崩壊の音





割れたガラスの破壊音は
偽りの空間を瞬く間に塗り替えた。


抱き合っていたジョバンニは驚き、見たくもないのに、体を反転させて後ろから抱き締め直すから、私は再びあの光景を見る事となる。


「なっ…な、何故赤髪が」


ベルベットの布地はポールごと落ちて吹き込む雨風に濡れ。散ったガラスの破片上に立つシャンクスの輪郭を、この歪な空間を光る稲妻が際立たせていく。



どこまでも追ってくる、私が逃げたい人と愛していない人。間に挟まれた私は独りであると感じた。そして同時に、決して忘れやしない降りると決めたあの日の事を思い出していた。

薄明かりが照らした眩しい姿にどれほど絶望したか、そして扉を破った出来事は、徹底的瞬間である傷跡を見た最悪の時間へと繋がっている。


何度も乗り越えようとした。
それをあともう少しで消化できる筈だったのに、同じ絶望の瞬間を何度も繰り返し見せるこの人に憎しみがこみ上げる。


「何しにきたの」


激情に呑まれて脈打つうるさい心臓と、手に汗にぎる緊張感の中で、冷たい鉄になるよう呼吸をひとつ。


「二度と会いたくない」


突き放すつもりで吐いた言葉を、この男の胸の中に居ながら濡れた唇をどんな風に見ているのだろうか。見せつけるようにジョバンニの腕に手を添えれば、思わず声が震えた。


「おい、それをどけろ」


睨み付ける視線、光る瞳孔。
しかしその先にあった刃物は何故か、愛を囁き続け、過去を消そうと抱きしめてくれた、背後の男が握っていた。


突如現れた男は未だ、私に向けての言葉は発していない。しかし続けざまに吐かれた「全て罠だ」という種明かしは、ひとつの起爆剤となった。


「そいつの名はドンファン、誘拐事件の首謀者だ」


背後から抱き締められているのは、
侵入者から守るためではなく、彼自身が狙われないための盾にすぎないとでも言いたげな物言いと視線。


「知らない…何も知らない」


どうでもいい。どうでもいい。
耳を貸してはいけない。
聞いてはいけない。
この男は嘘をついている。
全て静かに聞き逃せ。
たとえそれが真実でも。
どの道、覆りはしない。


「関係無い。私はここに残る」


背後から拘束する手は震えを伴いながら徐々に力を強め。じりじりと後ずさる中、あてがわれたナイフには目を閉じて。

壁の絵画に背を押し付けたジョバンニに引き摺られるように、隠し扉の中へ飛び込んだ。





地下牢の匂い漂う、二人並ぶのもやっとな程狭い通路には粗末な明かりがちらちらとあるだけで、要人を逃がすためだけに作られた迷路のような闇を益々怪しげに演出する。



「何故あいつがいるんだ…何故!あああ糞っ!」



走り続けるジョバンニは手に余る荷物を運んでいるかの様で、その粗末な扱いに以前みた紳士は、もうどこにも見当たらない。


あの人が言った言葉が、
真実であるという可能性に隠しきれない動揺。それは疑心へ、疑心は静かなる驚愕へと変化していく。

豹変したジョバンニの姿は、
確かに、静かに私を打ちのめしていた。


これが現実だと言わんばかりに突き付けられたナイフは、服を裂き、血を溢れさせ、僅かなむず痒さを感じさせる。
それでも逃げなければという意思で、勝手に走り続ける足をもつれさせながら、真っ暗な困惑の中へと駆けて行く。


通路のどこかからは、壁を砕く音が絶え間なく反響し続け、その混乱から逃げるように走るこの男もまた、混乱しているだけなのだと。どこかで以前の姿を信じ続けている自分がいた。



「おい女」


痛みで目を閉じれば、
首にかかるとてつもない圧迫感が
一瞬意識を薄れさせる。


「今すぐ異世界への行き方を教えろ」


壁に叩き付けられたのは真実だった。

ぎりぎりと締め上げられて足先は地から離れ、やっと首を絞められているのだと、シャンクスが言ったことは事実なのだと気が付いた。


やはり
そういう事なのか。

滑稽な自分、決定打だった。


「お前の世界は平和なんだろう。私はそこへ行く」


この男は、そのために私を。
それは、いつからだろうか。
どこからだろうか。


「私をどうするの」


仕向けたのはこの人だと言った。
シャンクスは、
最初から全てと、言った。


「吐かせれば用済みだ」


そうか。そうだ。

なんて馬鹿馬鹿しい。
出会いからきっと全てだったのだ。
なんと滑稽な事か。



それで私は何を失った?



