呪術の世界へ足を踏み入れても、苦しい事は相変わらず苦しかった。私の知らない所で私の道が作られていて、進めと言わんばかりに嫌な目は向けられるし、歩けど一向にゴールは見えない。抜け道さえないこの人生は私にとって荊路のようで、ちくちくと心を抉る。
そういえば私、なんで生きてるんだろう。
思えば父が死んだ時も、中学最後の年におじいちゃんが死んだ時も、死は近くにあったのに自分が死のうという選択肢は無かった。
母が居なくなった時や小学生の頃に嫌な目を向けられた時、苦しかったけど、ただ受け入れることしか出来なかった。死ぬなんて選択肢は思いつかなかった私は、嫌な事に目を背けては、ぼうっと今まで生きていただけ。
先の事なんて何も分からず途方もない道を歩んでいたら、突然この道を進めと言わんばかりに現れたレール。そのレールに沿って歩けば、今まで以上に苦しくて辛い。自分にとって必要な選択肢を選べば選ぶ程、どんどん苦しくなっていき、逃げ道は無くなった。
歩くだけならば一人で出来るのに、足元はちくちくと尖っていて一人で歩く事が難しくて痛い。そんな痛みから逃れようと周りに頼ってしまう自分が、嫌いだ。
何も出来なくて、人に頼ってばっかで、強くもなれない。
そんなんなら、いっそ消えてしまいたい。やらなきゃいけない事、全部ぽいぽいって放って。一人がいい。もう苦しいのは嫌だ。
……理子ちゃんじゃなくて、私が居なくなっちゃえばいいのに。そしたら理子ちゃんは幸せだし、私は楽になれるかもしれない。
……なんて倒した呪霊の上で、曇った空を見上げた。
「そっちは片付いたかい?」
「……はい。すみません、三級の呪霊なのに冥さんも出る事になっちゃって」
「問題ないよ、見合った報酬は頂いているし。それに今、高専は星漿体の任務で大忙しなんだろう?仕方ないさ」
ニヒルな笑みを浮かべる冥さんは現状を許容しているらしい。確かに現在進行形で一年と二年は付きっきりで星漿体の任務にあたっている。
夏油曰く天元様直々に指名された任務だと言っていた。天元様がどんな人なのか会ったことが無いから、どんな人か分からないけど、夏油と五条は二人の力は高専内でも有名なくらい最強だし、選抜は間違っていないと思う。
昨日、夏油は理子ちゃんが望むのであれば星漿体になる事を拒む手伝いだってすると言っていたけれど……どうなったんだろう…。
朝からの任務はお昼過ぎに終わった。
冥さんとは現地解散し、私は三好谷さんが迎えに来た車に乗って高専へ戻り報告書の作成。昨日沖縄に行ってはしゃいでた事が夢の様だな。
高速に乗って帰路を走る車の中で備え付けられた時計を見れば、14時を過ぎていた。
昨日聞いた情報によると懸賞金のタイムリミットが11時だったから、無事に高専に着いているだろう。同化はもう始まっているのかな。
同化を拒否していない限り、理子ちゃんとはもう会えない。
身近な存在で居なくなったのは祖父が亡くなった以来だ。呪術師として生きていくのであれば、死は背中合わせと思っておけと夜蛾先生から言われていたが、私の周りで今まで死人は出なかった。
誰かが行った任務先で非術師が、京都校の有名な術師が…なんて訃報は耳にするけれど他人事のようだった。
しかし今日、私の身近な人が居なくなる。
理子ちゃんは死なないのに、居なくなってしまった。考えるだけで胸がもやもやとぐるぐると渦巻き、何か他に理子ちゃんが居なくならずに楽しい日常を続けさせる方法があったんじゃないかと後悔が押し寄せてくる。窓の外から見える流れる車に目をうつしながら考えるが、改善策は浮かばなかった。
15時を過ぎて高専の敷地内に到着し車から降りる。東京はまだ春といえど、夏の空気が車から降りると同時に肌に感覚が走るが、それを掻き消すかのように警報音が大きく鳴り響いていた。
「何……警報?」
「不審者が入ったり未登録の呪霊が発見されると鳴るアラートです!もしかしたら、何かあったのかも……!」
焦る三好谷さんの言葉を聞いて、胸がざわつき車のドアを閉めて駆け足で高専へ入る。
そういえば前に夏油がアラートの事教えてくれたっけ。
それを考えると呪霊を操る夏油が未登録の呪霊を出したのかもしれない。と言う事は、未登録の呪霊を出さないといけない状況にあるのか、もしくは夏油が操る呪霊以外の呪霊が出現している可能性が考えられる。
どちらにせよ今この状況下は、星漿体__理子ちゃんが関わっているに違いない。しかし何が起こっているのかは検討がつかなかった。
敵?もしくは同化を拒否していざこざが起きている……?冷や汗が全身から出るような、嫌な予感がした。
高専の階段を駆け上がり、鳥居をどんどん抜ける。後ろから三好谷さんの荒い息、そして以前と鳴り止まないけたたましいアラート音が耳鳴りのように聞こえた。
はやく、早くっ……!
