朝、目を覚ました瞬間から、寝起きの鈍い頭でも見えるものは認識できる。目に新しい真っ白な光景は、目覚めを鮮明なものにする。
寒波に襲われた東京が、稀に見る積雪を記録したのは奇しくも本日、二学期終業式という日だった。
朝から続く雪は至極順調にしんしんと降り積もっていく。この日、道行く人々にとっての最大の関心事は、交通網が麻痺してしまうかどうかに違いない。
学生にとっては、言わずもがな嬉しい終業式というイベントに重なって、浮き足立っている生徒も多い気がした。
実際に起きてから、うっすらと広がる銀世界を目にした時は確かに高揚した。見慣れたはずの景色が白一色になっているのは、東京では珍しい光景だった。けれど学校に到着して、朝練前にグラウンドではしゃぐ木兎さんを見つけると、あれほどのテンションではしゃげないなとすぐに冷静さを取り戻すことになった。
終業式を終えて冬休みが始まればいよいよ、春高の開催が現実味を帯びてくる。ただ待っていたとしても開催されることに変わりない。しかし代表決定戦の結果勝ち取った出場権をもってして、満を持してその開幕に備えていた。
とは言え、どんなにやる気があったとしても、悪天候をどうにかすることはさすがにできない。朝練のうちに、午後からひどくなると予想されている積雪により、急遽午後練は中止との運びになった。
時間を有効活用できる機会だと思うと残念だが、家に帰れなくなってしまうのはもっと困る。練習は明日からも続いていくことに変わりはない。木兎さんほどではないにしろ、与えられた貴重な休養日を全うすることにした。
雪道に足を取られながら、道すがら木兎さんにも絡まれながら、いつもの倍くらいの時間がかかるなか帰路を辿る。
列車の運行を告げるアナウンスがひっきりなしに流れ続けている。いつにも増して忙しない、ホーム上は既に乱れ始めている電車を待つ人々で溢れかえっていた。誰もがイレギュラーな事態に対応を迫られて、なんとなく、余裕なんて感じられないような空気が満ちていた。
「赤葦くん」
周囲の喧騒に飲み込まれてしまいそうな中、自分を引き止めたのは、雪のようにしんとしていて、凛とした声だった。
「みょうじさん」
呼び止めた声の主は、みょうじさんだ。音に溢れた環境の中で、耳はみょうじさんの声だけを切り取ってしまったみたいだった。声を聞くのは随分と久しいような気がしたのも、影響しているのだろうか。
振り返り、姿を確認すると驚いたみたいに少し目を丸くして、すぐにパッと明るい笑顔になる。澱んだ空の中、下を向いて歩くのを踏みとどまらせるような、光みたいな笑顔だった。
「赤葦くんは背が高いからすぐに見つけられるね」
「その勝負まだ続いてる?」
「もちろん」
肩を並べて、ふふん、と変わって見せた笑顔はあの時と同じだ。悪戯を仕掛けようと画策する、含みのあるものだった。
球技大会の時に言っていた不思議な勝負も、どうやらまだ続いていたらしい。残念ながら今のところ負け通しである。
あの日、みょうじさんの動画を見て以来、言葉を交わしたのは初めてだった。クラスは隣だから姿を見かけることはもちろんあった。それでも声をかけることができなかったのは、ひとつ大きなきっかけを失ってしまったことと、見てしまった動画のせいもあったかもしれない。
自分にもみょうじさんにもやましいことは何一つない。それでもなんとなく、こちらからみょうじさんに、動画を見たと切り出して声をかけることは憚られた。
今目の前にいるみょうじさんを変に意識していることが恥ずかしい。そんな思考をみょうじさんがもし知ったら、考えすぎだと、彼女も笑うのだろうか。
それでもみょうじさんはそんなことは知らないから、姿を見かけたと声をかけてくれる。そのことを嬉しく思う反面、どう言葉を返せばいいのか分からない。
「バレー部は練習じゃないの?」
「うん。帰れなくなったりすると困るからって」
「そっかあ。もう電車遅れてるもんね」
「みょうじさんは路線こっちなの?」
「そうなんだけど、今からレッスンなんです」
