本命の花





冬も真っ只中の2月。
午後の授業まで教室で名前と硝子と五条は机を囲んで、特に話題といった話題をする事なく、個々でやりたい事をやっていた。
五条は椅子に寄りかかりながら携帯を弄り、硝子は肩肘をつきファッション雑誌に目を通し、名前は赤点だった古典の補習プリントを、机に顔を伏せながら解いている。

「…分からん」
「馬鹿は古文も解けねーのか。…ったく、どこだよ」
「…ここ、分かんない」
「ここはこの形容詞使うやつだろ」
「あ、なるほど」

一点の謎が解けるとスラスラと筆は走り、出来た!と言うのにそう時間はかからなかった。名前は五条にありがとう!と笑顔で言うと、五条は照れくさそうに別に、と言ってまた携帯に目を移す。
硝子は二人の様子を見て、少しずつ関係が変わっているのを感じる。今までなら名前は馬鹿と言われただけで怒っていたし、五条は名前に勉強を教えたりはしなかった。
…私が見ていない間に何があったんだ。この前、鍋パーティーをした時に揶揄われてるだけと名前は言っていたが、五条の様子を見ると…違う気がする。
少し謎に思いつつも、硝子は二人の様子を見守る事にしたが、自ら渦の中に片足浸かることになってしまう。




雑誌を捲る硝子は、ある特集ページを見て「あ」と何かに気づいた声を出す。名前と五条はその声に反応し、どうしたの?と声をかけると、硝子は特集のページを広げて机に置いた。
そこには【ハッピーバレンタイン特集!男心を手作りチョコでゲット!】と大きく書かれている。

「そういえば明後日バレンタインじゃん。名前、一緒にバレンタインのチョコ作ろーよ。お菓子作り教えて」
「いいよ、硝子が頼ってくれるなんて嬉しい!」
「あ、そういえば言って無かったんだけど、最近彼氏出来たんだよね」
「えっ本当!?…まさか前に言ってた、実習先の?」
「そーそー。この前告白された、イェイ」

硝子ははにかむように笑ってピースをする。
年末、名前が硝子とご飯に行った際に「そういえば気になってる人が居るんだよねー」とサラッと恋愛話を始めたのだ。
人の恋愛話を聞くのに慣れてない名前は、少女漫画を読んでる気分で話を聞き、ドキドキしていた。進展あったら教えてね!と今後の展開に興味津々だったのだったが、次にハッピーエンドを聞くとは思ってもいなかった。

「えーっ?!…おめでとう硝子、バレンタイン協力するよ!」
「協力っていうかー、名前もさ、本命作ろ?」
「え…いや、本命!?」
「……何、名前って好きなヤツ居んの?」

硝子の衝撃の発言に、二人の会話の間に五条が割って入る。
それに名前は動揺を隠せずにいた。

好きな人に、私に好きな人が居る事を知られてしまった…!

名前はお決まりになってきた硝子のユルい口に向けて、シーッッッと自分の口元に指を当てて見せると、硝子はア、ゴメン。と音を出さずに申し訳なさそうな顔をして、口元に指を当てるジェスチャーする。

「ち、違っ!居ない!居ないよ、そんなの!」
「…何でそんな動揺してんだよ、ぜってー嘘だろ。好きな人って誰だ」
「好きな人なんて居ないって。居ても五条の知らない人だしっ!」
「呪霊とおままごとやってたヤツがパンピーと仲良くしてたワケねーだろ。絶対高専の関係者に決まってる、教えろよ」
「だから居ないって……あ!そういえばテストのプリント提出忘れてた!!」

名前は立ち上がって先程出来上がった補修のプリントを持ち、走って教室から出て行った。

…逃げやがって、アイツ。
五条はチッと舌打ちをする。あんなに動揺して逃げるなんて、嘘もバレバレだ。何で俺に言わねーんだよ、ていうかそんなに言いたくない相手なのか?
身近な男と言えば…今日任務で居ない傑が怪しい。名前と傑は術式も似ていてよく絡む事も多いし、傑には気を許してる。
五条は硝子を見ると、目が合ったので「…もしかして傑?」と聞いてみた。