息を切らして階段を登って見えた光景は大量の蠅頭の群れの中、地面に横たわっている人間が一人。
冷たい地面に血が溢れ、その染みが周りを囲んでいた。
…嘘だ、嘘だ、嘘だ。
ちがう、いやだ、そんな、
受け入れられない現実を目の当たりにし、ガクガクと足が震えて足が一歩も進まない。
怖がるな、恐るな。考えろ、受け入れろ。
私は呪術師、死を恐れてはいけない。
手をぎゅっと握って震える足を拳で叩き、足に力を入れて歩みを進める。横たわる人間に近寄れば、崩れるように地面へ座り込んだ。
…私はこの男を知っている。
白い髪の毛が所々赤黒く染まり、高専の真っ黒な制服にも染みの跡が分かる。色白い頬についた血が映え、この現場を物語っていた。
嫌だ、嘘だ、
「…五条………五条ってば!!」
彼の身体を大きく揺すっても反応せず、ただ自分の手のひらが彼の血で染まっていく。大声で叫んでも、一向に返事は返ってこない。半開きになっている彼の瞳は、いつもなら透き通るような青く海の底のような色なのに、くすんで見えた。
やだ、そんな、いやだ、なんで、うそだ、
「名前ちゃん危ない!!!!」
三好谷さんの声に身体が反応し、危険を察して咄嗟に腰に巻いたポーチから短刀を取り出して背後から襲ってきた蠅頭を切る。
周りを見れば遠くにいた蠅頭が私達を囲んでいた。術式を発動し周り蠅頭の動きを止めている間、動けなくなっていた身体に力を入れて三好谷さんへ襲いかかる蠅頭を背後から叩き切る。
蠅頭なんて相手してる場合じゃないのに……!
しかし蠅頭といえど、この数相手にするのは面倒だ。
「三好谷さん、私の後ろに居てください」
彼女を背後に隠し、蠅頭に視線を向けて術式を唱える。蠅頭レベルであればこの量を術にかけるのは容易い…が、いまからやる事は呪いに重みがありすぎる。
…出来るか分からないけど、やってみなければ。
__貴方達の敵は私じゃない。同じように浮遊してるモノ、そして貴方自身。 死ね。__
唱えた瞬間、混乱したように蠅頭達は向かい合っては敵対したようにぶつかり合い、所々で爆発音が鳴り響いて散り散りになった「何か」が地面へはらはらと粉々になって落ちていた。
「……っ、三好谷さん、今のうちに高専へ向かってください、連絡お願いします。あと硝子呼んで来てください!五条が…五条が……っっ」
「分かりました!!」
三好谷さんは焦った顔を見せつつも、私の言葉に反応して高専の校内へと走っていった。
彼女の背中が見えなくなった瞬間、身体にズシっとした重みが管を伝って湧き上がる。その重みを吐き出せば、口の中から血が溢れてきた。頭もズキズキと神経が削がれ眼輪筋がピクピクと痙攣を起こす。
やば、やり過ぎたかも。
万を超えるであろう蠅頭の数は、やはり自死を促す呪いは重みがありすぎる。
しかし奥からどんどん蠅頭は烏合のように溢れ出て来た。
三好谷さんが高専にいる他の呪術師に応援を呼ぶだろうからそれまでの辛抱……だが、現状の具合を見て私があの呪いで誘惑するのは厳しい。
視界に入るだけの蠅頭を一点に集め、止まれと唱えてそこを叩っ斬る。しかし切っても切っても埒があかない。
…こんな事してる場合じゃないのに。五条が、五条が……!
