04.キスができない萩原研二くん


 デートの最後の最後で名前呼びという爆弾を落とされた俺は、暫くその場から動けなかった。なんならしゃがみこんで再起不能になってた。頭の中でずっと彼女の声が響いてる。彼女も恥ずかしかったんだろうか、夕日に照らされた彼女の頬が、夕日の力以外で赤く染っていたように見えた。
 ずっと萩原くん、と呼ばれていたからか、それとも好きな人だからか、名前呼びの破壊力と言ったら……! 数分その場から動けなかった俺は、なんとか体に力を入れて家へと辿り着いた。

「あ、萩原くん、おはよう!」
「……おはよ」
 声がむっすりとしてしまった自覚はあった。笑っていたはずの顔から笑顔が消えていくのも自覚してた。
 デートの別れ際、俺の事を研二くん、と呼んでくれたのに今は萩原くん、なんて元に戻った呼び方が嫌だった。突然の名前呼びは攻撃力がすっごい高いけど、それはそうとして折角ならずっと呼ばれたい。彼女の声で紡がれる俺の名前がこんなに心地いいと知ったのは、あの告白の日だった。
「ねえ、」
「どうしたの?」
「……もう名前で呼んでくれねーの?」
 アッ待って、待ってくれ声が思ったよりしょんぼりした! これじゃ呼んで欲しいみたいじゃん。いや呼んで欲しいけどね!?
 彼女はぱちぱちと瞬きを繰り返したあと、ボン! 音がつきそうなほど顔を赤くした。肌が白いと赤くなったのがわかりやすくて可愛い。
「呼んで欲しいなあ」
 最後のダメ押しとばかりに呟けば、周りの雑音に掻き消されそうなほど小さな声でけんじくん、とどこか舌っ足らずに名前を呼ばれる。
「うッ、ん!」
 声が裏返ったのには気付かれなければいい。誤魔化すようににっこりと笑う。デート終わりはあんなにスムーズに呼べていた俺の名前も、今日はちょっとだけ緊張の色が強かった。オネダリしたのは俺だけど、これは破壊力が凄まじい。かわいい、可愛い。お返しの様に彼女の名前を呼べば心底嬉しそうに笑ってる。
 下駄箱から教室までの短い間も手を繋ぐようになったのは、いつからだったか。もう覚えてないけどはたから見たらとんだバカップルに見えるだろうし、実際帰り道よりも恥ずかしそうにしてる彼女を見ると繋がない方がいいんだろうけど。少しでもこの子が俺の恋人なんだと見せ付けたい。ごめん、これは俺の我儘なんだ。すげぇ恥ずかしいだろうけど我慢して欲しい。
 だってこれだけ可愛い恋人が、他の人に惚れられないなんて断言は出来ない。ちょっとずつ彼女の時間をもらってはいるけど、ただそれだけ。
 ……もっとあの子が欲しい、のは、ダメだろうか。
 告白されて付き合って、手を繋いで、デートをして、名前で呼び合う。ここまで来るのに一ヶ月ちょっと。ペースが早いか遅いかなんてものはどうでもよくて、あの子が安心出来るのなら周りより遅くてもそれで良かった。
 良かった、けど! けどもね! 俺も男だからね! キスしたいなあって思うのは当然だと思うんだよね!? あわよくば……とか考えるのも当たり前だよね!

