仮面の男





長い間眠ってしまったあの日から時間軸は狂い、昼も夜も睡眠時間すら厭わないお茶会まで重ねていたから日付けの間隔なんて尚更解らない。

それでも過去を数えようなんて気には全くならない程、その時々、その瞬間が楽しいとさえ感じる。

終わらないお茶会と彼との時間は、この自分を維持するための薬のような役割を果たすようになっていて、あっという間に無くてはならないものになった。





トランプをしてみたり、
望遠鏡で星を見せてもらったり。

解らないと言っているのに、必死にチェスを教え続けようとするから馬みたいなコマを投げてやった事もあったし、段々と砕けた口調になっていく私に合わせて男友達風をやってくれた時は、抜け切らない丁寧な言葉遣いが面白くて、テーブルまで叩いて笑った。




「ねえねえ、私が城に住んでたらさ、王子が遂に結婚相手を見つけましたぞ!とか言われちゃうんじゃないかな」


「そんな噂もあるかもしれませんね」



「ええー…なんかごめんなさい。そうだったらジョバンニ可哀想。私はお妃さま気分ラッキーって感じだけど」



おふざけを重ね、ケタケタ笑う私を見たジョバンニは突然真面目な顔をした。



「何故可哀想なんですか?私は今すぐ妃に迎えたい程ですよ」



笑ったままで顔が固まり、そういう冗談なのかと思った私は、半笑いのまま何度もしつこく聞き返してしまう。



「やはり伝わらないものですね。戸惑わせるつもりは有りませんでした、どうか忘れて下さい」



逃げる様に背を向けた瞬間、いつもの微笑みが陰ったように見えた。

酷く悪い事をしてしまったような罪悪感に襲われて、そのまま部屋を出て行こうとする背中に慌てて手を伸ばすと、引き止めるように問いかけた。



「本気なの?え、冗談?冗談だよね」



「どうすれば…伝わりますか」




突然振り返った彼に伸ばした手を掴まれて、優しく抱き締められた体が少しずつ軋んでいく。彼は本気だった。





私は微塵も愛していない。

彼と過ごす時間が楽しいのは事実だ。平穏をくれるし私にとって安息の地になると思う。私には帰る場所がないんだし此処に居るのが一番平和でここにいるべきだと思う。でも愛してはいない。


…だけど。


居場所と安息を与えてくれる彼に、なんの対価も無しにとは言えない。過去は捨てたと言うのなら、未来をくれるこの人に対価を払ったっていいじゃないかと、そう思った。


こうしていつまでも、
楽しくお茶会してればいい。



「いいですよ、私。お妃で」



髪を撫でいた手は肩に落ち、
頬に優しく唇が触れた。



「それは本気ですか?冗談ですか?」



微笑んで私の真似をする
ジョバンニの手を
ぎゅっと包み返す。


私はどこまでも先を行こうと決めた。



「今日一緒に寝てくれたら解るんじゃないかな」




驚いて、微笑んで、おかしい程甘くなってしまった彼は始終愛おしそうに頬を撫でて、手の甲や頬にキスを繰り返した。

そしてその度に、
唇じゃなくてよかったと。

それ以上の行為が待っているにも関わらず、唇が重ならずに済んだと安心している自分がいて、それは何故なのかと思った途端、疑問が動悸へ変わり始めていた。



後戻りする気はないし、
覚悟だってできている。

なのに甘い空気を漂わせ始めたジョバンニから目を反らしたくて仕方なかった。


少し遅めのディナー
いつもより甘めのティータイム

淡々と過ぎていくスケジュールと、今更な戸惑いを上手に笑顔で流すうち、遂に彼はバスルームへ消えて行く。


響き始めたシャワーの音は逃げ場のない密室の中で、追い詰めるように両手を広げて迫ってくる。その戸惑いにいてもたってもいられなくなって、思わず駆け寄った窓辺で、身を乗り出した私は外の空気を目一杯吸い込んだ。




「…シャンクス」



灰色の厚い雲がうねる嵐前の空を眺め、やっぱり駄目だったかと諦めの溜息をつく。


第三者に触れられる事を
頑なに拒んできたこのドレスが
初めから全部の答えだったんだろう

結局私は鮮明にあり続ける
赤色を忘れる事なんてできない。

何度無になっても、物語だった事にして本を閉じても、先を行こうと決めたってあの記憶は消す事ができなかった。

それでもサーチライトは
空っぽの海を照らすけれど、
そこに船は無くていい。


ただ忘れられなかった。という事実が少し嬉しかっただけで、それを認める事で、もう一度その名を呟いただけで、こんなにも落ち着くのならもう忘れなくていいんじゃないかと思った。


切り離す事ができないなら
戸惑いごと引き摺っていけばいい。
誰に抱かれてもまた
記憶をすり替えて、
あの人に抱かれた事にすればいい。





戸惑いを乗り越えた強い意志で塔の天辺を眺めれば、夜の曇り空とあっていつも通りの姿は見せてくれなかったものの、威風堂々とした天使像のシルエットは、普段の何倍も頼もしく感じられる。