周りの蠅頭を祓い、後の半分は混乱状態を起こさせ視界から遠のいた。最初からそうしていれば良かった、なんて後悔が生まれるが結局祓うのであれば一緒だし、そんな事を考える余裕は無かった。
一段落した所で五条へ駆け寄ると、彼から溢れ出た血を見る度に恐怖で身体がくがくと震える。近寄って身体を抱き寄せ頬に手を触れると冷たい。
死……なんて思いたくないのに、受け入れるかのように脳裏に今までの彼との記憶がフラッシュバックする。
一緒に笑った顔、怒った顔、不機嫌そうな顔、嬉しそうな顔、私を心配してくれている顔。
バカ……最強って言ったのは誰だよ。気をつけてって言ったら誰に向かって言ってんだと反吐を吐いたのはどこのどいつだ。最強が…こんな所でくたばる奴じゃないでしょ、ねえ。
「ねえ五条………目、覚ましてよ……お願い」
視界がぼやけ、彼の頬から唇へと、私から溢れた涙が滴り落ちる。
五条が居ない世界なんて、それこそ私が生きている意味がないじゃん。神様、死ぬなら彼じゃなくて私じゃダメなんですか…。何故彼が苦しまなきゃならないの?一生懸命に人を助けてる彼が、なんで。
五条の身体をぎゅっと抱きしめる。いつもはおちゃらけて私にハグをしてくる彼の温もりが欲しいのに、頬擦りしても体温が伝わってこない。私の全部をあげるから……だから、起きてよ、
「五条のばか、あほ、くず…!ばかばかばか!!こんな所でくたばるヤツじゃないでしょ……?!嫌い………五条なんて……嫌いだ……っ」
「うるせーよ、ばぁか」
乱暴な言葉が、耳元で聞こえた。愛しいあの声が。
幻聴かと思って頬擦りし抱きしめていた身体を少し離すと、彼の瞳はいつも通り透き通るような色をしてこちらを見ていた。
「ご…っうっうう…………ごじょゔ…!!」
「…泣かねーんじゃ無かったのかよ、お前」
「だっでっ…!死んじゃゔだがどっ…!」
「死んでねーだろ、見てみろよ」
五条は横たわっていた身体を自ら起き上がれば、首元を見せてくる。血で真っ赤になって見る姿も無かったはずなのに、どんどんと塞がって治っていく。傷口が治っている?もしかして、これって……。
「反転術式…?」
「説明は後。敵が現れた。天元様の所に傑達は向かった………行くぞ」
「っ………うん!」
腕口でぼろぼろと溢れ出てきた涙を拭い、力の抜けていた足は再び立ち上がる力を取り戻していた。
……泣いてる場合じゃない。今はこの状況を打破する事に集中しなければ。
先程まで死んでいたのではと思っていた五条は、何事も無かったように軽々と走る。後を追うように天元様の元へと向かうが、途中蠅頭がまた溢れかえっていた。
どんだけ放ったんだよ、敵の術師は!!
術式で私達を無視するように唱え、天元様の元へ繋がる薨星宮に向かう為に最下層へ進むエレベーターに乗った。
生きてたとはいえ五条がやられるなんて……敵はよっぽどの実力者なんだろう。そんな相手に、夏油は無事だろうか。理子ちゃんは…黒井さんは……。
胸騒ぎがして、落ち着く事が出来ない状況が焦りを感じさせる。
エレベーターが開き、そんな胸騒ぎが当たってしまう光景を目の当たりにして、再び目から涙が溢れた。
「く、黒井さん…!」
メイド服を着た人がエレベーターを降た先の大広間に横たわっていた。
こんな格好をしてるのは一人しか居ない。横たわる黒井さんの周りには溢れ出た血が染みを作っていて、死というものが理解しろと言わんばかりに頭を締め付ける。
これは、本当に現実なの?
