05.何も気づかない萩原研二くん


 夏休み中、あの子といろんなところに出掛けた。遊園地や博物館、映画やカフェ巡り。学生だからあんまり遠出は出来なかったけど、それでも会える日は会うようにした。
 俺があんまりにも外に連れ出すから、真っ白だった彼女の肌はほんのりと焼けていて、それが余計に健康的で唆られるのは誰にも言ってない秘密だった。……まあ、たぶん、陣平ちゃん辺りにはバレそうだけど。
 日々コツコツと課題を進めていく派の彼女に倣って俺も進めていたおかげか、最終日に何も終わってないなんて失態は犯さずに済んだので良かった。ちなみに今までだったらラスト二週間ぐらい前まで溜めてた。
 ただひとつ、俺の気持ち的に残念なのは、夏祭りの日に踏み出そうとした一歩が、結局いつになっても踏み出せないまま夏休みが終わってしまったということ。

 暦上はもう秋になったと言うのに蒸し暑さは全然変わらない。
 もうすぐ夏服から冬服に制服だって変わるし、学校のエアコンも付かなくなるのにこの暑さ。地球は人類を滅ぼそうとでも企んでいるみたいで嫌になる。シャツのボタンを二つほど外して首周りを涼しくしても汗は溢れるように出てくる。
 夏休みが終わって新学期。席替えもして新しい位置から眺める黒板はほんの少しだけ違和感があるけど、どうせ暫くしたら慣れるんだろう。運良く後ろ側の席をゲットした俺と、ちょうど真ん中ぐらいの陣平ちゃん、最前列になった彼女。陣平ちゃんの方があの子と近くてズルい! ってどうにかして変わってもらえないかと考えたけど、くじで決まってしまったものは仕方がないと諦めた。
 いいもんね! 列が違うからあの子の後ろ姿見放題だもんね!
 授業中見るのは黒板じゃなくてあの子の背中ばっかり。そのせいか先生に当てられる回数がうんと増えたような気がする。もちろん話をちゃんと聞いてない俺に対して、隣の席の子が毎回教えてくれる事になった。申し訳ねえけどありがたい。
 前から後ろを見ることは出来ないから目が合うことは無いけれど、それでもなんだかんだこの席になって良かったなあ、と。そう思う。
 ……あ、あの子今欠伸した。

「今日の三限眠かった?」
「えっ、ど、どうして……?」
「んや、欠伸してたっしょ? 後ろから見てた」
 小さな机をひとつ挟んで向かい合う。机の上には可愛らしいお弁当と、コンビニのパンが数個。当然お弁当は彼女のもので、パンは俺が来る途中に買ったもの。今日は週に数回だけ予定している、彼女とお昼の日だった。
 見てたことを伝えると恥ずかしそうに目を逸らして、少し体を縮こませる。そうしてちょっとだけ、ねむたくて……≠ニ零した。今もまだ眠気は残っているのか、普段よりもぽわぽわしているように見える。エ〜!? 可愛いな。
「あ、あんまり見ないでね……」
「前はさ、俺の方が前だったじゃん? だから後ろから見るの新鮮なんだよね」
「は、はずかしいから……!」
 えー? どうしよっかなあ。パンを一口齧る。ふざける俺に、もー、なんて怒ったフリをする彼女があざとい。あざといのに、狙ってやってないことを知っている。彼女は元々そういう子だから。
 そんな彼女にデレデレしている自覚は充分にあったけど、彼女が可愛くて仕方がないんだからもうどうしようもない。

