09.私の知らない萩原研二くん


 松田くんは、あの呟きの通りまたやって来た。放っておいて欲しいと言ったにも関わらずに、何度も、何度も。季節が変わろうとも、松田くんは変わらずやって来た。
 だけど何度松田くんが来てくれたとしても、おもてなしする気力もない私はただ座って彼を眺めているだけだった。それでもいい、と松田くんは言っているみたいに、来ることを辞めない。
 何も食べようとしない私に、食べやすいような食事を運んでくれる。どれだけ体が拒否しようとも松田くんは根気よくちゃんと食べるまで見守ってくれる。
 ちゃんと寝れてなくて目の下に濃い隈を作る私に、ちゃんと寝ろよ、と言ってくれる。時折彼の持ってきてくれるご飯を食べたあと強烈に眠たくなる理由には、なんとなく気付いていたけれど。それは松田くんが私を心配してくれているからだってわかってるから、私から聞いたことは無い。
 何年、こんな生活を続けるんだろう。
 研二くんが居なくなって、既に一年と少しが過ぎた。
「松田くん、は」
「……おう」
 ずっと喋らなかったから、声が掠れてしまっていた。小さな声を聞いてくれた松田くんが動きを止めて続きを待っている。
「研二くんが、居なくなって、つらくないの?」
 ガシャン! 大きい音が耳を劈く。なんの音かはわからない。音の正体を確認する気力なんて、どこにもない。
 松田くんの低い声が私の名前を呼んだ。普段よりも、低い声。きっと、怒ってる。
「オイ」
「だって、だって松田くん、普通だから」
 私よりも長い時間を過ごしていたはずの松田くんが、あまりにも悲しんだ様子を見せないから。だから余計に、私が可笑しく見える。
「俺は、ハギが言ったように仇を取る」
「……そっか」
「それが冗談だったとしても、最後にハギが言ったんだ。それを守る」
「だから、私にも幸せになれって言うの?」
「……それは」
 口ごもる松田くんを、私はようやっと視界に入れた。ちゃんと笑っているように。そう見えるように、口元を上げて、松田くんを見る。サングラの向こう側で、驚いた顔をした松田くんがいた。
「ごめんね、松田くん。私、どう頑張っても幸せになんてなれないよ」
 だって、幸せにしてくれる研二くんが居ないんだもん。

