08.自分勝手な萩原研二くん


 結局あれから追加で三日有給を申請して、その三日とも家の中でただ静かに過ごすだけになってしまった。先輩の心の内はわからないけれど、電子の文面では私を気遣う言葉ばかり。
 申し訳ない。申し訳ないけれど、でもどうしたってたったの二日で五年寄り添ってきた恋人の死を乗り越えられるほど、私は強くなかった。
 そして、研二くんの死を聞いてから四日目。
 ようやっと私は、家から一歩踏み出した。
 決して乗り越えた訳では無いけれど、いい加減前を向かなくちゃいけない。これがまだ学生だったら気が済むまで休んでいたって構わないだろうけれど、もう自分は社会人。いつまでもうだうだとしていられない。
 外は悔しいぐらいに快晴で、乾いた風がびゅーびゅーと吹いては私を追い越していく。これから冷え込む季節になって来るのに、温もりを分け合える相手は何処にもいなくなってしまった。
 会社の先輩達に数日休んだ謝罪と感謝の言葉を繰り返して、見た目だけでもと切り替える。今から私はここ数日で溜まった仕事を片付けていかなきゃならない。

 その日の夜、珍しく来客があった。
 この家に引っ越してきてから初めて鳴ったインターホンに、大袈裟なぐらい驚いてしまったのは仕方がない。ここでもまた隣に研二くんが居たら、なんて考えて、首を振った。考えても意味の無いことはやめよう。
「……松田くん?」
「………………おう」
 インターホンの画面を覗けばそこには松田くんが立っていて、急いでエントランスの鍵を開ける。それから数分後にまたインターホンが鳴って、今度は玄関の鍵を回した。
「どうしたの……? こんな時間に」
「ちょっと、いいか」
「う、うん、上がって?」
 何も持たない松田くんはスーツ姿だった。
 体を横に寄せれば小さく相槌を打った松田くんが家の中に入ってくる。綺麗に靴を揃えた彼は真っ直ぐ私の前を歩いてリビングへ行くと、迷うことなくソファへと腰掛けた。
「ごめんね、来客用の食器がまだ無くて……、私のコップになっちゃうけど」
「ああ、悪いな」
 どうしても研二くんの物を使うことに抵抗があって、申し訳ないけれど松田くんには私が使っている薄いピンクのコップで我慢してもらう。
 こうして二人きりで話したのは、実は二回目だった。一回目はあの日の電話だから、実際、二人きりになるのは今回が初めて。
 松田くんは松田くんなりに、私が研二くんの彼女ということもあってか二人きりにならないようにしていたし、研二くん自身もそうならないようにしていた節があった。どうしても、の場面を意地でも作らないほどには。だから、妙な緊張感が全身に走る。
 隣に座るのは違う気がして、少し距離を空けたカーペットの上に座ることにした。
 お互い何も話さないまま、時間が経っていく。
 手持ち無沙汰になって、自分の分の飲み物も用意すればよかったと後悔。だけど私のコップは今松田くんの目の前に置かれているし、他に飲み物を入れる食器は無い。こうなるのは必然的だった。
 どれぐらい、時間が経ったのか。
 松田くんは突然「なぁ、」と声を発するから、肩が揺れた。
「……なぁに?」
「変なこと、考えてねぇよな?」
「変なこと?」
「…………後追い、とか」
 後追い=\―つまり、私が研二くんの後を追って死ぬことを、考えているかどうかを、松田くんはわざわざそれを確認しに来たの?
