう」と、主様の声に誘われるように目を開くと、くらくらと天井がまわりました。
「ふ、ふぇぇ……」
「もう!手入れ札が枯渇気味だから無理しないでって言ったでしょう!」と、怒るふりをする主様の姿で思い出す。そういえば僕は戦場で重傷を受けたんだった。
「ご、ごめんなさぃい」起き上がろうと布団を掴む右手に、記憶にない紋がありました。
 僕はこれを知らないけど、識っている。主様の、紋だ。
じっとそれを見ていると、主様が笑う。
「――大切なものにはちゃんと名前を書けって、友人が言ってたのよ。それって初歩だけど大切よね。初心に戻ることにしたの」
「大切なもの……」
「大切よ。私の刀だもの」
 もう朝食が出来るから起きなさいと促されて、主様の紋を指で撫でながら夢のような心地で立ち上がる。
 そういえば一週間くらいの記憶が無いけど、主様は「気にしないで」と仰ったから、まあ……いいのかな?
 僕は主様の、大切なもの。その言葉を噛みしめて、幸せな心地だからかな。朝食の豚汁はいつもより美味かったです。


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