 隣にいてくれるだけで良かったんだと、居なくなってから気が付いた。それまでは言葉を交わせることとか、彼の視界に私がいることとか、私に向かって笑いかけてくれることとか、そういうことが幸せなんだと思っていたけれど。だけど、例えそれらが全てなくたって、ただ隣に居てくれるだけで、私は幸せで居られたんだと。
「……どうして、こんな所に連れてきたの?」
「仕事以外で外に出るのも必要だろ」
「私には、必要ないよ」
 一週間頑張って生きているフリをして働いて、やっと家に篭もれる週末が来たと思ったのに。朝一番に松田くんからの着信があったと思ったら『外に出れる服に着替えとけ』なんて。
 言われた通り最低限身なりを整えたと思ったら、動かない私の腕を引いて車に乗りこみ暫く走らせて、辿り着いたのは懐かしい母校だった。
 流石にいくら卒業生だとしても休日に中に入ることは出来ないから、学校の近くに車を停めて正門の前で並んで立つだけ。
 大きい校舎を見上げる。記憶にあるものより少しだけ汚れたように見える建物が、それだけ時間が経ったことを教えてくれた。
「いい事、教えてやろうか」
「……研二くんの、こと?」
「おう」
 今更思い出話に花を咲かせようと? どれだけ時間が経っても消えない傷をそのままに、楽しく昔話なんてできるわけが無いのに。
 何も返さない私を彼は一瞥して、そして、独り言のように話し始めた。
「アイツ、あんたに告白された時すげぇ嬉しそうに報告してきたんだよ。ハギ、ずっとあんたのこと好きだったから」
「……そう」
「すげぇ浮かれて、そっから手を繋ぎたいだのキスがしたいだの、いちいちこっちに言ってきて。どうすりゃいいってんなもん知らねぇよ」
 何それ。私、知らない。
 付き合い始めた最初はすごくスマートで、慣れてるんだなぁ、なんて悲しくなったりして。だけど、お互い思っていることを伝えたあの日から確かに近付いた距離にそうじゃないんだと気付いて。だけど、だけどそんなこと知らない。
 研二くんが松田くんに相談してたなんて、聞いてない。
 私の知らない研二くんがいる事が、嫌だ、なんて。
「あんたに避けられてた時とかすげぇ面白かったぞ。あんなに顔が死んだハギは見たことねぇわ」
「…………ぜんぶ、知ってるんだ」
「そりゃな。全部筒抜けだぜ」
 校舎を見つめていた松田くんが、私を見る。サングラスのむこうがわに見える瞳が、しょうがないなぁと言うように細められていて居た堪れない気持ちになる。
「警察学校の時もやばかったぞ、アイツ」
「そう……」
 詳細をきく気にはなれなかった。だって、それは私の知らない研二くんだから。
 研二くんはもういないのに、そんなの聞きたくない。だから言葉を続けなかったのに、私の気持ちなんて知らずに松田くんが話始めようとするから。私は思わず両耳を塞いで、その場にしゃがみ込んだ。
「やめて……おねがい、聞きたくない」
 イヤイヤと塞いだまま首を振る私は、側からいたら変な人なんだろう。とうに成人した女が、嫌だと駄々をこねている姿は。
 松田くんは何も言わずに私を目線を合わせて、そっと私の両手を取った。
 やだ、いやだよ。聞きたくない、知りたくないの。おねがいだから、言わないで、
「悪かった」
「……へ?」
「言わねぇよ。そんなに嫌がると思ってなかった」
「…………ごめん、ごめんなさい。もう一年経つのに、」
 居なくなるところを目の前で見ていたと言う松田くんよりも、前を向けなくてごめんなさい。
「別に、人の傷なんざ人それぞれだろ」
「……うん」
「……ただ、いつかは言う。あんたには知ってて欲しいんだ」
「うん、うん。もうすこし、時間をください」
「帰るか」
 松田くんのその一言で私たちは車に戻る。行きは無理やり乗せられたから助手席だったけれど、居心地が悪くて後部座席に座り込んだ私に、松田くんは何も言わなかった。

 あれから松田くんは私を外に連れ出す事をしなかった。だけどやっぱり定期的に家に来ては、私の世話を焼いて帰っていく。
 話をすることもあれば、お互い何も話さず帰っていく時もある。松田くんがやってくるのはいつも休日だった。つまり、カレンダー通りのうちの会社に合わせて、土曜日か日曜日のどちらかにやってきてはだいたい一週間持ちそうなご飯を置いて、簡単な片付けをしていく。
 研二くんがいなくなった当初は洗濯物まで面倒を見てくれていたけれど、流石にそれはわるいと思って自分でやるようになったから、これは小さな進歩だったのかもしれない。
 ピンポーン、と呼び出し音が鳴る。
 松田くんは合鍵で勝手に入ってくるし、荷物が届く予定もない。だとすれば何かの勧誘か、と当たりを付けて、それならと無視をする。二、三回無視を続けていれば帰っていくだろう、と思って。
 だけど何回無視をしても決められたテンポで鳴り響く呼び出し音に、ついに出てみればそこには研二くんにちってもよく似た女の人がいた。
「……千速、さん?」
『お、やっと出たか。暇なら今から私と出掛けないか?』
「えっと……、準備、します。ロック外しますね」
『ああ、ありがとう』
 エントランスのロックを解除して、慌ててケータイを確認してみるけれど、新着メールは届いていなかった。
 二度目の呼び出し音が聞こえて、玄関に向かう。つまみを回して扉を開ければ、綺麗な女の人が立っていた。
「こんにちは」
「こんにちは。突然悪いな」
「い、いえ。散らかってますけど、どうぞ」
「お邪魔する」
 片付けはできていないけれど、そもそも汚してもいないから見られても大丈夫だろう。
 リビングに千速さんを通して、ソファで待っていてもらう。あまり待たせてしまうのも悪いので最低限外に出られる格好に着替えて、薄くメイクをする。リビングではスマホを見ている千速さんがいた。
「お待たせしました」
「早いな」
「あんまり待たせるのも悪いと思って……」
「気にしなくていいのに。ところで、映画は好きか?」
「映画ですか? 嫌いでは、ないです」
 千速さんは私の反応にそうか、とだけ答えて立ち上がる。そのまま玄関に向かって歩き出すので、私はケータイと財布だけ入った小さな鞄を掴んで後を追った。