「知らなーい。好きな人居ないって言ってたじゃん」
「嘘つけ、硝子のさっきの言い方は絶対知ってるやつじゃん」
「知ってても名前の事だし、彼女の口から聞きなよ。また怒られたくないしな。うじうじしてる名前見てると、つい口が開いちゃうんだ」

…その発言、好きな人なんて居ないと言っていた彼女の発言は嘘で、好きな人という存在が本当は居ると言ってる事になるくね?と思ったが、指摘するとこれ以上は何も言わなくなるだろう。あえて五条は言わずに口を紡いだ。
そんな五条を見て、硝子はここまで問いただしてくる事に不思議に思い、疑問をぶつける。

「五条はそんなに名前の本命が気になる?」
「別に、面白そうだなと思っただけ」
「面白半分に聞いてるんならやめときなよ。名前の中で恋愛は一番幻想的なんだ。五条が現実的にさせてあげるんなら、別だけど」
「…どーいう事?」
「恋愛に対して臆病な名前に、悲しまない運命を、アンタが手を取って進ませてあげるんなら良いんじゃない?ってこと。まあ…名前は拒否すると思うけどね」
「俺が、名前が好きな人と幸せになれるように手伝えって事か?…やってやろーじゃん」

やる気満々な発言をする五条の顔は、言葉とは違って少し複雑そうな顔をしているように硝子は見えた。
そういう意味で言ったんじゃないんだけどな…。



バレンタイン前日、20時。
硝子が明日彼氏に会うとの事で、彼氏が好きらしいチョコカップケーキを作る事に。名前も同じチョコカップケーキを五条と夏油と、夜蛾先生にも。

「名前センセーお願いします〜」と硝子はお辞儀をした。硝子はよく名前が作ったお昼弁当を摘み食いしたり、夜ご飯を一緒に食べたりと、彼女の料理の技術力に魅力を感じていた。
そんなセンセーの言う通り、チョコレートをザクザクと刻んでいくが、硝子の手つきは中々器用で名前は感心する。

「硝子上手いじゃん」
「まあ、実験でメス入れる時もあるし。刃物の使い方には慣れてるよ」

包丁をメスを持つときのように構える姿は、まるで刃物の達人の姿だった。
要領よく進み、溶かしたチョコとは別に少し大きめにカットしたチョコをアクセントとして混ぜ、出来た生地を型のカップに流し込んでオーブンに入れる。
硝子はコーヒーを、名前はお茶を飲みながらオーブンの前で様子を見つつ、出来上がりを待つ事にした。

「そういえば、この間はごめんね。あのクズ居るのにマジでポロッと出ちゃった」
「ポロッとってもう…。別に良いよ、硝子には高専来てから相談も、愚痴も、ずっと聞いて貰ってたし。…それに諦めた方がいい事を、自分の我儘で思い続けてるのは本当だし」
「…名前は、本当にそれでいいの?叶うんなら、叶えたい方がいいじゃん。付き合うの楽しいよ?」
「付き合うって恋人って事だよね?」
「そうだね。恋人になると、一緒に居る時間が長くなって、想いを伝えあったり、手繋いだり、キスしたり、デートしたり…好きって気持ちを確かめるんだよ」

私と五条が好きという気持ちを確かめる…?
想像する事が出来ず、頭の中で五条が嫌な顔をする想像しか名前には出来なかった。
いやいやいや、恋人関係になるなんて夢もまた夢。
まず両思いになる可能性なんて無いよと否定するが、硝子は一つの可能性を挙げた。

「あそこまで名前の好きな人を気になってる姿、そして最近のスキンシップの激しさからして、五条の気持ちが名前に向いてるのは確かだと思うよ」
「そう?意地悪されてるだけだよ。恋愛初心者だからって反応に面白がってるし…」
「意地悪なら今までもされてただろう?側からみれば距離が近くなっていってるんだよ。可能性はある」
「硝子なんか探偵みたい…」

見解に素直に驚く名前を見て、いやそこまで難しい事言ってないんだけど?と単純な脳を持ってる名前に対して硝子は少し心配になる。
しかし名前は「でも、可能性ないよ」と苦笑いを向けた。

「もし天地がひっくり返って恋人になる運命があったとしても、私には無理だよ。まず五条家の人達に知られたら非難されるに決まってるし。まだ無くなった特級呪具も見つかってないのに、五条とイチャイチャしてたら怒っちゃうでしょ?島流しされちゃうかも」

