11.おかえりなさい萩原研二くん


 ドクドクとうるさいぐらいに心臓が響いてる。その声を、その温度を忘れたことなんて一度もなかった。耳に当てた電話の向こうから呆れたような声が聞こえて、その声が、私の愛おしい人の名前を呼んでいた事だけがハッキリわかった。
 振り返る勇気は、無い。
 だって万が一、億が一にも違う人物だったら。私の知っている彼ではなかったら、きっと、今度こそ私は正気を保てない。
 足音は、着々と近付いている。電話の向こうではパチン、パチンと無機質な音が響いている。力が抜けた手の中からスマホが床に落ちた。その拍子にスピーカーに切り替わったのか、向こう側の音は澱みなく聞こえてくる。
 私は、この場から逃げ出すことも、振り返ることも、声を発することも出来ない。
 長い腕が、背後から伸びてくる。手は手袋で隠されていて、長袖のため肌は一切見えない。耳元で、私の名前を呼ぶ声が響いた。
「………………けんじ、くん?」
「うん、お待たせ」
 やさしくて、やわらかいこえだった。
 一気に溢れる涙なんて気にせずに、今度こそ振り返る。近い場所にある彼の顔は、記憶にあるものよりいくらか大人びていて。――だけども、ちゃんと彼だった。
 私の知る、萩原研二くんが、そこに居た。
「け、んじく、けんじくん、けんじくん……!」
「怪我は? ない?」
「うん、うん……っ!」
 どうしてここに居るの、とか。
 死んだのは嘘だったの? とか。
 どうして今まで会いに来てくれなかったの、とか。
 言いたいことが沢山あって、どれもこれも喉に詰まって言葉にならない。彼の優しい問いかけに何度も頷いて、彼が片方の手袋を外す仕草を見つめた。
 火傷の跡が残る手が、私の涙を拭う。ひどく優しい手つきで、撫でるように。
 その手を、私はよく知っていた。
「話したいことはいっぱいあるんだけど、ここは危ねぇから外で待ってて?」
「かえって、きてくれる……?」
「もちろん。次は、ちゃんと君の所へ帰るから」
 柔らかく細められた目に、わかった、と返す。
 電話口の音が一瞬止んで、『ハギ』と松田くんの声が機会混じりに彼の名前を呼んだ。
「なーに、陣平ちゃん」
『さっさとそっちもバラせ。こっちはもう終わんぞ』
「あ、マジ? じゃあこっちもちゃっちゃと終わらせるとするかあ」
「けんじくん、」
「だーいじょうぶ、任せて」
 涙を拭っていた手が髪を撫でて、流れるように頬に触れる。あたたかい、生きてる。ちゃんと、今ここに。
「信じてる、から」
「おう」
 太陽のように笑う研二くんは手袋をつけ直して、私を一緒に来ていた他の人へ託す。誘導されるまま病院の外へ出てみれば、パトカーが数台停まっていた。
 暫く病院を見上げて、背を向ける。
 大丈夫、大丈夫。ちゃんと帰ってくるって言ってくれた。だから、何も心配しなくて……、
「ちゃんと、帰ってきてね」
 爆弾騒ぎがあったんだから、受付しか終わっていなかったし帰っても大丈夫だろう。明日も不調が続いたら職場には申し訳ないけれど、また出直せばいい。
 研二くんのことは信じているけれど、やっぱりどこか不安を抱えながら決して短くない道のりを歩く。
 大丈夫。今度こそちゃんと、おかえりって言えるから。
 もうすっかり香りが消えてしまった彼のパーカーを羽織ってソファで膝を抱える。ちらちらと時計を何度も見つめて、だけれどそんなに経っていない時間に心がソワソワと落ち着かなくなっていく。その度に大丈夫だと自分に言い聞かせて、身体を抱き締める。
 ――だけどその日、研二くんが帰ってくることは無かった。

 一日、二日と帰ってこなくて、既に一週間も経った。それなのに約束したはずの研二くんは帰ってこず、連絡もない。
 あの日の出来事は嘘だったのか、それとも幻だったのか。これは、二度目のお別れになるのか。
 朝からやる気が出ずに、休日なのをいい事に何もせずに過ごす。ちょうど、お昼頃。何か食べなきゃとは思うものの動く気力すらない。