 私は少し反応に困って、口を開いた。
「…………しないよ」
 ホッと安心したように息を吐き出した松田くんは、そうか、とただ一言だけ答えた。
「松田くんは、私を薄情な人間だと、思う?」
「は? なんでだよ」
「だって、……だって、私、研二くんが死んだって聞いて、本当に悲しいの。これからどうすればいいのかわからないの」
 でもね、と一度言葉を区切って、深呼吸をする。初めて口にした研二くんの死に、胸が痛い。
「私、悲しいのに、悲しいはずなのに……、泣けなかった」
 松田くんは何も言わなかった。否、言えなかったのかもしれない。何年も連れ添った恋人の死に涙を流さない薄情な私に、呆れているのかもしれないし、怒っているのかもしれない。彼と研二くんは親友だったし、彼はクールのように見えて情に厚いところがあるから。
 怖くて彼の顔は見れないまま、無言なのをいい事に私は話を続ける。
「それに、ね。本当は、しないんじゃなくて、出来ないの。最初は研二くんがいない世界なんてって考えたけど、でも、こわかった」
 ……死ぬのが、こわかった。
 それは、……それは、つまり。私が研二くんの死よりも、自分の死に怯えたことを示す言葉だった。
 声が震えたのは、何故なのか。
「あのとき、アイツと最後に話したのは俺だった」
「……うん」
「電話、してたんだ。アイツ、萩と」
 うん、と続けて相槌を打った。最期に声が聞けるなんて、羨ましいと思った私はいけないんだろうか。
「タイマーは止まってたけど、解体が完全に終わってたわけじゃなかった。だからさっさと済ませろって言ったら、アイツ、なんて言ったと思う?」
「……わかんない、かな」
「俺が死んだら仇を取ってくれよ=v
 息が、詰まった。少しの間呼吸を忘れて、我に返ったように勢いよく酸素を取り込んだせいで咳が零れる。松田くんは目を合わさずに、咳き込む私に何かをするでもなく、ただじっとしている。
 私の咳が落ち着いた時、松田くんは重たい口をゆっくり開いた。
「あと、幸せになって欲しい=v
 その言葉が誰に向けての言葉かなんて、考えなくても理解した。してしまった。松田くんがわざわざこの家にやって来た理由さえも理解してしまって、どうしようもなく胸が苦しい。
 そっと胸に手を当てて、ギュッと握りしめる。服がシワになるのなんか考えてる余裕は、私には無い。
「………………ずるい」
 ずるいよ、ねえ、研二くん。
 私の言葉は震えていて、それ以上何も言うことが出来なかった。
 松田くんはぬるくなったお茶を一気に煽って、用事は済んだと立ち上がる。私に声をかけることなく家を出ていく姿を見守ることも、追いかけることも出来なかった。
 押さえつけられているみたいにその場から動くことが出来ない。浅くなっていく呼吸を落ち着けるために深呼吸を繰り返して、そうして、わたしはようやっと、この時初めて涙を流した。
 幸せになって欲しい、なんて。そんなの研二くんが言わないでよ。私のことを幸せにしてくれるのは研二くんなんだとずっと信じていたし、研二くん以外に、私のことを幸せになんて出来ないのに。
 ずるい。そんなの、ずるいよ。
 最期の言葉を松田くんに託すのだってずるいし、私の幸せを願う事だってずるい。
 ポタポタと落ちていく雫がカーペットを濡らして濃い色に変えていく。
 胸が張り裂けそうなぐらい苦しくて、全て吐き出してしまいそうだった。

