02.手を繋ぎたい萩原研二くん


 俺がずっと目で追ってた好きな子に告白されて付き合い始めてからはや一ヶ月。もう一ヶ月も過ぎた。とっくに蝉は鳴き始めたし学校もエアコンを稼働し始めたし、制服も冬服から夏服へと変化した。
 この一ヶ月何があったかと聞かれれば何も無く、たまに朝の玄関で会えば一緒に教室まで行き、たまにお昼を一緒にし、そしてたまに一緒に帰るぐらい。残念なことに俺とあの子の家の方向が途中から正反対だったけれど、分かれ道で彼女を一人にするという選択肢は無いので一緒に帰る時は家の前まで送っている。
 だってもし不審者とかいたら怖いじゃん。あの子可愛いし。不審者がいたら絶対襲われてる。俺にはわかる。
 未だに話す時は緊張して何を話せばいいのか分からなくなる時はあるけども、あの子は最初に比べればだいぶ緊張せずに俺と話してくれるようになった。それはそれでほぐれること無く緊張し続ける俺と対比して悲しくはなるんだけど。

 それはもうとても、本当にとても健全なお付き合いというものをさせてもらってる、んだけど。
「じ、じんぺーちゃあん…………」
「なんだよ」
 情けない声を自覚しつつ名前を呼んでも、陣平ちゃんは一度もこっちを見る事なく手元に集中している。カチャカチャと何かを弄っているところに俺が家まで突撃して来たのだから、まあ、その反応は予想通りではあったけど。あったけども!
「もうちょっと俺に興味持って? 相談だよ? 真剣に聞いて欲しいな?」
「どーせあいつのことだろ」
「そうだけど! そうだけど!?」
 松田の顔はあからさまにくだらねぇ≠ニ書いてあるし、なんならお言葉まで頂いた。悲しい。こんなに親友が悩んでるって言うのに。いや松田はそう言いつつもちゃんと相談は聞いてくれるし乗ってくれるのを知っているけれど。
 へなへなと身体の力を抜いてテーブルに頬っぺたを引っつければ、エアコンに長時間晒されたそこはひんやりと冷たい。まるで陣平ちゃんみたいね! とふざけて言えばこのテーブルよりも冷たい視線をもらってしまった。かなしい。
 有難いことに松田はあの子に興味を一切示さないから、​この一ヶ月俺はあの子の可愛さという名の惚気を吐き出しまくってる。吐き出さないとやっていけない。だってあまりにもあの子が可愛すぎる。そのせいか俺があの子の話題を出しても滅多に視線すらくれなくなってしまった。いや、陣平ちゃんがあの子に興味を持たれるよりは良いんだけど。良いんだけど! それとこれとは別問題と言うやつで。
「…………あの子と、手を繋ぎたい」
「色男が何言ってんだ」
 小さな小さな声でポツリと呟いた割と大きな願望は一刀されてしまった。こんなに俺が切実な願いを口にしてると言うのに! もう!
 松田は手元から視線を外したかと思えば俺を一瞥して呆れたように口を開く。
「別に、今まで通りやりゃいいだろうが」
「そう簡単に行かないからこうなってんでしょーが!」
「なんでだよ」
「すっげー緊張する……」
「はぁ……」
「……俺の情けない話、聞く?」
 聞かねぇよ。そう言う松田の言葉を無視して、俺はここ最近一番悩んでいる出来事を話し始めるのだった。