レッスン。何気なく言い放ったその言葉が、どれほど彼女の日常に馴染んでいるのかが分かる。大変だねとも、頑張ってとも、どれも違う気がして返す言葉を言い淀む。
「クリスマスもイベントやるからね」
「イベント?」
「そうだよ〜まあライブなんだけど」
話をする中でふと思い出した。そういえば去年も、似たように誰かに言われて初めて意識をしたことだった。
「クリスマスは、こっちも普通に練習だな」
「お互い働き者ですな」
息が漏れるくらいの小さな笑みを浮かべて、戯けたみたいな口調。その顔も口ぶりも、自分が知っているみょうじさんだ。あれこれ考えてはいたけれど、こうして話をするみょうじさんは何も変わらない。
寒いねと、寄せる指先はすっかり赤くなっている。半分くらいマフラーに埋まる頬も、冷え切った空気と擦り合わさって林檎のように赤い。
そうなっているのはみょうじさんだけではないはずだ。己も同じように寒いとは感じていたし、頬だってきっと赤くなっている。それでも、もう少しだけこのまま、みょうじさんと話をしていたいと思った。
「そうだ」
二人並んで電車を待つ、少しの沈黙の後、弾かれたようにみょうじさんが顔をあげる。
「ねえ、春高、おめでとう」
体ごとこちらを向いたみょうじさんから発せられたことを、まさかこのタイミングで聞くとは思わなかった。
眉を下げて、目は丸く見開いて。みょうじさんが驚いた時に見せる表情だ。
一音ずつ、噛み締めるような響きを正面からまともに受けてしまい、面食らう。こんなふうにみょうじさんの言動に驚かされるのは、もう何度目になるのだろう。
「すごいね、春高! 赤葦くんは本当にすごいんだね!」
きっと寒さのせいだけじゃない頬の紅潮から、みょうじさんの高揚が伝わってくる。
すごい、と褒められたことは前にもあった。前と違うのは、言葉を受け取るこちらの意識に変化があったことだ。
「あ、りがとう」
前にもみょうじさんに褒められたとき、あの時自分はきちんと礼を言っていただろうか。今になってそんなことが気になった。
たった五文字の言葉に自分が感じた全ての思いを込めようとして、そんなことは到底無理だった。こんな時、思うがまま感情を表出することが不得手な己を、少しだけ恨めしく思う。
「春高って年明けてすぐなんだね。頑張ってね」
「うん、ありがとう」
「東京体育館でやるんだよね? 応援って行けるかな」
「え、来てくれるの」
「多分行けると思うから、行ってみたいな」
またしてもみょうじさんの予想外な言動に、目が眩みそうになる。直接おめでとうと言われた喜びもまだ消化しきれていないうちに、雷に打たれたような衝撃だった。こういう時は先ほどと真逆で、驚きだとかその他の、悟られることが恥ずかしいものをある程度隠せてしまえるのは良かった。
みょうじさんの言葉を聞いたところで、ホームに電車の到来を告げるアナウンスがけたたましく鳴り響く。しばしの沈黙を経て、流れる人の波に逆らわぬよう、みょうじさんから離れてしまわぬよう、待ち望んでいたはずの電車に乗り込んだ。
みょうじさんの後ろにそっと回り込み、彼女が車内に足を踏み入れたところを見届けて、自分もその後に続く。
暖まった車内にほっと息をついたのも束の間で、後ろから押し寄せてくる人にあっという間に飲み込まれそうになる。みょうじさんを先に通しておいてよかった。人と人との間で押しつぶされそうになりながらそう考えた。
「人やばい……みょうじさん、大丈夫?」
「やばいけど大丈夫」
車内の隅に追いやられてしまい、みょうじさんを潰してしまわないよう細心の注意を払う。
みょうじさんの降車駅を尋ねると、自分のもよよりも早いことが分かる。通過するまでに、少しでも人混みがマシになるように、祈ることしか出来なかった。
なんとなく、この状況で、乗車前の話を蒸し返して話を続けることは躊躇われた。だからと言って黙って見つめ合うような仲でもないから、何もできない時間だけが流れていく。