「――そっか、今日日直だったっけ」
「あ、うん。研二くんは?」
「俺? 俺は呼び出しされてただけだよ。もちろん断ったけどね」
 分厚いファイルを広げて一生懸命書き込んでいた彼女に声をかけると、すぐその視界に俺が映る。律儀な彼女は、わざわざ手を止めて顔を上げてくれるのをわかっていて声をかけた。
 一番前の席だから、彼女の前は教卓。仕方なしに隣のヤツの椅子を少し引き摺って同じ机を囲むことにした。
 彼女がいるのに呼び出しなんて、よくやるよねえ、なんて言いながら。
 彼女の書く文字は凄く綺麗だ。
 女の子らしい丸い文字じゃなくて、しっかりバランスの取れた文字。俺がそれを知ったのは今年度の初めの方。先生に当てられた彼女が黒板に回答を書き出した時。習字でも習っていそうなそんな字を、俺は読むのが大好きだった。
 日誌の中を描かれた文字たちを目で追っていると無意識の内に体を寄せてしまっていたのか、ぐっと距離が縮まる。耳元で聞こえる俺の名前にハッとして顔をあげようとして、ピタリと止まった。
 あまりにも、かおが、ちかい。
 お互い数秒動きを止めて、先に動いたのは俺だった。悪い、なんて何に対して謝っているのかもわからない謝罪を述べて、サッと身を引く。
 彼女の顔は赤く染っていたけど、そんなの俺だってそうだった。鏡を見なくたって、熱を持っていることぐらいわかる。
「日誌! 終わらせちゃうね!」
「ん、うん」
 変な沈黙が場を包む。
 意識を日誌に逸らそうとして失敗しているのか、再び動き出した手はペンと消しゴムを行ったり来たりしている。
 しかしすぐに集中し始めたのか、途中から消しゴムの出番はほとんど無くなってしまった。
 サラサラの髪がカーテンを作る。それを細くて柔らかい指が耳にかける動作に、どうしようもなく目が離せなくなった。
 紙の上をペンが走る音だけが聞こえる教室で、喉が鳴った。
 ここには、都合のいいように俺たち以外人はいない。もしかしたら俺だけに、都合が良かった。
 よし、と小さく聞こえた独り言と共にペンを机の上に置く音がする。そして研二くん、とやわらかく俺の名前が耳に届いて、それから。
「あの、さ」
「うん? どうしたの?」
「キス、していい?」
 ずっと俺の中を渦巻いていた欲求をいきなりぶつけないように、そっと問いかける。
 右手は、やわらかい肌に触れていた。じわり、じわりと色を増していく頬の熱が、指先に伝わる。ぱちり、数回瞬いた瞳が、大きく開かれた。
 別に、キスすること自体初めてじゃない。そもそも女の子と付き合うこと自体が初めてではなかった。中学生の頃なんかは好奇心で付き合ったこともあったし、だからこそそれなりに進んでいたりなんかもした。
 だから、今更キスひとつで緊張することなんて無いのに。
 俺の指先は彼女の温度だけを拾う。
 断られたらショックだなあ。てか今日も一緒に帰るのに、断られたら気まずいじゃん? 無理やりに奪うことは簡単だけど、でも、この子の嫌がることだけは、やりたくない。
「………………い、いよ」
 数秒程の沈黙の後、きゅっと唇を閉じていた彼女は、震える声でそう答えた。
「目、閉じて」
 親指の腹で頬を撫でて、出来るだけ優しく上を向かせる。俺の言葉にぎゅっと強く目を閉じたのと同じように唇も閉じてしまうから、力を抜くように揉んでいく。
 次第に抜けていくのを見て、そっと、やさしく、触れるだけのキスをした。
 触れた瞬間揺れた体にこちらも驚いてしまったけれど、それ以上に苦しいほど幸せな気持ちに包まれる。
 可愛い。かわいい、かわいい。こんなにも、愛おしい。好きだ。胸いっぱいに広がって、押さえつけるのもむずかしい。
 たったのキスひとつ。赤ちゃんでも出来るような愛情表現ひとつに、どうしてこんな、泣きたくなるぐらい幸せを感じるんだろう。