 ▽

 あの子と付き合い始めてからというもの、三日に一度のペースで一緒に帰るようにしている。流石に毎日はあの子がしんどいだろうな、友達付き合いだって当然大事だもんな、そう思っての申し出を嬉しそうに受け入れたあの子の笑顔はやっぱり可愛かった。
 帰宅時に話すことと言えばお互いの友達のこと、授業のこと、先生のこと。同じクラスであれば共通の話題がそれなりにあるのが救いだった。
 それなりに身長差のある俺たちは、当然歩幅も違うわけで。あの子のペースに合わせた足は窮屈になってしまうけどそれも俺にとっては幸せだった。歩幅が違うことであの子の小ささを感じて毎回きゅんと胸が鳴るのはさすがに松田にも言えない。
 今日はこんな事があったね。友達がね。そんな話を、出来るだけ沈黙が出来ないように繋げていく。人と会話を繋げるのは比較的得意だと自負してるし、それなりに楽しませることができるとも思ってる。けれどそれは対この子にだけはあまりうまく出来なくて、ほんの数秒の沈黙はやっぱり生まれてしまった。
 そんな俺とこの子の並んだ時の距離は、人一人分空いている。
 手を繋ぎたいと思ったのは今日が初めてじゃない。数回一緒に帰ることを繰り返した時、俺の話を楽しそうに聞くこの子が顔の前で両手を合わせて笑った時、その手が気になった。俺よりもずっとずっと小さな手。柔らかそうで、暖かそうで、優しい手。
 その手を繋ぎたいと思うのは、自然の道理だと思う。
 いつもの俺だったら違和感のないよう自然に繋ぐことなんて簡単なのに、相手がこの子となれば意識しすぎて無理だった。どうしてもちらちらとその手を見てしまうし、取ろうと腕を動かしてもほんの数ミリ動くだけ。
 こんなにも、難しかったか。
 好きな子と手を繋ぐという動作が、こんなにもむずかしい。
 思わず立ち止まってしまった俺に、数歩先に行った彼女は振り返って首を傾げる。こてん、なんて効果音が着きそうなその動作に、また胸がきゅんとする。
 相も変わらず俺の彼女は可愛いが過ぎる。
「萩原くん? どうしたの?」
「あー、いや……」
「……体調、悪い?」
「え!? なんで!? 全然元気だよ!?」
「あ、ほんと? 体調悪いのに送ってもらうの、悪いなって思ってたの」
「だーいじょうぶ! 心配してくれたの? ありがと」
 変な心配をかけないよう笑えば安心したように彼女も笑う。うっ……かわいい……。
 一度途切れてしまった会話をやり直すことが出来ないまま、お互いなんとなく無言でいるとあっという間に彼女の家が見えてきてしまった。ああこれでお別れか、もうちょっと一緒に居たかったなんて言える訳もなく。そしてこの距離で手を繋ぎたいだなんてことも言える訳もなく。そもそも距離があっても言い出せないんだけど。
「萩原くん、今日も送ってくれてありがとう」
 ゆったりとした声が空に舞って、彼女が身体を揺らす。もう家の前まで来てしまったらしい。――こつん、と自分の手に、自分よりもあたたかいものが、ふれて。
 一瞬、何が触れたのかわからなくて。
「萩原くん?」
 返事のない俺を不思議そうに見ている彼女が、視界に広がって。
「……ひょぇ…………」
 一拍置いて、か細い変な声が俺の喉から絞り出た。
「は、萩原くん? 本当に大丈夫? やっぱり体調が悪いんじゃ」
「だ、だいじょうぶ、ほんと、ほんとに、大丈夫だから……」
 手を繋ぎたいとか言っておきながらちょっとあたっただけでこれは大丈夫か? 問題しかなくない? とりあえず体調の心配をずっとしてくれている彼女には悪いので引き攣っているのを自覚しながらもなんとか笑顔を保つ。いや、大丈夫なんだよ、体調は。ちょーっと触れたことによって心臓がすげぇうるさいぐらいで、ほんとに、体調自体は大丈夫なんだよ……信じて……。
「風邪……?」
 うんごめん、風邪でもないんだ……。顔が赤い? 手が触れたからじゃねぇかな…………。

