B面
bgm, Michael Bublé/La vie en rose
6 mix tape ぴょんと鳴くうさぎ
上手く送れなかった毎日でも、
こんなに朝が来るのでは流石に慣れる。
食事が喉を通らなくてもお腹はすくし胃も痛む。
何か食べなきゃで口に入れればきちんと身体は欲を伝えてくれるようになった。恋愛コラムを読んでもへぇそうなんだと思うだけで衝動的に破いたりはしないし、週刊誌のスクープは目を引くネガティブワードを並べているだけで相変わらずお好きねぇとしか思わない。金曜日のラジオが流れれば、勘ぐることもなく元気そうな声で良かったと安心した。
自分の事だけを考えた自炊にも慣れたし、今日はそうだな、スーパーじゃなくて無農薬マルシェのお野菜ばかり食べてみようか。
本場は知らないけれどパリジェンヌみたいにワンプレートで優雅に、シンプルに。絵本のうさぎも大喜びなサラダプレートとか。……あれは……フランスじゃなくて……イギリスだったかな。あと珈琲は苦手だけど、今は何故だか泡だらけのカプチーノが外で飲んでみたい。
買い物の前に入ってみた新しいカフェのテラスで、初めてのカプチーノを頼む。
新人らしき店員さんはラテアートを練習しているからリクエストを下さいと言って、夕食のことを忘れられない私の口からはウサギが飛び出した。
ごめんなさいと謝られたカップの中にはピースサインによく似た形の緩いうさぎがルンルンとしていて、思わず笑う。下手くそだから笑ったのではなくて、心なしか、半円をふたつ並べたような独特の口元がひざしのヒゲによく似ているからだったのだけど、店員さんは恥ずかしそうに奥へ消えていってしまった。
熱くて中々口を付けられなかったけれど、やっと飲んだカプチーノはとても苦かった。シュガーポットを開けてみたものの、入れてしまえば可愛いアートが消えてしまう。どうしたものかと考えて、とりあえずもう少し冷まそうと本を開く。男の人に声を掛けられたのはその時だった。
店の中で一人コーヒータイムをしていたらしい彼は私が入ってくるのを見てから声を掛けたかったんだよと微笑んでいる。そうですかと答えれば、コーヒーだけでいいのか、ケーキを御馳走させてくれないかなと言う。今は一人を楽しみたいのでごめんなさいと軽く会釈をすれば、思ったより引き際良くそれはすまないねと謝られた。
まだそこまでならナンパにしては感じが良いなと思っていたけれど、それにしても、そのラテアートはあんまりだねと笑われたものだから、印象がくるりとひっくり返ってしまった。
――私は、おヒゲが可愛くて大好きです。
そう笑って答えた後になって、これはヒゲじゃなくてお口だったわと間違いに気が付いたけれど、そんな事がどうでも良くなるほど驚いた私は、数分後には害していた気分が綺麗に攫われてしまっていた。
「よォ久しぶり。……珈琲は苦手なんじゃなかったっけ?」
本物の髭がニヒルな揺れ方をする。沢山傷ついてきたくせに、大好きだった人の声も目の色も、全てが薬のようにざわつきを温めていた。
「久しぶり……飲んでみたくて挑戦したけど駄目だったの」
「代わりに飲もうか?」
「……いいの?」
「Sure.」
そそくさとどこかへ行った男性と入れ替わるように向かいへひざしが座り、店員さんから受け取ったメニューを片手で開く。次は何が飲みたいかと聞かれて、カミツレならカモミールだったかしらとハーブティーを頼んだ。
「どうしてここにいるの?」
「見えたんだよ。絡まれてたろ? ああいうの断るの苦手だったなと思って」
「そんなこと、ないよ。ちゃんと言えるようになった」
「ホントかァ? 笑って誤魔化してるだけじゃねぇのォー?」
「だってこんなに可愛く描いてくれたのに笑ったのよ? ムカッとしたから、私は好きですって笑って言ってやったの」
「オゥそいつはグッジョブ」
