07.同じクラスの萩原研二くん


 私のクラスには、とてもかっこいい男の子が二人いる。
 一人は髪をくるんとさせて無愛想で、でも笑うと幼く見える、本当は優しい松田陣平くん。もう一人は男の人にしてはちょっと長めの髪に、いつもニコニコ笑って周りをよく見ていて、いろんな人に気を使ってる萩原研二くん。
 二人はいつも一緒で昔から仲がいいらしい。イケメンの隣にはイケメンなんだなあ、なんて思ったのは去年の春ーー入学式の時だった。一年生の時はクラスが違ったけれど、あれだけかっこいい男の子が二人もいれば噂はあっという間に広がる。当然、私のクラスにも届いた噂はいろいろあった。
 松田陣平くんは仲のいい人以外には笑わないからちょっと怖くて、話し掛けづらい。
 萩原研二くんは、雰囲気が柔らかいから松田くんとは違って話し掛けやすくて、名前だってすぐに覚えてくれる。
 そういう噂が沢山あって、関わりのない私でさえ二人のことはちょっとだけ詳しくなった。
 そんな私が淡い恋心を抱くようになったのは、果たしていつだったろうか。
 クラスは違うくて、そして離れているから隣のクラスと行う体育で会うことはない。意外と広い校内じゃ擦れ違うことも滅多になくて。そもそも、彼の周りにはいつも人がいたから近付くことも出来なかった。
 それなのに、好きになったのは、何がキッカケだったのか。私はずっとわからないまま、でも確かに彼に恋をしていた。

 だからーー

「萩原くん、突然ごめんね。あの、……好きです、私と、つきあってください」

 二年生になって、噂の二人と同じクラスになった。クラス発表の時に同じになった子は嬉しそうに騒いで、違うクラスになってしまった子は落ち込んでいたのを見てた。恋をしている私は、もちろん、前者で。嬉しくて舞い上がる心をなんとか落ち着かせて、出来るだけ外に出さないようにするのに必死だった。
 そして、六月。
 梅雨入りを果たした日本は全国的に雨が増えた。だけど毎日雨ではなくて、梅雨なんて終わりましたと言わんばかりの天気の日だってある。
 そんな日に、私は一歩勇気を踏み出すことにした。
 正直勝算なんてひとつも無かったし、むしろ名前すら覚えてもらえていない可能性の方が高かった。同じクラスになったと言っても、私から話し掛けたことがなければ話し掛けられたことだってない。いつもクラスの中心にいる彼とは違って私はどちらかと言えば隅っこにいるタイプだったし、存在すら認識されていたかわからない。
 だから、だと思う。私が一歩踏み出すことが出来たのは。これがきっと普段から話すことが出来ていたのなら現状維持を決めていた。何の関係も無いからこそ、それを打開するために踏み出せたんだ。
 だって、私は、萩原研二くんがくるしくなるほどにすきだから。
 誰にも言ったことの無い恋心を本人に伝えるのは緊張した。心臓の音はほかの音を掻き消すぐらいにうるさいし、頭だって真っ白だ。それでも目だけは逸らさないように真っ直ぐ見つめる。
 思いを告げた口はカラカラに乾いていた。モテる萩原くんはきっとこの状況をすぐに理解して、伝えられる言葉も分かっていたはずなのに、私が口を開くまで待っていてくれたその優しさが好きだ。
 フラれるために告白をした、なんて友達が聞けば心配するだろう。でも私はとっくに覚悟を決めていたし、その言葉を待っていた。
 ……なのに。
「もちろん、いいよ」
 一瞬、自分の耳を疑った。
 萩原くんは、どれだけモテても、どれだけ告白されても、誰彼構わずに付き合うような人じゃない。だから聞き間違えなんだと、疑った。
 だけど、疑ったのはほんの一瞬だけだった。
 いいよ、と形のいい唇が動いた時、にっこりと笑った彼の頬がわかりにくく染まっていたから。私の都合のいい幻聴でも聞き間違いでもないのだと、理解するには充分だった。
 その日から、一度も会話を交わしたことが無いはずの私と萩原くんの関係は、ただのクラスメイトから恋人へと変わった。