「ここ……」
 連れてこられたのは、家の近くではなく地元にある小さな映画館だった。
「たまにはこういう所もいいだろ? 何か気になる映画はあるか?」
「……ごめんなさい、最近のはわからなくて」
「わかった。適当に選ぶぞ」
「はい、お願いします」
 学生の頃何度か訪れたこの場所は、記憶とあまり変わらなかった。懐かしい気持ちを抱きつつ彼女の後ろをついていく。
 私の意見を聞きながらも千速さんは目当ての映画が最初からあったのか迷う事なくチケットを購入していく。お金を返そうとすれば遠慮するなと受け取ってくれなかった。
 千速さんが選んだ映画は、ベタな恋愛ものだった。
 そして、私はその内容を知っていた。
「それ、昔小説でありましたよね」
「知ってるのか?」
「はい。……学生の頃に読みました」
「そうか」
 確か、あれは、そう。
 私が研二くんを好きになった時だった。
 恋愛初心者の私が初めて人を好きになって、気持ちがふわふわとした流れで登場出会い人気だった恋愛小説お購入したんだった。思い出の品として今の家にも持って来ている。
 もうかなり昔に一度だけ読んだだけの物語。あまり記憶にないだろうと思って見た映像は、小説の内容にかなり忠実に創られていたのか見ている内に思い出したこともあって懐かしい気持ちにあってしまった。
 ……それに、当時の私のことまで思い出してしまって、ぎゅっと胸が締め付けられた。
「……昔」
「はい?」
「昔、研二が図書館で借りてきたことがあったんだ」
「……研二くん、が?」
「そうだ。趣味でもなければそんなに小説を読まない研二がな」
「珍しいですね」
 私の知らないエピソードだから、きっと付き合い始める前のことだ。……付き合い始めてからも、私の知らない研二くんはいたけれど。
 松田くんに母校まで連れてこられた時の会話を思い出して苦い顔になってしまった。千速さんは特に気にした素振りもなく続ける。
「面白がって聞いたら、研二のやつ、好きな子が読んでたから≠チて答えたんだ。その時は好きな子の好きなものを知ろうとする心があったんだなぐらいいしか思っていなかったんだが」
 千速さんが、私を見て優しく微笑んだ。暖かい眼差しに、心が苦しくなる。
 そんなの、私じゃないかもしれないのに。だってあの時、この小説はかなり流行っていて、女の子だったらだいたいの子が読んでいたのに。
 口を開こうとして、固く閉じることしかできなかった。何て言えばいいのか、わからなくなってしまった。
「あの時、特に好きでもなかったくせにどっぷりハマってな。でも研二は文字よりも映像の方が好きだから、ドラマか映画にならないかとよく言ってたんだ」
「……映画に、なりましたね」
 研二くんは、もういないけれど。
「あぁ。あいつも、見たいだろうな」
 いない。いないのに。もう、どこにも、いないのに。
 私より少しだけ背の高い千速さんが、私の頭を撫でる。優しい撫で方に、慣れていることを察して、研二くんも昔はこうやって千速さんに頭を撫でられていたんだろうかと考えた。
「忘れろ、なんて言えないさ。研二が最後に残した言葉のことも聞いている。だから、私からは忘れろ、とも。あいつの代わりに幸せになれとも、言わない。ただ、」
 言葉が区切られた。
 目の奥がじん、と熱くなる。
「飽きるまで、研二のことを愛してやってくれ」
「……はい…………!」


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