「もうすぐ夏休みだね」
「そうだね! 夏休みの予定とかあるの?」
「うーん、特に予定はないけど、夏祭りは行きたいなあって思って」
「もしかして近くの神社の?」
「うんそう! け、研二くん、家逆方向なのに知ってるんだね」
「マァネ」
 呼び慣れていない研二くん呼びに心臓がドキリと跳ねるのを隠そうとして微妙に隠せなかった。本人は気付いていない様子だけど、ここに松田がいたら絶対バレてるし揶揄われた。けど、夏祭りかあ。この子は浴衣とか着るのかな。浴衣姿もすげぇ可愛いんだろうなあ。……誘っても、良いんだろうか。もしかしたら友達と予定してるかもしれない。でもほら! 俺とこの子は、その、恋人、なわけで。
 誘って断られたら、という不安を飲み込んで呼んだ名前は思ったより勢いが出た。
「ど、どうしたの? 研二くん」
「アッわりぃ、やーほら、その、夏祭りさ」
「うん?」
「誰かと行く予定無かったら、俺と行かない?」
 かっこ悪いけど目は合わせられなかった。だからどんな顔をしていたのかはわからないけれど、次に聞こえた弾んだ声に、目を逸らしていたことを後悔する。
「研二くんがいいなら! 一緒に行きたい!」
「よっしじゃあ行こっか! あとさ、持ってたら良いんだけど、浴衣が見たいなー、とか、思ったり……?」
「浴衣……? あ、あんまり、期待しないでもらえたら、うれしいかな……」
「んーや、無茶言ってごめんな? 浴衣っていろいろ大変だもんなあ。一緒に夏祭り行けるだけで嬉しいから、今のは忘れて?」
 って、言ったのにさあ!?
 夏祭りの約束を交わしたあの日からあっという間に夏休みへと突入した。担任からは遊べる最後の夏休みだと絶望を与えられ、羽目を外し過ぎるなと釘を刺されてから、一週間。今日は夏休みに入って一つ目の夏祭り、つまり彼女と約束した日。
 結構大きな祭りだけど地元じゃないから知り合いの顔はほとんどいない。それでも規模が規模なので人は密集してる中、待ち合わせ場所には既にあの子がいて、俺は一目で見つけることが出来た。そこまではいい、そこまではいいんだ。
 期待しなかったと言えば嘘になるけど、浴衣が大変なのは姉ちゃんがいるからわかる。人混みになるのも予想が出来ていたし、そんな人混みに浴衣なんてそりゃもうマジで大変なのを、俺は知っているから。だから別に浴衣じゃなくてもいいと言ったのに。
 待ち合わせ場所にいる彼女は濃い紫の生地に大きな花が散った浴衣に、明るい赤の帯で締めた姿でそこに立っていた。あの花は薔薇か?
 色か、柄か。普段ふわふわとした可愛らしい女の子のイメージしか無かった彼女は、今はとても大人っぽく見えた。普段は見ることがない髪型をしているのも要因の一つかもしれない。
 俺と並ばなくてもちんまりとした小動物のような彼女は、背筋をしゃんと伸ばしていて、その佇まいから物凄く綺麗だった。
 一瞬、言葉を失って。
 それは、見惚れた、とも言う。
 だけどずっと遠くから見ているだけじゃ、あれだけ可愛くて綺麗な彼女のこと、知らない野郎にナンパなんてされたらたまったもんじゃない。
 スニーカーが砂利を踏み締めた。
 近づいて行く俺に、俯き気味だった彼女が顔を上げて俺の事を視界に捉えた瞬間パッと明るくなる顔が愛おしい。
 カランコロンと下駄を鳴らして、いつもより小さな歩幅で駆け寄ってくる彼女が何かに躓いて転ぶ。
「あっぶねぇ……! 大丈夫?」
「う、うん、ごめんね、ありがとう」
 地面とぶつかる前に受け止めることが出来たおかげで彼女は怪我をしなくて済んだ。
 だけどさあ、これさあ……!!
 さっきまでは危ないと思って抱き留めたはずなのに、初めて腕の中に包み込んだ彼女があまりにも小さくて、ワックスの香辛料かいい香りがふわりと漂って、無事を確認したらすぐに離すつもりだったのに、ずっとこうしていたいと思う。
 学校では滅多に見れないメイクをしているのか目元がキラキラと輝いて、ほんのりチークの乗った頬は血色をよく見せている。恐らくグロスの乗った唇はぷるぷると艶めいていて、思わず視線が釘付けになった。仕方ない、健全な男子高校生だから、俺。
「け、けんじくん、……あの、もう大丈夫、だよ……?」
「あ、ごめん」
 暗いと言っても提灯や屋台の電気の明るさの中、耳まで真っ赤に染った顔が下から覗き込んで慌てて体を離す。雰囲気に充てられたのか、いつもと違う装いをしているからか、やけに色っぽく見えた。
「あの、ね」
「うん? やっぱりどこか痛む?」
「ううん! そうじゃなくて……その、浴衣、着てみた、んだけど、どうかな?」
 顔は真っ赤なまま、体の前で手をもじもじさせて伺うように見つめてくる彼女が最強に可愛い。伝えたくて仕方が無いのに、こんな時に限って上手く口が回らない俺は聞こえるか微妙な小さい声で「かわいい、デス……」と呟くことしか出来なかった。
 えぇ……? 俺の彼女可愛くて色っぽいって最強じゃない……?