 途中関係が拗れたり小さな喧嘩を繰り返したものの、ずっと私の隣には研二くんがいる。高校生の頃からだから、もう五年は一緒だった。今更私の隣に研二くん以外が居るなんて考えられなくて、このまま付き合っていれば、なんて期待も当然ある。まだ成人して二年しか経っていないから、気が早いと言われても仕方がないけれど。
 大学卒業後、警察になるべく警察学校へ入学した研二くんとは会える時間も一気に減ったけど、半年我慢した後は「君が良ければ、なんだけどさ。……一緒に住まない?」と同棲の提案を受けて、断る理由なんてなかった私はすぐに頷いた。
 お互い成人していたけれど、ちゃんと両親に報告をして、挨拶もして、許しを貰った。どうやら研二くんは大学卒業から同棲を考えていたらしい。その話を聞いた時、研二くんも私と同じように未来の事を考えてくれているんだと嬉しくなった。
 引越しはすぐに終わって、さあこれからだ! なんて時だった。
 私は一生、この日のことを忘れないだろう。
 ――十一月七日。
 今日の研二くんは朝からバタついていて、私も余裕が無かったせいでロクな見送りも出来なかったのは、これから一緒に生活してる中でこんな日もあるだろう、と。リビングから投げ掛けた「いってらっしゃい」に、「行ってきます!」と応えた研二くんの声は扉一枚挟んだせいで篭って聞こえた。代わりに彼が帰ってきたらゆっくりしよう、なんて考えて、私も仕事のために家を空けた。
 それが届いたのは、夕方、定時前の事だった。
 そろそろ今日の仕事が終わりそうな時、ちらりとケータイを盗み見るとタイミング良く電話が掛かってくる。
 松田くん≠ニ表示されたその名前に、嫌な予感がした。
 彼から連絡が来るなんて滅多にない。それこそ、連絡先を交換してから何度かメールは交わしたものの、電話なんてこれが初めてだった。私と松田くんの間にはいつも研二くんがいたから、直接やり取りする必要が無かったとも言える。
 無意識に手が震える。電話を取りたくないのに、今無視をしたらきっとダメなんだと、頭の中で警報が響いた。
 空っぽのマグカップを片手に席を立って、人のいない給湯室に逃げ込む。まだケータイは震えたまま。まるで早く出ろと急かしているみたいだった。
「も、もしもし」
『…………』
「……松田くん?」
 恐る恐る通話ボタンを押してケータイを耳に当てても、返ってくるのは無言だけだった。どこにいるのかわからないけど後ろはしん、と静まっている。
 名前を呼ぶと短い呼吸音が聞こえて、なあ、と力のない弱々しい音が響いた。
『心して、聞けよ』
「な、なあに? 松田くんから電話なんて珍しいことして、そんな、」
 頭の中で警報が鳴っている。聞きたくないと叫んでる。
 それでも、電話口の松田くんは止まらなかった。
 それでも、私は聞かなければならないんだと悟った。
『…………萩原が、死んだ』
 パリン! 手から抜け落ちたマグカップが床に落ちて割れる音がする。かなり大きな音がしたけれど、私も、松田くんも、それに一切反応を示さない。否、出来なかった。
 萩原が、死んだ。萩原は、研二くんの名字で。つまり松田くんは、研二くんが死んだのだと言う。
 嘘だと叫んでしまいたかった。悪い冗談を言わないでと言いたかった。だけど、松田くんがそんな冗談を言う人じゃないことはわかっていたし、何より、彼の声が震えていたから。
「……そっか、連絡、ありがとう」
 声は、酷く沈んでいて、静かで。
 そして、なぜか涙は零れなかった。