 どうしようかなあ。身体を横に倒した瞬間、聞こえてきた鍵を開ける音。
 私ってこんなに早く動けたんだって驚くぐらい慌てて起き上がって、ソファの足元に置かれたスリッパなんて履いてる余裕もなく玄関に向かう。ゆっくりと回される鍵がもどかしい。だけど、自分から開けることはできなかった。
 ゆっくり、ゆっくりと扉が押されていく。外の光が隙間から入り込む。次第に、扉を開けた人物の影が姿を現し初めて――
「けんじくん?」
「……ただいま」
 そこには、気まずそうに立っている最愛の人がいた。
「お、かえり、なさい……っ!」
 靴を履くのも忘れて飛び付く。研二くんの大きな体は私をよろけること無く抱き締めて、その温度を確かめるように、二人でぎゅっと力を込める。
 研二くんだ、研二くんだ! あれは嘘でも幻でも無くて、本当だった。
 胸が張り裂けそうなぐらい嬉しくて、しあわせで、涙が溢れ出る。私を抱え込んだ研二くんが耳元で何度も何度も繰り返し私の名前を囁いて。ああ、ずっと、これが聞きたかったんだと。ようやっと私は自覚することが出来て。
 いつまでそうしていたのか。冷たい風がぴゅう、と一吹きして、その寒さに二人して顔を見合せて笑う。
「とりあえず中入るか」
 溢れる感情を言葉にすることが出来なくて、ただただ何度も頷く。ほんの少しでも離れたくなくてぎゅっとしがみついていれば、研二くんは軽々と私を持ち上げてリビングまで運んでくれた。
 優しく下ろされて、研二くんの頭が私よりも下にある。伺うように見上げられて、でもその目はとても優しくて。枯れることを知らない涙ばかりが零れていく。
「たくさん泣かせちまってごめんな」
「ねえ、なんで、研二くん、生きてる」
「うん、生きてる」
「だって、松田くん」
「……俺が、松田にそう伝えてって言ったんだ。悲しませて悪い、泣かせて悪い。……寂しい思い、させたよな」
「ば、ばかぁ……! ちゃ、ちゃんと、説明して!」
 俯く研二くんの両頬に手を添えて、ぐっと持ち上げる。やっと会えたのに、顔を見れないのは悲しい。研二くんがここに居るんだって、ちゃんと私にわからせてよ。
 うん、と頷いた研二くんは、私の足元でしゃがんだままだ。
 その体勢辛くないのかな、しんどくならないかな。ほんの少しだけ余裕が出来た私は、そんな心配をしてしまう。二人分のソファは、まだ埋まらない。
「俺が警察官になった時、配属が決まった時、松田にさ、お願いしてたんだ」
「うん、」
「仕事が仕事だし、俺はいつ死ぬかわかんねぇだろ? 死ななくても、その一歩手前って事もある。もし万が一があっていつ回復するかわかんねぇし、そのまま死んでいくかもしれない」
 そんな悲しいこと言わないで、なんて、とてもじゃないけれど私の口から言えなかった。口を開きかけて閉じる。研二くんは既に、その覚悟を持ってたんだって、わかるから。
「回復するにしたって、どれだけ時間がかかるかわからない。その間、君を俺に縛り付けるのはしたくなかった」
 だから、と続いた。
 なんとなく、研二くんの言う言葉が想像できた。
「俺は、松田に頼んでたんだ。もしそういう状況になったら、俺の生死関係なく、……君には死んだって伝えてくれって」
「…………もう、大丈夫なの?」
「ん。リハビリも終わって、この前が復帰戦ってとこ」
 研二くんは、いつだって私に優しい人だ。私のことを一番に考えて、喜ばせてくれる、幸せにしてくれる人だ。私はこの人に愛されているのだと、自信を持って言える。
 だから。だから、研二くんが松田くんに伝えたことだって、すんなりと理解出来てしまうのが――私は、嫌だった。
「ねえ、けんじくん」
 身をかがめてこつん、とおでこが合わさる。距離が近すぎて彼の顔がぼやけるから、目をつぶった。
「私はね、研二くんが居なきゃ幸せになれないの。楽しいことも、嬉しいことも、そこに研二くんが居なきゃ意味が無いの」
 この四年間、私の世界に色なんてなかった。全てが色褪せて見えていたあの景色は、取り戻した今二度とごめんだけれど。