ハハッと空笑いをして面白くも無い冗談を言う名前に、硝子は無理して笑うなよと言うと、エヘヘと苦笑いをした。

「ちなみに、その特級呪具の在処って分かんないの?名前ん家のどっかにあるんじゃない?」
「んーそんな特級呪具見たこと今までなかったよ。それに、もう帰る家はないし」

特級呪具であれば、呪具から放たれる呪力の波動によって気付いていただろうが、そんな物に出会った事は無かった。
祖父が亡くなってから住んでた部屋は解約し、父や祖父の形見の最低限の物だけ持って、祖父の知り合いの家に住んでいた。
だから無くなった呪具がどんな形をしていたのか、大昔何処に名字家が住んでいたのか等、未だに闇の中。探すにしても、今まで出会った呪霊達に手かがりはなく途方に暮れ、五条と出会ってから、もうそろそろ一年が経とうとしている。
どうしようも先の見えない話になってしまい、名前は話題を変えようと「そういえば硝子と彼氏との話聞かせてよ!」と興味津々な顔を見せたので、硝子も話を変える事にした。



23時を回った頃。
チョコカップケーキは無事に出来上がり、硝子は明日も早いとの事で部屋に帰って行った。
名前はキッチンに残り、自分用に食べたいと思っていたトリュフチョコを作りつつ、冷蔵庫に入れていたカップケーキのデコレーションをして、ラッピングを一つずつ丁寧に包装していく。
夏油と夜蛾先生の義理用には、アイジングをオシャレにかけて大人っぽく。五条にはハートのチョコをトッピングし、アイジングをかけてとびっきり甘く、そして本命らしく。
ハートなんて使ったら変に思われちゃうかな?でもバレンタインだし、変には思われないだろう。
…明日、ドキドキするなあ。

「…よし、出来た」
「お、出来た?」

後ろから声がして、名前は驚いて背筋がピン!と伸びる。後ろを振り向くと、スウェット姿の五条がマグカップを片手に持って立っていた。

「び、っくりしたー。居たの…?」
「ホットミルク飲みたくてさー。音立ててんのに全然気づかないでやんの。んで、俺のチョコは?」
「…なんで貰う前提なの」
「はあー?今までどんだけ助けてやったと思ってんだよ。それにこの前女と別れたから、チョコくれる相手居ねーんだよ」

残念そうに言う五条の言葉に名前は一瞬、大きく目を見開いた。

「え…五条って、彼女居たの」
「居たけど?」
「そう、なんだ…」
「まークリスマスイブに別れたんだけど?任務だっつーのに、会えないの?とかめっちゃメールくるのうるせえんだよマジ。見合いで会った金目的なのにしつけーの、この女」

面倒くさそうな顔をした五条は「あ、連絡先消すの忘れてた」と携帯を操作し始める。名前は彼の言葉に呆然と、言葉が出なくなってしまった。
今まで五条に彼女が居ないと、心のどこかで決めつけてた。しかしこんなカッコ良い男、彼女居ない方がおかしいじゃん。今は彼女が居ないと言えど、恋愛関係になった知らない女の子が居る事に、胸の奥がムカムカと、ズキズキと、痛い。

「つーか、そろそろ教えろよ好きなヤツの名前」
「…だから居ないよ」
「ウソつけ。硝子の話し方といいウラは取れてんだよ」
「別に居たとしても、何で教えなきゃなんないの。ご、五条だって付き合ってる人が居るとか教えてくれなかったじゃん!」
「はあ?別に聞かれてもねーし、どうでもいいだろ」
「…なら、私が誰を好きだろうと五条には関係ないじゃん。どうでもいいでしょ」

五条は名前を睨むと、名前も負けじと五条を睨んだ。二人とも意地の張り合いが始まるが、五条は痺れを切らしてハァとため息を吐いた。

「俺より先に傑に教えたら許さねーからな」
「……ハイ」

それだけ言い残し、彼はマグカップを持ってキッチンから出て行った。
やばい…もう、バレてるなんて言えないじゃん。
夏油には早めに事情を説明しておかなければ。

好き、という真実を言えない縛りに苦痛に感じながら、未だに五条の隣に他の女の子が居たことにムカムカとモヤモヤが収まらない。
今までの女の子には、どんな顔を見せてたの?どんな話をしてたの?私より、優しくして、どんな事をしたの?
名前の中に今まで無かった感情が湧き出て、ただそれが何という名前の気持ちなのか分からなくなり、痛みを繰り返す心に包帯を巻きつけて、その分からない感情を押し閉じ込めた。