黒井さんの横にしゃがんで状態を見れば、頭に拳銃の玉が貫いたように穴が空いていて、思わず目を瞑った。
死んでる……。
非現実な世界で生きているとはいえ、死を目の当たりにする事はそれ以上に非現実的だ。意味も分からず逃げたい気持ちが押し寄せるが、目を開いて深呼吸し現実を受け止めた。
逃げちゃ、駄目だ。
目を開いたままの黒井さんの瞼を下ろして、立ち上がる。
助けられなくてごめんなさい。でも…その分、私達は先に進まなきゃいけない。
トンネルを抜けて光が漏れる先を走り、見上げると大きな木が目に入る。そのまま、下に向けると、怪我でぼろぼろになった夏油が倒れていた。
一度あれば二度三度ある。まさか夏油まで…っ。
黒井さんの状態が頭を過ぎって、夏油の元に駆け寄り身体を確認すると、ぐったりして胸元を切られているが息はしていた。
「夏油!……っねえ夏油!!」
「……気絶してるだけだ。瀕死状態じゃなさそうだし、硝子に頼んで見てもらってくれ」
「…五条………?」
「俺は、アイツを殺して、天内を連れ戻す。恐らく盤星教の仕業だ」
五条の目の先を見れば、夏油の少し離れた場所に何かがいた血痕が残っており、嫌な予感しか浮かばなかった。もし敵が盤星教が雇った呪術師なら……目的は一つ。
へたり込んだ状態で上を見上げ、五条の顔を見ると、瞳孔が開いた瞳が大きく開いていた。
私もついていく。と言いたかった言葉さえ言えなくなるような重い力が、身体がゾクゾクと恐怖を感じた。
…私は多分、足手まといになるだろう。
足に力を入れて立ち上がり五条と向き合って彼の手に触れた。
…でもこの想いだけは、私のこの悔しい思いだけは持っていって欲しい。五条も夏油も黒井さんも、理子ちゃんも……私は何も守れなかった。恐怖や後悔が押し寄せて、溢れ出る涙が止まらない。
なんで、人が死ななきゃいけないんだ。
「五条……理子ちゃんのこと、お願い」
「ああ」
溢れる涙で彼の顔がぼやける。五条は私の手を握りしめて離した後、私の頭を撫でて元きた道を戻って行った。
……お願い。もう、死なないで。
五条が去って、急いで硝子に来てもらうように電話をかけるとすぐに駆けつけてくれた。夏油に反転術式を施せば、ゆっくりと目を覚まして起き上がった。
「夏油…良かった」
「……すまない……守れなかった」
「馬鹿、まずは自分の身体を気にしろ」
「そうだよ。とりあえず夏油が無事でよかった」
記憶を一つ一つ確認するように意識を覚醒させた夏油は、突然はっとして大きな声を出した。
「…そういえば悟は…っ無事なのか?!」
「うん。今、理子ちゃんを取り戻しに行った。盤星教の仕業だろうから、施設を当たってみるって」
「…悟を追うよ。硝子、名前、ありがとう」
「五条もだけど、あまり無理するなよ」
「ああ」
「夏油……今度は、負けないでね」
夏油にも五条と同じように手を握って、想いを込める。
……ごめんなさい、二人の力になれなくて。
夏油の顔を見れば優しく微笑んだと思うと、何かを思い出したような顔をして、少し険しい表情を見せた。
「…そういえば、名前が前に知らない術師に会った時、口元に傷跡があったって言ってたよね?」
「うん…確か、右の口の端に………」
何故……そんな事を聞くのだろう。不思議に思っていると、そうか。と何かを理解したかのように答えて、夏油は薨星宮から出て行った。
硝子によればまだ高専内に蠅頭が溢れており、高専に居る呪術師も少なく対応に追われているらしい。私は一つ深呼吸し、薨星宮から出て他の術師のバックアップへ向かった。
……今日は何だか、嫌な事を考えるとその通りに当たってしまう。考えたくないのに…。
まさか、と思い浮かんだ事が、再び現実になってしまうとは、この時は思っていなかった。
色々な問題事にひと段落ついた頃には、夜になっていた。
五条と夏油のおかげて理子ちゃんが戻ってきたと聞き、案内された場所は……遺体安置室だった。
冷たく無機質な部屋の中に入れば、三体の遺体が並べられている。一つは黒井さん、もう一つは理子ちゃん。…そして、最後の一つは前にラーメン屋出会ったあの、伏黒さん…だった。
三体の遺体を前に動けずにいると、後ろの扉が開いて少し年老いた男性がやってきた。目が合い、軽くお辞儀をすればその人は、伏黒さんの遺体の前へ行き覆っていた布を捲っては何かを思っているような顔をしていた。
もしかして……この人、伏黒さんの家族なのかな。
面影は見えなかったけど、ぱっとそう思った。一分程男性は思い込んだ顔をすると、用が済んだのか覆っていた布を戻して安置室から出て行った。
何だったんだろうと考えるのも束の間、入れ代わりに夜蛾先生がやって来て、手にはマスターキーのような鍵の束を握り締めている。
「まだ居たのか。もう遅いし閉めるぞ」
「夜蛾先生、さっきここに来た人って誰ですか……?」
「あの方は禪院家の人だ」
禪院家といえば呪術界御三家の一家だと聞いた事がある。そんな人が何故伏黒さんを…?