 呆然としたまま割れたマグカップを片付けて自分のデスクに戻れば、視線を寄越した先輩達に心配の声を掛けられた。自分ではあんまり自覚が無かったけれど、どうやら倒れそうなほど真っ青になっていたらしい。
 まだ少し残っていた仕事は引き継ぐから、と背中を押されて退社。いつもより重たい足を必死に動かして、一人にしては随分と広い部屋に戻ってきた。
 電気を付ける気力すらなく、普段ならしっかりと着替えるのにそれすらも出来ないままソファに雪崩込む。
 出た時と何も変わらない部屋。
 ゴミ一つ変わらない部屋は、時が止まってしまっているように見えた。
 目を閉じればすぐに思い出せるのは今朝の出来事。ゆっくりと挨拶する時間すら無くてまともに顔も見れなかった、今日の朝。覚えているのは慌てた様子の研二くんと、ぼやけて聞こえた挨拶だけ。
 こんな事なら、ちゃんと顔を見ていれば良かった。どれだけ急いでいてもちゃんと玄関までお見送りをして、研二くんの笑顔を見ていれば、良かった。
 後悔してももう遅い。ずっと研二くんが私に笑いかけてくれていたって、最後の思い出はどう頑張っても変わらない。
「これから、だったのに……」
 これからたくさんの日々を重ねて、時には喧嘩をして、きっとすぐに仲直りをして、笑い合えるはずだった。研二くんの警察官としての人生だってこれからだったはずなのに、どうしてこうなっちゃったんだろう。
 一緒に選んだ家具も、照れながら購入したお揃いの食器達も、まだそんなに使ってない。全部が全部、まだ新品の輝きを保ったままだった。
 勤務時間が不規則だからとベッドを別にしていたのは、まだ救いだったのかもしれない。大きいベッドを、ずっと使い続ける気にはなれなかった。
 のそりと起き上がって、研二くんの部屋に入る。この部屋に入ったのは荷解きと合わせて二回目。整える時間すら無かったのか、それとも元からそういう人だったのか、ぐちゃぐちゃのまま放置されたベッドに潜り込むとほんの微かに研二くんの香りがした。
 研二くん、けんじくん、
「どうして、死んじゃったの」
 私に残されたのは、一人にしては有り余るこの家と、数日も経てば消えてしまう彼の香りだけだった。

 ゆっくりと意識が浮上していく中で、腕は必死にケータイを探していた。どこにも見当たらない、と瞼を持ち上げたところで、リビングに置きっ放しだったことを思い出す。
 重たい体を必死に動かしてリビングに置かれたケータイを開くと、新着メールが一件。それは職場の先輩からで、出社時間はとっくに過ぎていた。帰宅してからすぐに眠ってしまったから、随分と長時間寝ていたらしい。
 体調は大丈夫?とりあえず今日は有給にしておいたから、ゆっくり休んでまたよろしくね≠ニなんとも有難い連絡に、感謝してもしきれない。
 まだ入社して一年目のひよっこなのに迷惑をかけてしまって申し訳ない気持ちはあるけれど、この状態で仕事なんて出来るはずもなく。体調は問題がないことと感謝を連ねたメールを作成したあと、送信ボタンを押した。
 昨日帰宅してから何もしていない。着替えも、食事も、お風呂だって手を付けられなかった。
 だけど今だって何もやる気が起きない。
 ただソファに身を沈めて、ぼーっとするだけ。頭もよく回っていない。どこでもない場所を見つめ続けて、目を閉じて、そしてまた見詰める。
 まだ同棲を初めてそんなに日は経っていなくても、こんなに音のない時間は初めてだった。いつだって研二くんがいて、心地良い空間を与えてくれていた。
 でも、ああ、そうだ。もう、研二くんはどこにも居ないんだ……。
 時計の針が動く音が、やけに大きく聞こえる。
 私一人の家は、とても静かだった。


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