「流石に自分でも情けなくて泣きそうになった」
 あんまりな話のどこがツボだったのか、いやむしろ全てがツボだったのか。最初は話を聞く気すらなかった松田が今じゃ笑い転げてる。うん、わかるよその気持ち。俺も逆の立場ならそうなっただろうね。だけどちょっと酷くない?
 どーしよーじんぺーちゃん!
 うっうっ、とわざとらしく泣いてるフリをしていると、笑いが収まったのか転がってた松田が起き上がる。
「いや、普通に繋げばよくね?」
「それが出来てたらこんなに情けない俺はいない」
「間違いねぇ」
 思い出したのかまた笑い始めた陣平ちゃんをじっとり見つめて見ても変化は起こらなかった。
 ケラケラ笑うだけの松田は、それでも「ま、頑張れや」と俺の背中を押してくれた。

 今日こそは。
 今日こそは、あの子と手を繋ぐ!
「は、萩原くん! お待たせしました!」
 担任からのお使いを頼まれていた彼女は駆け足で俺の元までやってくる。そこまでの距離じゃなかったんだろう、息を切らしている訳じゃないが、整える様に深呼吸を数回繰り返すのを見つめる。
「じゃ、遅くなる前に帰ろっか」
「うん!」
 嬉しそうに、そして楽しそうに笑った。
 うーん、やっぱり俺の彼女が可愛い。
 歩くペースはゆっくりと。小さい歩幅に合わせて、のんびり歩き慣れた道を進んでいく。
 これはいつも意識してやっている事だけども、出来るだけ車道側を俺が歩くようにしている。あからさまに場所を変えたら変に思われてしまうので、自然に。気付かれないように。そして左右が入れ替わる度に、俺は彼女がいる方を意識してしまう。
 あー……これじゃ今日も手を繋げないかもしれない。
 今日こそ手を繋ぐって松田にも宣言してきたんだけどなあ……。そしたら笑って「頑張れよ」なんて、割と思ってなさそうに言われたけど。
 手を繋ぐ勇気はまだ出ない。だけどもほんのちょっとだけ振り絞って、一人分ある空間を埋めるため距離を縮める。そんなことに気付いてもいなさそうな彼女は、楽しそうに笑って話を続けていた。
 きっと俺がこんなにも緊張して、手を繋ぎたいと思ってるなんて考えもしてないんだろうな。そんなとこも可愛いと思うけど。
「……っ、」
 こつん。
 手が触れて、一瞬だけ息が止まった。
 彼女は触れたことにも気付いてない様子。
 こつん。
 また、触れて、完全に動きが止まってしまった。
 萩原くん? 下から見上げてくる彼女はとても不思議そうだった。
 口を開こうとして、止めた。
 なんでもないよ、と。へらりと笑おうとした所で、あのね、と白い肌に薄い赤を滲ませた彼女が、先に言葉を繋ぐ。
「……どうしたの?」
「あの、あのね、萩原くん」
「うん」
 何一つ聞き逃さないように、じっくりと見つめる。耳を傾ける。彼女は、今から何を言うのだろう。
 長いまつ毛が伏せて、上からしか見ることがない俺は綺麗な瞳が見えなくなってしまう。言葉を続けようとして、でも恥ずかしいのか中々続かない彼女は、ついに完全に口を閉ざしてしまった。――代わりに、右手を差し出して。
「こ、恋人らしいこと、したいなって、思うのは……変、かな?」
 それは、つまり、
 ごくり、と気付かない内に溜まっていた唾液を飲み込んだ音が響いた気がした。
 差し出された彼女の右手に、自分の左手を重ねる。初めてまともに触れた彼女の体温は、今までほんの少し触れたものよりあたたかくて、それが緊張しているからなのだと、すぐには察してやることが出来なかった。
 触れた手が微かに揺れて、伏せられていたまつ毛が上げられる。恥ずかしそうに頬を染めているのにその目は真っ直ぐと俺を見ていて、そしてその目の中に、やっぱり緊張している俺がいた。
 俺よりも小さい手。
 俺よりも柔らかい手。
 おれよりも、暖かい手。
 ゆっくりと、一本一本絡めとっていったそれは、やがて、所謂恋人繋ぎに落ち着いた。
「……変じゃ、ないよ。俺もそうしたいって、思ってた」
 大きな瞳がぱちり、瞬いて。
 ゆっくりと、力が抜けるように、花が咲くように、彼女が笑った。


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