謎が深まり夜蛾先生にどういう事なんですか?と問いただすと、安置室の鍵を締めながら、少し話をしてくれた。
伏黒さん……伏黒甚爾もとい禪院甚爾は天与呪縛によって呪力がゼロな体質の人間であり、その代わりに身体や五感が人並み以上に優れていた。しかし禪院家では、呪力の無い者は出来損ないの人間として非難されてしまい酷い扱いを受けていたらしい。……そして、術師殺しという呪術界の中での異名を持つ男であった事も。
衝撃の事実に頭と心の中がパンクしそうになりながら、教えてくれた夜蛾先生へお礼を言い、寮へと向かう廊下を進む。
途中、伏黒さんが放った蠅頭の被害にあった高専関係者の手当をしていた硝子とすれ違い、ポンと背中に手をおいて「名前もあんまり考え込んじゃダメだよ」と優しくさすってくれた。
思ってた以上に顔に出ていたらしい。心配、かけないようにしなきゃ……。
夜も更け、寝る身支度を済ませるがずっと心の中を色々な感情がグルグルと渦巻いていた。
部屋に戻って窓を開けて、外の空気を入れ替えながら窓辺に座る。草木が揺れる夜の音を聞いて頭を空っぽにした。
もう…考えたくない。つらい。現実を見たくない。
考えるのに疲れてしまった。
私には……理子ちゃんの気持ちも、伏黒さんの気持ちも、少し分かる。理子ちゃんを殺めてしまった伏黒さんに苛立ちを覚えるが、彼の天与呪縛の呪力ゼロという体質は、呪術師としては評価されなかった事実は、辛いものだっただろう。理由は違えど、辛い人生を送ってきたはずだ。
そもそも理子ちゃんは何故狙われなきゃいけないんだ。盤星教の人達は、理子ちゃんが同化しない事を目論んでいたと言っていたらしいけど、同化しないと天元様は敵になってしまう可能性だってあると聞いた。…そんな世界で非術師が生きていけるとは思えない。それに、殺さなくったって、何か、別の方法で出来るはずなのに。
…なんで、同じ能力者同士争わなきゃならないの?生きていちゃ、駄目なの……?
自分勝手な盤星教の人達に腹が立ちながら、一つの疑問が心に浮かぶ。
理子ちゃんや伏黒さんが居なくなって、何で私は生きてんの…??この世界に、存在する意味というものが、分からなくなっていく。
五条家に呪具を返す目的だけで私は今生きている。…じゃあ呪具を返し終わったら…??
私は呪術師界で生きていく意味…いや、この世界で生きている意味って何なんだろう。
はあ、と大きなため息が出た。そもそも呪霊に殺される可能性が高いのに、何で死ぬ事を考えているんだろう。非現実的な事が多すぎて気持ちがどんどん沈んで、夏を呼ぶような生温い風が身体を包み込む。
深夜零時。
いつもならこの時間は夢の中に居るけれど、今日は眠れそうにない。どっと色んな感情によって身体は重いのに、三人の顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。
一緒に砂遊びをした時に見せてくれた理子ちゃんの笑った顔、泣きそうに感謝を伝えてきた黒井さんの顔、私を揶揄った伏黒さんの余裕のある顔。
みんな、生きていたのに、もう居ない。…もう、会えない。
ベッドの上にごろんと寝転がっても、左右に転がっては落ち着くことが出来ず、不思議と独りぼっちという感覚が身体を襲ってくる。今まで一人なんて余裕だったのに、寂しくて、悲しくて、死にそうで……でも死にたく無い。静かになった部屋の中で、意味の分からない恐怖に心が覆われてしまいそうだ。
……だめだ。
じっとしていると、嫌な事ばっかり考えちゃう。抗うように身体を動かすが、今日も沢山動いたはずなのに眠気は現れる事が無かった。少し、部屋を出て鍛錬でもすれば眠くなるかな。
コンコン。
開けていた窓から柔らかい風の音だけが聞こえる部屋に、ノック音が響いた。
こんな時間に誰だろう?
