天使像の涙
好きで女を漁っている訳ではなかった。
幼少期より共に過ごした女は、
家族のいない寂れた家で一人逞しく過ごしていた。
不運早死にという妙な家系で、
一族は皆、争いに巻き込まれ亡くなっていったのだという。
ある日唯一の宝があると広げて見せた一枚の紙を、遺伝子の歴史だと言い彼女は愛しそうにその線をなぞった。
最下にある彼女の名前、そこから亡き母へ、祖母へ。遡り続けた頂きにある名前を起点に、見た事もない難読な文字へと変わる。
「この人はね、違う世界から来たんだって。内緒ね」
たかだか活字を見ているに過ぎないのだが、彼女の瞳は確かに家族を見つめる穏やかなものだった。
しかし彼女を包む実際の空間は、無機質な物悲しさに溢れ、古びた紙から目を離し天井を仰ぐ僅かな距離で、眺めていたのはただの字で、現実には家族などいない事を瞬く間に思い知る。
穏やかだった余韻を残しながらに流れる涙は、心臓をえぐるほど悲痛なものだった。
異世界の血が忌み嫌われているのね、と語る女を子供ながらに守ると決めたあの日から、全ての決断は女のためになされた。
誰にも傷付けられぬよう、守れるよう、権力と富を勝ち取り、悪党どもは闇討ちにして。全ては平穏と平和をあの女に捧げるためだった。
どんな手段も選ばないという行為が、
平穏と真逆へ走り出した事にも気がつかないほど我武者羅だった頃、平和への憧れで病んでいた私を捕まえたのは、怪しげな黒装束の男だった。
「富も権力も貪欲さもお持ちの貴方にこそ相応しい」そう言った男は異世界伝説を語り始めた。
そこにはなんの争いもなく海賊すら存在しない、平穏で煌びやかな世界なのだと。そしてそこから希に落ちてくる女がいるという事を。
それ以来、
女という女全てを漁った。
この男はその異世界伝説を信じ、とある儀式を持ってその異世界へ旅立とうとする集団なのだと。そのために必要な異世界の人間を得るために、私の人望とコネクションが欲しいと。
異世界の人間を献上した者は、一番にその世界へ行ける権利が与えられると。
いくつもの名前、いくつもの人格を使い分け、どんなに手を汚そうとも、地位と権力を得るために捨てられる物は全て捨て、形振り構わず生きてきた半生を振り返るこの男もまた、戸惑いと激情の中を駆けていた。
わざと複雑に通路を進む中、追ってくるであろう赤髪をまくように、城外へ出るための通路を行く。
人の気配がないことを確認して進んだ筈が、ちらりと見えた人影に緊張感が一段と増す。 ところが恐る恐る近寄ったそれが、先程の女である事に気が付くと溜め息をついた。
「…狂ったか」
祭壇への道を閉ざす女には目を瞑り、跨いで行くと次なる最後の扉に手を掛ける。
人生の最大の目的を失っても尚、生き逃れようとする自身に笑みすら浮かんでしまう。こうして何人の女を虚ろにさせてきただろうか。
その報いであるというのなら来世でも償うが、今は最後にと、往生際の悪い足はかつて愛した女を回想し、外へ向かう。
ジョバンニは到底扉には見えないレンガの壁を、渾身の力で押し開いた。
日の出の柔らかい太陽光が身体中を包む。閉ざされた場から広がる潮騒。
だがおかしな事に、
明らかに不快な衝撃がそこには混ざっていた。両足に走った激痛に回想を始めた脳が、二発の銃声を思い出させる。
「殺してやりたいが船長の仕事を横取る訳にいかねぇ」
鋭い目で睨み付けるその男の足元には、何時間もここで待っていた事が容易に解るほど、沢山の吸殻が転がっていた。
「…何故だ」
苦痛に顔を歪めるジョバンニの前に現れたのは、レッドフォース号の副船長、ベンベックマンであった。
きっと、赤髪海賊団の誰もがこの男を仕留めたがっていたに違いない。
怒りのまま、目的だけに走りたかったクルー達に総動員で乗り込む必要はないと、幹部以外の大半を出航の用意に向かわせ、残りを城内待機にするものだから、誰もが煮えたぎる怒を押し殺しては頭を働かせていたのだった。