 はぐれないようにと繋いだ手はいつもと変わりなくて逆に安心した。
 いろんな屋台に視線が奪われる彼女の目はずっと輝いていて、でもここに行きたいと我儘の言わない彼女には俺が行きたいから、と理由をつけて屋台を回る。
 本当はカッコつけたいが故に全て俺の奢りでいたかったけど、デートの時のように譲らない彼女だから、お金は出し合いっこ。ただ俺の方がたくさん食べるからほんの少し、心持ちだけ多めに出すことにした。
 最初よりも人が増えてきたな、と思ったらドカン! 大きな爆発音は、夜空を照らした。
 最初の一発は驚いてまともに見ることが出来なかったけど、彼女の足のことも考えて花火を見ながら近くの休める場所へと移動する。石段に座り込んだ彼女が一瞬だけ足を気にしていたから、やっぱり慣れない下駄で長時間歩くのはしんどかったんだろう。
 他にも座っている人がいるから出来るだけ身を寄せあって、心臓がうるさい。今日一日で物理的距離が縮まりすぎじゃない? もっと俺の心臓に優しくして……。
 だけど、どれだけ近い距離にいても花火の音のおかげでこのうるさい鼓動は彼女に届かないであろうことは救いだった。
「…………きれい、」
 自然と口から零れ落ちたであろう言葉に、君の方が綺麗だよ、なんてクサイ言葉は伝えられなかった。
 花火の光に照らされた横顔は、瞳の中までキラキラと輝いていて。
 今までで一番綺麗に映ったことは確かだったのに。

 ▽

 地元の人がたくさん参加していた祭りでは、人の帰る方向もだいたい一緒。
 会場よりもまだらになったとはいえそこそこ人の多い帰り道で、彼女は高いテンションのまま花火についての感想を語っている。
 家まで送ると提案した俺に、俺の帰りが遅くなってしまうからと遠慮されたけれども。逆に考えて欲しい。こんなに遅い時間に可愛い彼女を一人で帰す男なんているわけが無いんだと。
「毎年このお祭りには参加してるけど、今年が一番綺麗に見えたの」
「今年は力が入ってたんかね?」
「ううん、たぶんね、同じだったよ」
「……うん? そーなの? 俺この祭りは初めてだったからなあ」
 ぎゅっと繋がった手に力が入った。
 最近気付いたけど、何か勇気を出して伝えたいことがあるとき、彼女は手を握る癖がある。普段なら服を握ったり、拳を作ったり様々だけれど、無意識の癖は俺と手を繋いでいる時も行われている。
 だから今も何かを伝えようとしているのはわかるけど、それを急かそうとは思わなかった。指摘して言われなくなるのは嫌だったし、何よりこういう時の彼女はちゃんと伝えてくれる。俺はそれを待つだけ。
「……け、けんじくんと、一緒だったから、」
「エッ」
「隣、に、研二くんがいたから、……いつもより、綺麗に見えた、んだと、思うの……」
 思ってもいなかった言葉に、俺まで釣られて顔を赤くしてしまったのがわかった。だってこんなにも暑い。この暑さが、夏のせいだけじゃないのはわかってた。帰り道が暗くて良かったと心底ほっとする。こんなかっこ悪いところ見せられない。
 好きな子には、いつだってかっこよく思って欲しいから。
 照れてしまって変な空気のまま、彼女の家へと辿り着いた。
 いつもと違う時間帯だからか、繋いだ手は中々離れない。彼女も名残惜しいと思ってくれていたらいいな、なんて。
 だけどいつまでも外に出している訳には行かないし、俺だってあまりにも遅い帰宅になれば親が心配する。何より補導もされてしまう。
 出来るだけ長い時間触れ合えるようにゆっくりと手を離すと、彼女の顔が僅かに寂しそうな色に染った。
 たぶん、いまなら、できる。
 彼女との関係を一歩、踏み出すことが出来る。
 緊張で口の中に溜まった唾を飲み込んで――結局、俺は何も出来なかった。
「今日はありがとう。足、ちゃんと休めるんだよ? おやすみ」
「……うん、おやすみなさい」



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