立ち上がってドアの鍵を回しゆっくりと開けると、真っ白な髪の毛から水が滴り落ちつつ立っている五条の姿があった。
「ご、じょう……」
毛先から水滴はぽたぽたと落ちては床に染みを作る。上を見上げれば、彼の瞳が昼間のように少し燻んだ色をしているように見えた。
「……髪、濡れてるよ」
「さっき、風呂入ったから」
彼の首元にかけてあるタオルをとって、頭に乗せる。身長が高いせいで、爪先立ちでも頭に届かない。いつもとは少し違う大人しい表情に、私の胸まで苦しくなって、彼の手首を掴んで部屋に招き入れた。
「濡れてたら風邪引くよ。乾かしてあげる」
五条を床に座らせ、ベッドサイドに座り濡れた髪をタオルで湿り気をとっていく。こういう時、五条は何かしら喋りかけてくるんだけど、今日は違った。
何も言わない、何も問わない。……一番、一杯になっているのは五条自身だ。
髪の湿りがある程度とれ、ヘアオイルをつけてドライヤーで乾かしていく。あれだけ血がついていた髪の毛は、いつも通り白く輝いていて柔らかい。身体も包帯が巻かれているが、死に際だったとは思えないくらいだ。
柔らかく髪を撫でて乾かし終わるが、五条はずっと黙っているままだった。五条がこんなに大人しいのは珍しい。
「横、座っていい?」
「……いーよ」
「ありがと」
ベッドから降りて胡坐をかいて座っている五条の隣に座って、少し肩が触れ合うだけの温もりを感じた。それだけでいい。彼が今、隣に居るだけで、それだけで幸せなんだ。
肩から伝わる温もりに、あれだけ眠れなかった睡魔が全身にゆっくりと流れ込む。不安が押し寄せていた感情も彼のおかげでどこか消え去っていた。
ゆらゆらと頭が揺れている私になあ、と声をかけられた事に、はっと目が覚めた。
「ん…どうかした?」
「今日さ、一緒に寝て」
「………え?」
横を見れば相変わらずどこを見ているのか分からなかった。しかし彼の言った言葉に返事をしない私の答えを聞こうと、五条はこちらに顔を向けてくると、なんとも言えない表情をしていた。
「……何もしないから。お願い」
私の肩に頭を乗せてながら、彼は頼んできた。五条がお願いなんて、私に言うの初めてかもしれない。
何もしないって、するとしたら何をするんだろうか。ただ分かるのは、多分一人じゃ抱えきれない色々な思いが溢れそうだと言う事。その思いを私が受け止めていいのならば、助けてあげたい。
彼の首元に腕を絡めてゆっくりと抱きしめた。
「……いいよ、一緒に寝よっか」
「相変わらずせっっま、このベッド」
「文句言うな」
シングルベッドに二人で抱きしめあった。腕を組み合わせ、足を絡める。五条の大きな胸板に耳を寄せてみれば、ドクンドクンと心臓の音が聞こえてくる。
倒れていた彼を見た時に、冷たくなっていた体温も今では温かくて、存在しているという事を感じた。
「何してんの」
「心臓の音……生きてて、良かった」
「…俺も聞かせて」
私がしたように、五条は私の胸元に耳を当てる。吸って、吐いて、呼吸をする事に、彼が隣にいる今が、凄く幸せなんだと思った。
心音を確認した五条は、少し上に移動して、私の頭を、背中を、抱きしめた。五条の中に包まれた心地がとても良くて、同じように私も五条の背中に手を回した。
「…お前が言ってた伏黒って、アイツだろ」
「………うん」
「アイツ殺したの俺だよ」
「…そう、なんだ」
「俺のこと…怒ってる?」
「……怒ってないよ」
…今は、五条が生きてて良かった。
私は、五条が伏黒さんを殺した事に怒ってはいない。伏黒さんも理子ちゃんを殺した事にも、苛立ちを覚えたが、それよりも今は悔しい気持ちになっているのだ……私自身に、そしてこの呪術がある世界に。
呪霊を祓うのが呪術師の役目。別に人を殺すのは役目ではないけれど、そんな世界になってしまっているのが嫌なんだ。
「ねえ…私が出来る事ってなんだろう」
もし呪詛師が人を殺しても多分私は捕まえるだけで、呪詛師本人を殺すことは出来ない。そしてそんな世界を変える事は私には出来ないだろう。
「知らねーよ。…ただ、分かんねえなら生きてりゃいいんじゃねーの」
「………そっか、そうだね」
そっか…。
生きて、理子ちゃんが楽しかった事、やりたかった事を悔いのないくらい、私も、楽しくて毎日幸せな時間を過ごしたい。生きれなかった人の分だけでも生きよう。その中で私が幸せなら、せめてもの弔いになるだろうか。
「俺はこうやって名前が隣に居てくれるだけで満足だっつうの」
「…私も、」
身体と身体を引き寄せて肌の温もりを感じながら、鼓動と呼吸の音だけ聞こえ、夢の中へと歩みを進めた。