みょうじさんの肩越しに流れていく車窓からの景色はすっかり白くなっていて、いつも見慣れた光景であるはずなのに、どこか知らない世界のようだった。
次の停車駅を告げるだけの車掌の声は、それに加えて今日に限ってはダイヤの乱れを詫びる文言も追加されている。耳に入ってくるのは、線路を駆ける車体の音と、時折聞こえるアナウンス。少し離れたどこかで遠慮がちになされるお喋りの声だけだった。
目の前のみょうじさんも、先ほどまでのハイテンションと打って変わって、電車に乗り込んだ途端静かになってしまった。肩にかけられた鞄の持ち手をぎゅっと握りしめて、自分とは視線の合わないどこかをただじっと見つめている。
少し前まで、みょうじさんともっと話をしていたいと思っていたはずなのに。頭の中は今もこうして言葉で溢れているはずなのに。向かい合ってしまうとまるで全てがだめだった。
自分の言葉だけがまとまらない頭の中で、みょうじさんの言葉と姿が反芻される。それを受けた自分は、やっぱり驚くだけの反応しかできていなかったことも思い出した。
「……みょうじさん、さっきの話」
外の景色を眺めながら考えているうちに、自然と言葉が口をついて出た。目に入る真っ白な街並みに、思考が染まっていく。
静寂とは言えないほどの環境音の中、みょうじさんにだけ聞こえるようであればいいと、声をそっと潜ませる。
名前を呼ばれたことに気がついて、顔をあげたみょうじさんの瞳がこちらを見つめる。声に耳を傾けるようにして小首をかしげると、耳にかけていた横髪が肩を落としたほうへはらりと流れた。
あんなにも流暢だった小さな口は、今は何も返さない。ただ緩やかな曲線をたたえるだけだった。
「春高、応援してくれると嬉しい」
頭の中で溢れていたものが止んだ時、最後に引っ張り出されたのは、奥底にしまわれていたものだけだ。
じっと外れない視線は、今何を考えているのだろう。ここに来るまでたくさんの、まっすぐな思いをくれたみょうじさんが、何も語らずにいるのは落ち着かない。
それでも、瞬きをすればいつでも思い出せる。
彼女が自分に向ける言葉や表情の意味を、ずっと考えていた。考えたところで、それは確かめない限り想像の域を出ないことだ。
今はそれでいいと思った。どんな意味があっても、なかったとしても、嘘だけがないことが分かれば。確かめてしまわなくても、今はそう思うことができるだけで、十分だった。
だから、自分が伝えるものもすべて、みょうじさんに報いることができるようなものでありたいと思う。
自動アナウンスが流れて、続いて車掌の声がみょうじさんの降車予定の駅名を告げる。そんなに話し込んではいなかったが、時間は既にそれなりに経っていたらしい。
みょうじさんはこちらを見つめ続けたまま、動かなかった。降りることを確認しようと、喉から声が出かかった瞬間、みょうじさんの丸い瞳がなだらかに細められる。
「うん、応援したい」
自分の名前を呼んだ時とはまた違う。雪のように凛としている、けれどその下に芽吹く若菜のような温かさが内在する。みょうじさんの声だった。
徐々にスピードを落としていく車体はそれからゆっくりと停車をする。そこはみょうじさんが降りる駅だった。
ドアが開くと、肌を刺す冷気と共にちらつく雪も入り込む。熱気にあてられていた頬と、ぬるい空気を飲み込んでいた肺は、魔法がとけたみたいにすっと熱がさめていく。
「じゃあ、またね」
ひらりと真っ白な手のひらをこちらに向けて、雑踏へ足を踏み入れる。
またね。そう言って、それまでずっと外れなかった視線がゆっくりと前へ戻っていくのが見えた。
明確に次に何かを約束してはいない。それでも、またねと言ったみょうじさんの声が、それは覚める夢でも解ける魔法でもないことを教えてくれる。
追いかけることはしなかった。背中が完全に消えてしまう前に言いたかったけれど、みょうじさんにちゃんと聞こえるかは分からない。
「俺もみょうじさんのこと、見つけられるから」
彼女が挑む勝負に、次こそは負けないと思った。今ならみょうじさんが、どこにいたとしても、見つけられる気がした。