「本当はね、死んでなんか欲しくないよ。一緒に生きていたいよ。でも、でもね? 研二くんのお仕事が危ないことは理解してるの」
 だから、ねえ、お願い。
「いいんだよ。もし、一緒に生きていくことがむずかしくなった時、ずーっと私を研二くんに縛り付けて。幸せになって欲しいなんて突き放さないで」
 これは、私のワガママだ。
 きょとん、とした顔をする研二くんは、次の瞬間には破顔して、彼の腕が私の背中に回る。ぴったりと引っ付いていたおでこが離れて、再会した時みたいに強く抱き締められた。
 どくん、どくんと聞こえる鼓動の音は、研二くんが生きている証。
「……いいの、そんなこと言って。マジでやるよ?」
「いい、いいよ。むしろそうして欲しいの、ね? おねがい」
「じゃあ、俺が死んでも俺以外と幸せにならないでって、言うよ?」
「……言われなくても、なれないもん」
 私、本当に研二くんがいなきゃダメなんだよ。生きることさえできなくて、息が苦しくて、全てが色褪せて見えて。本当に生きているのかわからないような生活だった。
 そんな私が、他の人と幸せになんて、なれるわけがない。
「ずっと俺のことだけ好きでいてって、言っちゃうけど」
「言ってくれないの?」
「……言う」
 ちょっと拗ねたような声が聞こえて、小さく声に出して笑った。
 こうやって笑うのも久しぶりかもしれない事に気付いて、やっぱり彼がいなくちゃダメなんだと突きつけられる。
「俺以外に、幸せにされないで。陣平ちゃんでもだめ。俺が、俺だけ」
「うん、うん」
「君が好きでいるのは、ずっと、俺だけだから……」
「もちろん」
 サラサラの髪を撫でるように梳くと嬉しそうに擦り寄ってくる研二くんが可愛らしい。どちらももう口を開くことは無くて、緩やかに流れていく時間をゆっくり過ごす。
 流石に床に座り続けているのが疲れてしまったのいか、途中立ち上がって私の横に移動した。
 やっと、ようやく。ずっと空いていた一人分の空白が、埋められた瞬間だった。
 この距離だと研二くんの鼓動の音は聞こえないけれど、触れ合う温度が生きていることを示しているから気にならなかった。
「ねえ、」
 こてん、と頭を彼の肩に預けながら、そっと顔を見つめる。ゆるく笑った研二くんは「なぁに」と優しく囁いた。
「研二くんは、明日からもここに帰ってくる、んだよね?」
「もちろん。言っただろ? ちゃんと帰るって。まあ、事後処理で遅くなっちまったけど」
「……うん」
 四年前で止まってしまっていた日常が、戻ってくる。
 あの日ちゃんとお見送りができなかった後悔も、もうしなくていいんだ。
 無意識に上がる口角を抑える術は知らない。だってこんなにも嬉しくて、しあわせなんだもん。隣には研二くんがいて、隠す必要がどこにあるんだろう。
 続けて「あ、」と声を上げた私を不思議そうに見つめる。
「そういえば、今まで忘れてたんだけどね」
「ん? どうした?」
「松田くん、どうしてか家の鍵を持ってたの」
「あー……」
「研二くん?」
「それね、もうアイツは持ってねぇよ?」
「……もしかして、研二くんの鍵だった?」
「そ。この前返されたから」
「そっか……、松田くんに、謝らなきゃな」
「なんで?」
「研二くんが死んだって言われてから、私、ちゃんと生きていけなくて」
「……うん」
「その間、松田くんが様子を見に来て死なないようにしてくれたんだよね。もしかしたら、松田くんは研二くんが生きてることを知ってたからなんだろうけど」
「ごめんな、」
 何度も謝罪を繰り返す研二くんの手を握ると、言葉が止まった。
 いいよ。もういいよ。だって研二くんは今隣にいるから。だけど、同じことがもう一度起きてしまったら、今度こそ私は死んでしまうだろうから、だからね。
「幸せにしてくれるなら、許してあげる」
「……もちろん、当たり前だろ?」


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