低い音で呻く空は、まるで戦いに挑む私の背中を押すように轟き、ごろごろと不規則に光りながらあちこちにヒビを走らせていた。



しばらくの間荒れ狂う海を眺めていたら、頬に大粒の雨が落ちてきて、それを指先で拭う僅かな間に、激しく降り出した雨が窓の木枠を濡らし、跳ね返る水滴が服を濡らしていく。


慌てて窓を閉めようとした私は、
その瞬間大きな音を立てて塔の向こう側へ落ちた一瞬の光の中で、ある異変に気が付いた。



石像のマントが
…はためいている。


異変を確かめようと
振り向きかけた首を理性で止め、
あれは恐ろしいものだから
見てはいけないと言い聞かせる。

それでも
怖いもの見たさの
両眼が捉える世界の左端で、

不気味に笑う仮面が
稲妻が光る間中ずっと
こちらを見ているのが解った。


塔の上、石像の前に立つ何者かは
ゆらりと伸ばした手で面を外し
スライドで仮面下の正体を明かしていく


投げ捨てられた仮面は
姿を覆っていた布と共に暴風に煽られ

この眼前へと運ばれ、
地上に落ちる。

一連の動作を、雷に打たれたようなコマ送りの衝撃で眺めるうちに、辺りは再び闇に包まれ、やっと振り向いた胸騒ぎのシルエットに目を凝らせば、不穏な異物感が確かにそこにあった。



早く、
早く窓を締めなければ


そう思うのに寄りかかったカーテンから体が全く動こうとしない。

目を泳がせた末に見た袖口のドレスを覆う黒いレースが、水分を含んで赤地に張り付いていくのが、あの日の血のように見えて頭が真っ白になり、完全に山小屋がフラッシュバックしていた。



あの時も光が射した

来ないでと願った後
目の前で、扉が、

そこに居たのは。




揺らめく人型から目を離せずにいる間も、雲に走る亀裂は焦らすように予測のつかないリズムで光り続ける。




そしてその数秒後、


ストロボの様に点滅しながら
突然落ちた一際大きな雷が

爆音と共に私の胸を撃ち抜いた。




風に揺れる赤毛
はためく黒
私を射抜く生身の目



荒れ狂う暗天の中で私が見たのは

あの時と同じ、

山小屋の扉を蹴破った時と
同じ顔をしたシャンクスだった。









なんで
なんで居るのよ


後ずさりながらなんとか窓を閉め、震える手でタッセルを解くと荒々しくカーテンを閉じた。



「どうかされましたか」


「いや…雨が凄くて」



確かにいた。
天使像の前にシャンクスが。


まともに立っていられないほどの衝撃でよたつきながら壁に背を預けた。するとバスローブを羽織ったジョバンニは、それを鵜呑みにして確かに凄い嵐だと、気にする様子もなくテーブルに置かれたグラスに水を注いでいく。

感情に似つかわしくないその水音が神経を逆撫でて、呑気で平和な生活音に包まれた部屋に居ながら、外の嵐にも劣らない嵐が巻き起こっていた。


このまま光のない世界を
生きていく覚悟でいたのに。

船は姿を消した筈なのに。


身体中の血が脈打ちながら、逆流するように熱く燃え、信じられない速さで鼓膜を叩く心臓の音が、思考を掻き乱していく。


今更覆す事なんてできない

この時私の体を支配していたのは
説明のつかない怒りと
どうにかして逃げるための方法、
突き放す方法だけだった。


シャンクスは必ずここに来る。

でも今逃げたところで
追い付かれてしまうだろう。



「…なんでしょう?」




溢れたグラスの水がテーブルクロスに広がっていくのを見つめるジョバンニが、怪しげに微笑んでいたとも知らず。
善良な誰かの愛を利用する汚さと、愛をこんな形でしか表せなかった自分を、一生懸命なだめては直ぐに終わると何度も繰り返した。



「愛してる証拠を下さい」



抱き締めていた私の腕を解き、
正面から優しく抱き締めなおすジョバンニの胸元に顔をうずめた。そうでもしないとこの開ききった瞳孔の説明がつかない。落ち着きのない手は背中に回していれば、愛おしい人を撫ぜているように見えるだろう。



目を見ないように伏せていた顔は、男の両手に包まれて、目を閉じたのと同時に唇が重なった。



この部屋が今まで平和であったのは、
大広間のシャンデリアが何者かによって撃ち落とされるというガルニエ始まって以来の事件と、騒ぎを知らせる者が誰一人駆けつける事が出来なかった為に存在していたのだとも知らず、
その先を思わせる様な偽りのキスを、窓ガラスの衝撃音が包むまでいつまでも重ね続けた。





 






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