 ▽

 生きる気力なんて、実はとっくに残っていなかった。だけども自ら死ぬことも怖くて身体が震えてしまうから、すぐに研二くんの元へ行くことすら出来ない。
 ただ、心が死んで、ゆっくりと身体も死んでいく日々を、過ごしているだけ。
 松田くんから教えてもらった最期の言葉は私に深く突き刺さっていて、きっと死ぬまで抜けることがないんだろうな、と思う。それと同時に、私は彼の言葉通り幸せになんてなれないんだろうな、とも。
 思い出すのは、高校生の頃だった。本当の意味で恋人になれた、あの日。研二くんは確かに私を泣かせないって言ったし、隣でずっと笑っていて欲しいと言った。
「……うそつき」
 ぽつりと呟いた声は掠れていた。何度も何度も繰り返し泣いた証拠だった。涙を流す度にもう枯れたと思うのに、それでもまだ流れ続けていく。
 笑うなんて、出来るわけ無いでしょ?
 だって隣に、研二くんは居てくれないんだもん。
 どれだけ泣いても、絶望しても。必ず訪れる朝に、まだ新入社員である私が仕事を都合よく休める訳もなく。あの時は先輩達が気を回してくれたから休めただけで。
 腫れぼったい目に軽く色を乗せて、今日も重たい足取りで会社に向かうことしか出来ない。
 私を気遣う先輩たちの目に晒されるのももう慣れてしまった。どれだけ私が空元気でいても触れないで居てくれる先輩たちにどれだけ救われていることか。
 毎日渡される仕事をただこなしていく日々は、正直言ってつまらなかった。同じことを繰り返すだけの毎日はだんだん色を失っていく。実際に色が世界から消えたわけじゃないけれど、私の世界だけ白黒にように見えた。
 食事だってあれからまともに摂れてない。ゼリーや液体状のものを流し込むだけ。松田くんや研二くんのお姉さんが家にやって来て世話を焼いてくれるけれど、どうしたって食べる気になれなくて、身体が受け付けてくれなかった。
 申し訳ないとは思う。心配をかけている自覚だってある。だけど、だって、仕方ないじゃない。あの頃から私の世界の中心には研二くんが居て、これからもずっとそうだと思ってたのに。急にいなくなってしまったら、どうすればいいのかなんてわかんないよ。今までどうやつて生きていたのかもわからなくて、毎日を消費していくだけ。
「死ぬのは怖いんじゃなかったのかよ」
 あれから定期的に家にやってくる松田くんは、私がちゃんと生きているのか確認した後、ぽつりと呟いた。
 こわいよ。こわいけど、そう感じるのは自分で死のうとすることだけだもん。
「アイツが望んでるとでも?」
 知らない。そんなの知らないもん。望んでるから、とか。望んでないから、とか。そんなのどうでもよくて。ただ、研二くんがこの世にいない現実が、つらいの。
「死ぬのはこわい、けど、研二くんがいないと何もできないの」
「じゃああんたはこのまま死んでいくのか」
「……わかん、ない」
 わかんないよ。私はどうすればいいの? 研二くんのいない世界でどうやって生きていけばいいの?
 研二くんのいない世界で生きていける気がしないから、松田くんの言う通りこのまま死んでいくのもアリかもしれない。このまま緩やかに死んで彼の元に逝けるのなら、それほど幸せなことはないんじゃないのかな。
「アイツは、ハギは、お前に死んでほしいとは思わねぇだろ」
「……わかってるよ」
「じゃあなんで死にそうなんだよ」
「だって、だって! ……むしろどうして、松田くんはここまで気にかけてくれるの? 私が研二くんの彼女だから? 私が死んだら後味が悪いから?」
 私の言葉に松田くんは黙り込んだ。ほら、図星なんでしょう? 研二くんが生きていた時にはそんなに関わりがなかったのに、研二くんが居なくなって、どうしてそんな。
「もう、放っておいて……」
 突き放す気力さえ今の私にはないの。だからお願い、興味のない私のことなんて、放っておいてよ。
 松田くんは何も言わない。冷たい床に座り込む私をただただ見下ろすだけで。サングラスをかけているせいでその目は見えないけれど、雰囲気を感じとるにきっと冷たい目をしているんだろうことが予想できた。
「また来る」
 暫くの沈黙のあと、何を思ったのか松田くんがそう呟いて帰っていく。放っておいてって言ったのに。
 いつの間に鍵を持っていたのか、きちんと施錠される音が響いて、私はそのまま床に倒れ込んだ。
 もう、なにも考えたくない。どこかで私を呼ぶ研二くんの声が聞こえたような気がして、全てを遮断するように目を閉じた。
「けんじくんに、あいたい……」
 心の底からの願いは、静かな部屋に溶けて消えた。


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