中央の巨大なシャンデリアを撃ち落としたヤソップは、煌めきながら砕け散る水晶の粒に、冬島のダイヤモンドダストを見ていた。
珍しく語り合った夜、自分の掛けたあの一言が、追い詰める要因の一つになりやしなかっただろうかと、残骸を前にしても天井に狙いを定めたまま、顔は歪んだきりだった。
蜂の巣をつついた様に城から出ていく人々に逆らって、空になった城に初めに乗り込んだのは、赤髪団のコックであった。
冷蔵庫に雪だるまを詰め込んで子供の様に笑うユメから、笑顔を奪ったのはどいつだと黙って戦線に乱入し、危険を察知していち早く逃げ出そうとしていた従者のレポレロと出くわすと、フライパンで重い一撃を喰らわせた。それを止める者なんて誰一人いなかった。
それぞれがユメに対する想いを胸に戦っていた。 副船長ベン・ベックマンも例外では無い。
出会う筈も無かったユメが乗ってからというもの、船長がもう一人増えたような手を焼いてきたが、破天荒で全くめちゃくちゃなユメに惹かれているのはベンも同じだった。良くも悪くも子供だ。あの無邪気さにあてられたのかもしれない。
だが地下で眠る女にその想いが届く事は無く、ただ島の守り神だけが雨のような涙を流していた。
ドンファンの逃亡を睨んでいたベンは、煙草に火を付けると静かな怒りを胸に、入り口とは真逆へ足を進めていた。
逃がさねぇ と小さく吐き捨て、
弾を込めながら芝を踏んで行く。
案の定隠し扉とおぼしき痕跡のあるレンガを、島の裏にあたる崖に見つけると、それを的にライフルを構えてひたすら待ち続けていた。
そして今。
待ち続けていた瞬間が
ようやく目の前に現れたのだ。
込み上げる怒りを捩じ伏せるように、
熱の残った銃口を男のこめかみに押し付けると、情けない叫び声が上がる。
とどめを刺す役目ではないと自覚していても、壁の崩壊音とお頭の声が聞こえていなかったら、危うく引き金をひいていたのかもしれない。
銃声による知らせを聞いたシャンクスは、力のままに壁を打ち砕き、ついに憎き男を視界に捕らえた。
「…最早ここまでか」
「言え。何故ユメを狙う」
「異世界に通ずる道を探す者は、この世に山程いる」
「なんのためだ」
「愛する者に平穏を。愛する女と平和に暮らすためだ。争いに明け暮れ、奪うばかりのお前等には解らないだろう。
先祖の代より争いで命を落としてきた不運な家系の女を、その運命から救うためだ。…守り抜けばいいとでも言うのだろ?しかし誰もがその強さを持っていると思うな」
「ユメは何処にいる」
「探してみろ。隠し通路のどこかだ。女は自害した。まだ助かるだろうが…あのまま死なせてやれ。
女の存在はもう異世界を信じる者たちに知れ渡った。狙われ続けるだろうこの先に平穏は無い。覚えておけ、悲劇は必ず繰り返すと。それでもお前は守れると言い張るのか」
「思いに従うまでだ」
「ならば」
証明してくれ、と。
そう呟いた男が手渡したのは、古い永久指針だった。
「お前の命運は島の神に託す。あと一つ、エルヴィラはまだお前を待っている」
そう言ってシャンクスは、掴んでいた男の服を手放し、波打ち付ける岸壁へと葬った。
「総出で探すか」
「その必要はない。いつでもユメの元にたどり着くのは俺一人だ」
太陽だけが、
いつもと同じ
ガルニエの朝を始めていく。
首謀者がいなくなる事で、事件は簡単に終息した様に思えた。しかし赤髪海賊団に残った爪痕はあまりに大きく、解決には至る事はない。
男が出てきたであろう入口から壁を抜けてすぐ、ステンドグラスの前でシャンクスが目にしたのは、
おびただしい血の絨毯と、
あの日のドレスを纏ったユメ
そして胸に突き立てられたままのナイフであった。
追えば追う程血を流すのか
なあ、ユメ
冷えた身体を抱き上げ、
静かに、綴じられた瞼を見つめた。
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