 ▽

 これは、俺の気の所為だと誰かに言って欲しかった。
 なんとなく、本当になんとなく。最近、あの子に避けられているような気がする。
 実際には昼を一緒にする頻度も、帰る頻度も何も変わらないし普通に会話もしているから、気の所為かもしれない。むしろそっちの可能性の方が高い。
 だけど本当に、なんか、キスをしたあの放課後から、なんか、こう、よそよそしいような気がして堪らない。
 周りからそれについて何かを言われることもないから気の所為だと済ませたいのに、どこか引っ掛かりを覚える。
 うーん、と首を捻っても結局答えは出てこないから、直球で聞いてみることにした。
「なんか最近あった?」
 こんな聞き方、あったのなんて俺だって心当たりがあるのに卑怯かもしれない。でももしかしたら、俺に関係ない事かもしれないし。いや、彼女がよそよそしく感じるのはきっと俺だけだろうから、俺関係なんだろうけども。
 彼女はきょとん、と目を丸くしたあと、ふんわりと笑って無いよ、と答えた。
 うん? なら俺の気の所為かな。気の所為で終わらせるには、今も感じているんだけど。でも本人が無いと言っている以上、俺が深く追求するのもあれだし。
 この場ではそっか、とそれ以上聞くこともせずに終わらせた。
 俺の気の所為であれば、どんなに良かったか。
 それが気の所為で済まされなくなってきたのは、本人に聞いてから一週間後の事だった。
 話しかければ答えてくれるものの目が合わない。昼も帰りもちょくちょく断られることが出来た。一緒にいる時も口数が減って沈黙が増えた。雰囲気に当てられたのか俺の口数もだんだん減っていって、しまいには無言の時間の方が多くなってしまった。
 だから今度こそ何かあったのかなんて聞く余裕も無くて。
 気が付けば、一緒にいた時間はどこかへ消えてしまっていた。

「別れたのか?」
「エッ…………うーん、どうだろうね……」
 暑かった季節は過ぎ去り、風が冷たくなってきた今日この頃。つい最近まではエアコンの代わりに開いていた窓はしっかりと閉められ、でも窓際の席の子は隙間風に身を震わせるようになった頃。
 松田はあの子が教室にいない頃を狙って話しかけてきた。ついでに、周りの人たちが聞き耳も立てている。あの子の友達はあの子と共に教室に居ないから、ここで話しても本人に伝わる可能性は限りなく低い、と信じてる。
 別れたのか、の問いにははいともいいえとも答えられなかった。
 だって、別れましょうという話をした訳でもないし、かと言って付き合っていた時のような雰囲気は俺達にはもう無かった。
 なんだそれ、と呆れた様子の松田は、それでもで? どうしたんだよ、と相談に乗ってくれるようだった。やっぱり持つべきものは優しい親友だよな。
「……これが自然消滅ってやつ?」
「知らねぇよ。心当たりは?」
「ある、っちゃあ、ある、けど…………」
 確実に距離感が変わったのは、あの日の放課後からだった。それまではちゃんと恋人らしい雰囲気に包まれていたし、本当にゆっくりだけど少しずつ前に進んでもいた。
 だから、たぶん。何かあるとしたらあの日しか思い当たらない。
 キスをしていいか、の問いに彼女はちゃんといいよって答えてくれたはずだけど、もしかして俺の幻聴だった? あんまりにもキスがしたい俺が生み出した幻だったのだろうか。それにしては指先から伝わる温度や、緊張で力の入った瞼に、やわらかい唇は何一つ俺を拒否していなかった。
 出来るだけ詳細に、小声であの日のことを松田に伝える。流石の俺もクラス中に把握されるのは羞恥心ってもんがね……?
 しかし、俺の話を聞いた松田の顔はだんだんとどうでも良さそうなものに変わってくる。じっとりとした目で見られて思わず俺も似たような目を返してしまった。
 相談に乗ってくれる雰囲気だったじゃん! 急に突き放してくるじゃん! 親友だろ!?
「それ…………、いや、お前それは俺に言っても意味ねぇだろ…………何も解決しねぇぞ…………」
「そうかもだけどさあ」
「本人が拒否してねぇのに距離取られてるのなんか知るか。拒否されてたらお前が悪いけど」
「そうなんだよねぇ……」
 どうすっかなあ、とぼやく俺に、いや話し合えよとド正論を吐き捨ててくる俺の親友様には慈悲がない。でも確かに、それ以外に出来ることなんて何一つなくて。
「…………ちょっと、頑張るわ、おれ」
 あの日はあんなにも幸せだったのに、どうして今こうなっているんだろう。


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