運ばれてきた新しいカモミールティーには特別なハチミツが添えられていた。木作りのスプーンに絡ませて、くるくる溶かす。
動揺と妙な甘さ、何処か変わったひざしの表情と一緒に。
温くなったカプチーノにやっと手をつけたひざしは、ラテアートを見るなり「フゥン。俺似」とさらり、口をつける。いたたまれなくて目を逸らしたのに、緩んだ意地悪げな顔はいつまでもこちらを見ている気がした。
まだ少ししか話していないのに、
明らかにあの頃と違う。
こんなに自然に思った事を話せる感覚ではなかったのに嘘のように軽やかな会話。あの日あんな形で別れを切り出した自分の口から出たとは思えない、感じたままを伝える素直な思いが勝手に飛び出していった。笑って誤魔化したんじゃあという、ちょっとした意地悪も気にならない。冗談だと解るからこそ楽しくなれるような、早く伝えたくなってしまうような彼らしい橋渡しで、むしろ小洒落ているように感じてこちらが照れてしまうくらいだった。
同じひざしなのに、全く違う人と話している気がする。
それでも相手はひざしなものだから、甘くて甘い。
私は、ハチミツが華やぐこの香りを知っている。
……例えるなら、
私を喜ばせるために着ぐるみを着た恋に盲目な彼が、
夢中で想いを伝えてくれる素敵な勘違いの味。
緊張して震える、
不器用で上手く噛み合わないキス。
世の中にはこんなに沢山の人がいるのに、
どうして私なのか、
理屈がよく分からないのに幸せな味。
何処か違うと言えば他にもある。
都合が悪い事や気まずい話には首を突っ込まなかった彼だったのに、互いのカップが半分程に減った頃、突然にメッセージは見ているかと聞かれた。
「あ……少しの間ブロックしちゃってそのまま忘れてた」
「そうだと思ったぜ」
「ごめんね、なにか大事なこと送った?」
「あァ。パンツの色とかな」
思わず紅茶を吹き出しかけてペーパーナフキンで口を抑える。バカと悪態を着いても、何かおかしな事が? とでも言いたげにケロリとしているものだから思わず笑ってしまった。
「それで、何色デスカ?」
「……く、ろ」
「フワーオ……セクスィ」
一体何なのか分からない馬鹿げた悪ノリに、ノリノリの相乗りを。二人してクスクスと、それはあまりにも自然で、方意地を張って素直になれなかった私達とは程遠い何かだった。
「この後はどちらへ」
「買い物するの。少し先に農園野菜マルシェがあるって言うから行ってみたくて」
「へぇ〜小洒落てんねぇ。それでウサギさんって訳か、成程。送ろうか?」
「……時間は大丈夫なの?」
「気付いちまったんだよなぁ、時間は作るもんだってェ」
「どうしたの? ひざしができる男みたいな事言ってる」
「解っちまう? センキュ」
「褒めてないったら」
ひざしの真顔の口元が、カプチーノを煽るカップの底で見えなくなり、浮かんでいたラテアートが飲み込まれていく。
写真も撮っていなかったものだから、
あと少しだけ見ていたかったなぁと憂いた瞬間のこと。
ヒゲに泡をつけた、
あのうさぎによく似た風合いが現れて、
ぴょおんと鳴いた。
「何それ、うさぎは鳴かないったら」
「お、大ウケじゃん。あと何回か使えるな」
「三度目はありません」
「ナァニ? あと二回デートしてくれんの? マジ?」
「解ったから! 恥ずかしいから早く拭いてったら」
紙ナフキンを押し付けて、約束ほどは拘束のない淡い期待の余韻を味わう。そしておもむろに渡された車のキーをまじまじと見つめる間に勘定を済まされて、やられてしまったと鮮やかな手口にポカンとした。
駐車場に着くまでの間、カップから飛び出したうさぎの事と、すっかり変わってしまった二人の事、久しぶりに隣を歩く未知の感覚に見舞われていた私は、ずっと胸の辺りがフワフワとしていた。
(前のページ) (次のページ)
mix you.