**


バレンタイン当日。
名前は朝一のランニングが終わって寮に帰ると、玄関口で夏油と出会った。
「今から任務なんだよ、人使い荒いよねえ」
困った顔を向けてきた夏油に、名前はちょっと待ってて!と小走りで廊下を走って昨日作ったカップケーキを取りに行く。そして、また玄関まで戻って夏油にラッピングしたバレンタインチョコを渡した。

「夏油、はいコレ。ハッピーバレンタイン!」
「…本命でいいのかな?」
「義理に決まってんでしょ。でも感謝は本命並みに入ってるよ」
「フフ、それは嬉しいね。しかも名前の手作りだろ?美味しそうだ、ありがとう頂くよ」
「いえいえ。…あ、それと!あの、この前色々あって五条に私が好きな人が居るってバレちゃって…。五条が俺より先に傑に言ったら許さねー!って言ってたから……知らないフリしてて貰ってもいい?」
「へえ、なんだか私の知らない所で面白い事になってるじゃないか。いいよ、合わせる。今度詳しく教えてくれないか?」
「うん、分かった!ほんとありがとう〜!!」

素直に名前の意見に同意してくれた夏油に感謝の気持ちで一杯になり、思わず嬉しくて夏油に抱きつくと、驚いた顔をして「名前が抱きついてくるなんて珍しいね」と言われた。
…はっ!と名前は抱きついた腕を解く。
最近五条のパーソナルスペースの距離が近すぎて、自身の距離までもがバグっている事に気づき、ゴメン。と言うと「いや逆に嬉しいけどね」と名前の頭を優しく撫でた。
その優しさに、心に強く縛っていた紐が少し緩んでいく。
…夏油に優しくされると、どうしても弱音が出てしまう。

「ねえ夏油、私…五条に恋人居るって知らなかった。恋愛って難しいんだね」
「……無理して笑わなくて良いんだよ」

夏油の言葉に、無意識作った笑顔の筋肉の力が一気に抜けていくのが分かった。
ああ、なんでもお見通しなんだなあ。





23時を回った深夜。
名前は昨日冷蔵庫に入れて出来上がったトリュフを食べながら、談話室のロングソファーに座ってテレビを見つつ、本命の…好きな人の、帰りを待つ。

今日の寮は静かだ。
夏油は朝の任務が東北だった為に泊まり、硝子も彼氏の家に泊まってくると外泊届けを出していた。先輩達も任務に出かけたりで、相変わらず寮の中はがらんとしている。
五条も早朝、任務に出かけていたらしく【今日って寮帰る?】とメールを送信すれば【日付超える前には帰れるはず】と返信がきた。
名前もお昼に夜蛾先生と任務に向かったが、簡単な任務で直ぐに終わった。その時に先生にもチョコを渡せば、とても喜んでいた。
本命の帰りを待つが、しかし育ち盛り。動けば動く程、眠気は襲ってくる。名前は帰りを待ちつつも、夢の中に意識が持っていかれそうになっていると、頬をツンツンと押してくる感覚が伝わり、閉じかけた意識を覚醒させた。

「あ、起きた」
「ん…五条?…おはよう……おかえり」
「…ただいま」

ふわふわとした意識の中で、彼に焦点を合わせる。朝…じゃない。カーテンの隙間から見える空は真っ暗だ。
五条は名前の隣に座ってソファにもたれた。

「メールまでしてきてなんだよ、待っててどーしたの」
「どーしたって、コレ。ほら、ハッピーバレンタイン」

昨日作ったラッピングしたチョコカップケーキを五条に渡すと、彼の表情は少し驚いた顔をしていた。

「…チョコくれんの」
「うん…………義理ね」
「……義理な」

言葉を往復すれば、五条のお腹からは空腹の音が聞こえてきた。食べていいよ?と名前が言うと、彼女の隣に座って、お構いなしにラッピングした袋を開けて口にする。
義理だとは言ったがドのつく本命だ。可愛くハートのデコレーションがされているが、目もくれずに口に入れて甘ったるい味を楽しんでいる顔を向ける。