思い返せば返すほど、押し寄せる後悔は拭いきれない大きさで。糸を切った様に放心したまま、諦めで全身から力が抜けていく。


「方法なんて、解らない…私だって帰りたい」


そして、
かすれがすれに絞り出した嘆きは、目の前の男の張り詰めた糸を、ぶつりと切った。



「ふざけるなあああ!!!!なんのために!何のために私は…!!」


投げ捨てられたナイフが階段を滑り落ちていく。目をひんむいて取り乱すジョバンニは私を引き剥がすと、今までに聞く事のなかった荒々しい罵声を次々と浴びせた。


「死のリスクを背負ってまでお前など!!」


彼の血走った瞳に映る女が、
何も掴めない手を伸ばして消えていくのが見えた。妙な浮游感を纏った身体は、突き落とされて冷たい奈落の底へと落ちていく。


「ジョバンニ、」

「最後に教えてやろう。それは私の名ではない」


頭の奥で小さく繰り返される言葉は、速やかに脳を駆け巡った。狭い通路にこだまする残響は、自身の存在意義までもを否定する呪語となって頭をめぐる。


ーお前など要らん
ーいらない、 いらない。

無造作に転がり落ちていく間抜けな自分の姿を頭に浮かべながら漠然と思う。ああ要らなかったんだわ、と。


鈍い音をたてて辿り着いた坂の終わりでひれ伏すと、溢れた涙が石畳の隙間に染みていく。身体の痛みなんて何一つ感じられないのに、心臓が、肺が、気管が、激しく痛んだ。

苦しくて息もできない数秒か、数分か。
身体の内側から、化け物が孵化するようにバキバキと音を立てて狂っていく。闇の中で私が塗り替えられていく音が確かに聞こえた。



「あぁぁああ!!!!」


ナイフを拾い上げ、体を引きずりながら、僅かな光の元へ手を伸ばし。全て失っても尚手を伸ばす愚かな自分を笑った。


シャンクスとの間にできた隙間を、トゲ付きではあるが埋めてくれたのはジョバンニの暖かさだった。それが全て罠で、嘘だったとすれば、彼を想って下した一大決心も、あの時二人の背中にできた傷も、なんの意味も無かった事になる。


意味が無い?

いや、あの男が、
ジョバンニだった男が、教えてくれたじゃないか。非力な女が乗っていれば面倒を起こし時に船を滅ぼすと。
失った物を数えても、どんなに思い返してもシャンクスの傷は消えない。傷つけた事実は変わらない。意味ならば此処にあるじゃないか。


きっとこれから先も同じ事は起きる。
あの日のように砲弾は飛んでくる。

誘き寄せるための餌にされ
こうして容易く罠に掛かり
救いに来たあの人は
その度に傷を増やし続ける

愛を与え合うだけ
その度に痛みは増し、
あの日のように、
互いの心にも消えない傷を作り。


そもそも隔てられた異なる世界を、こうも簡単に跨ぐべきでは無かったのだ。そうすればあの人はあの人で、私は私でいられた。私が数々の選択肢を間違える事もなかった。



立ち止まったそこは、ステンドグラス越しに刺す光が十字架を照らす、小さな祈りの場であった。

聖母か、はたまた女神か、
色とりどりのガラスの中央で微笑む彼女から降り注ぐ光があまりにも優しくて、ここが私に差し伸べられた手なのだと確信した。



「ああ、嫌だなぁ」


優しげな彼女の微笑みは、認めるわけにはいかない本心を簡単に吐き出させる。うまく動かない身体は絶望ばかりで空っぽだったが、その女神が見せた最後の美しい時間と、どこまでも追ってくる馬鹿な男の確かな愛が、最後の力を与えた。



永遠に苦しめるなんてごめんだ
どこまでも逃げなければ

追ってくると言うのなら
追えぬところまで



「ごめんねシャンクス
全部間違ってたわ。全部。最初から」



光が降り注ぐ場所で膝をつくと、銀のナイフを高く掲げ、胸の中央に向かって降り下ろした。





 






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