「ウマ。やっぱ名前の料理美味いわ」
「ありがとう…良かった。何飲む?コーヒー?紅茶?」
「カフェオレあんだろ、あの甘いヤツがいい」
「甘いモノ食べて甘いモノ飲むのは同意出来ないわ」
「別に同意なんて求めてねーよ」

名前は談話室に備え付けてある客用のコップに、スティックのカフェオレの粉を入れてお湯を注ぐ。
良かった、ハートのデコレーション気にしてないみたいで。とホッとするが、真意の想いが伝えたくても伝えられないこの関係に、もどかしい気持ちになる。本当は、好きだよ、本命だよ、私の気持ち受け取ってください。…なんて言ってしまいたいが、ぐっと堪えた。

ムシャムシャと食べる五条にカフェオレの入ったティーカップを出せば、それもゴクゴクと飲み干してしまう。

「マジ昼間っから何も食べてねーし、頭回んねーしでやべー足りねー」
「そんな大変だったんだ」
「今日立て続けに三本だぜ?ホントこの業界人少なすぎだっての」

疲れた身体をソファに預けてダラける五条は、先程飲み干したカフェオレを継ぎ足す名前の顔を見て、以前から気になっていた事を口に出した。

「なあ、好きなヤツにもあげたの、チョコ」
「…好きな人居ないって」
「もういーだろ、そのウソ。くどい」
「……」
「…もしかして好きなヤツって傑?」
「違うよ…夏油はおにいちゃんみたいな存在だし」
「じゃあ誰」
「ご、五条が…知らない人」
「ふうん……んで?あげたの?」
「あ、あげた、けど…」
「何て言ってた?」
「…ウマいって」
「…あっそ」

不機嫌な顔をみせる五条に対して、名前はソワソワする。誰なのか、までは追求されなかったけれど、これ以上深掘りされてはボロが出てしまいそうだ。
もうバレンタインチョコも渡したし退散するか…と思った時、五条がトリュフチョコを指さした。

「そのチョコなに?」
「昨日カップケーキとは別に作ってたやつ。私トリュフチョコ好きなんだよね」
「…それ、好きなヤツにあげた?」
「え?…いや、あげてないけど」
「……そのチョコ食べたい」
「いいよ、どーぞ。あと一個しか残ってないけど」

名前はテーブルに置いていたトリュフの乗った皿を、五条の方に移動させる。しかし彼は動かず一向に手に取ろうとしない。少し様子のおかしい五条に、どうかした?と声をかけると、彼は彼女の目を見つめた。

「なあ、食べさせてよ」
「はあ?…自分で食べなよ」
「食べさせて」

名前は自分と見つめ合う目から逸らさないサングラスの端から見えるその青い、空のような水の様な色に吸い込まれそうになる。
目を逸らし、言う通りにトリュフを持って口元まで運ぶと、彼はその手を掴み、名前の人差し指ごと口に含んだ。
五条の唇に触れる指に、名前は思わず引こうとするが掴まれた手によって引くことも出来なかった。五条の口の中で蕩けるトリュフチョコに混じりながら、名前の指についたココアを、指ごと舌で舐め回す。

「〜〜っ!ちょっ、ご、じょう、なにして、!」

いきなりの行動に名前の思考は追いつかない。
胸の鼓動は急に早まり、体の体温も急上昇だ。未だに様々な動きをする五条の舌に、指を通して神経が犯され、やめてほしいと五条の目を見れば真剣な目で見つめられ、名前は思わず目を閉じる。

「…んっ…ね、どうしたの…やめてっ」

反応した名前の赤くなった顔と硬直した身体を見た五条は、指を舐めるのを止め、そのまま名前の身体を押し倒し、上に乗った。

「はあ?!ちょっと、本当にふざけないでよ!!」

その行動に名前は焦って目を開ける。両腕は両手で抑えられ、男性には力の差で勝つことはできない。足をバタつかせてもお腹の少し下に馬乗りされ、意味がなかった。

「…ふざけてねーよ」
「何考えてるのか本当分かんないんだけど、離して。退いてよ」

五条を睨みつけるが、真剣な目は変わらない。
何を考えているの?何か気にする事言ってしまった?…それにしても、この行動はおかしい。無理にでも腕に力を入れて抵抗するが、更に強い力で抑え込まれる。

「…これは、ソイツも知ってんのか」
「…は?何言って、」

五条は顔を下ろして、名前の右耳たぶを甘噛みし、そのまま右耳の下から首にかけて舌を張って行く。

「ゃ、っん、〜〜っっっ!!!」

名前は前回と同じように艶かしい声が出た事に、身体が強張りまた目を瞑る。止めたくて腕を動かそうと必死に捥がくが、今だに両腕を押さえつけられてビクともしない。
…何、何でこんな状況になってるの。
未だ右側を犯され、どうする事も出来ず、ただただ身体が正直に反応した。

「…マジムカつく」

耳元で聞こえた五条の声に、身体がビリビリと神経に伝わる。
もしかして、怒ってる…?
素直に答えなかったから、怒っているの?それとも、他に何か気に食わないことがあった?
五条に対してやってきた態度は以前に比べれば素直に接する事が出来る様になったと思ってる。でもまだ素直になれない所は沢山あって、そりゃあ気に食わない所だらけだろう。

でも、この前抱きしめられた時は、胸の鼓動だけでそれは嬉しいとかあったかいとか、そういう気持ちだったのに、今は何故だか、先の見えない事に恐怖しかない。

「好きなヤツの名前教えろ」
「やだっ…言わないっ」
「言えよ」
「や、だ…こ、わいっ……」

好きな人に触れられているはずなのに、口から出た言葉は本心。
右側から離れる感覚が首元から伝わり、名前は恐る恐る目を開いて見ると、好きな青い瞳に吸い込まれそうなくらい見つめてきた。
しかし先程と違い、それはどこか少し悲しそうで、複雑な気持ちになる。
きつく押さえつけられた腕も緩んで、五条は馬乗りしていた身体を離し「悪かった」と言って談話室から出て行った。

* * *


何を考えているか?なんて、考えたくても、考えたくない。

いつの間に好きなヤツとか作ってんだ。
俺の知らない間に、コイツは恋して戦って、強くなって……クソムカつく。

俺に嫌いって散々言いやがって、なのに笑ったりして、可愛くて。泣いても成長して、止まる事をやめない姿が、妙に愛おしくて。
それなのにどこのどいつか知らねー男を好きになって、本命チョコをあげて、美味しいとか言われてよ。
…まあ本当に美味しかったけど。
ソイツに俺が知らない一面を見せていたら。なんて考えた瞬間、身体からドス黒い何かが生まれ、硝子の言葉がふと思い出す。


__ 名前はさー、結構敏感なのよね。だから治療する時に少し困んのよ。特に右耳から首にかけて、ね___

右耳から…首にかけて。


ふと気づいたら、名前は泣きそうな声で怖いと呟き、はっとした。
俺何してんだ、押し倒して。
…は?何で泣きそうな顔してんの。
俺がやったのか?何したんだ、俺。
思わず、謝ってその場から立ち去り、部屋に帰る途中で自分した行動を蘇らせる。

『恋愛に億劫名前が悲しまない運命を、アンタが手を取って進ませてあげるんなら良いんじゃない?ってこと。まあ、名前は拒否すると思うけどね』
『俺が、名前が好きなヤツと幸せにしてやるって事か?…やってやろーじゃんか』

思い返して頭が痛くなる。
あー、やっちまった。好きなヤツと幸せにしてやろーじゃんか。とは言ったものの、何故か自分のモノがとられた感じがして、硝子に言った事とは真逆の事をやっていた。
なんでやっちまったんだ…あー、分かんねー。



* *


バレンタインの次の日、五条と会ったけど、いつもと変わらない彼だった。
いつもと変わらない態度で接してきて、あれは夢だったんじゃないかと、少し思った。でも、心の中では少し五条に対して恐怖を覚えたのは事実で、二人きりになると、またあんな風に迫ってくるんじゃないかと思って二人きりになるのを避けてしまう。
あの時、五条が私に言ったムカつくという言葉は何だったのか、今でも分からない。